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【短編小説】明暗なき所在

 光になることの意味を、彼女はまだわかっていなかった。
 母の不倫で両親が離婚し、父に引き取られてから、スーシャは貧しい家に育った。喪失感から父は酒に浸り、仕事も時々ふらっと行くだけだった。
 汚れた身なりで学校に行っていたスーシャは、他の子供たちにからかわれ、のけ者にされた。十歳だった。乾いた泥と雑草ばかりのだだっぴろい農道を歩いて一人帰る時、途方もない孤独が押し寄せてきた。かといって不満をぶつけても、弱った父の心が耐えられないのは理解していた。
 不安にまみれそうになると、彼女はよく歌を歌った。誰もいない畦道で目いっぱい声を出すと、胸のすく思いがした。歌っている時だけは、まともに生きている心地がしたのだった。
 いつしかスーシャは歌手になろうと決めた。
 十三歳になった頃、学校に行きながら働きはじめた。まともに取り合ってくれるところは少なく、ゴミ掃除や草刈りなど、やれることはなんでもやって金をかき集めた。それを知った父が金を使い込んだ時も何度かあったが、その度にショックを受けながらも、スーシャは立ち上がった。逆境が彼女の心を不屈へと変えていった。
 五年が経ち、ようやくスーシャは家を出た。父は何も言わなかった。夜はパブで働き、昼間は歌のレッスンとオーディションに明け暮れた。安アパートでの暮らしは質素だったが、ただ夢に向かっていく日々は苦しくとも楽しいものだった。
 深夜番組のワンコーナーに出演したことをきっかけにデビューが決まると、スーシャは注目を集めた。既存の歌手にルーツを持たず、純粋に魂が乗った歌声は多くの人を魅了した。客前に立ち、プロの顔つきへと変わるにつれ、潜在的に持っていた美貌が露わになった。
 そこから彼女の人気は加速した。
 チャートの一位を独占したことを皮切りに、全国ツアーを成功させ、数々の栄誉ある賞を受賞した。トップになってもスーシャは休みなく歌い続けた。それは二十八歳でプロデューサーと結婚してからも同じだった。
 幸せな生活は四年続いた。

 淡い日が差す穏やかな冬の朝、ちょっとした食糧品を買おうと、スーシャは車に乗って出かけた。
 信号待ちをする彼女めがけ、一台の車が突っ込んできた。制限時速を四十キロもオーバーしていた。スーシャの車は爆発炎上し、彼女は顔面に激しい火傷を負った。
 一命は取り留めたが、ただれた皮膚は最新鋭の美容整形術とメイクでも隠せず、顔全体に潰れた肺胞を貼りつけたようだった。
 それでもスーシャは復帰しようとした。幸いにして、火傷は歌声に影響を及ぼさなかったのだ。彼女はどのような姿になっても、歌の力を信じていた。かつて歌に救われた頃の自分を思い出していたのだった。
 周囲の反対を押し切り、彼女はステージに立った。復帰を心待ちにしていたファンは、スーシャが現れたその瞬間こそ沸き立ったが、いざ姿を目の当たりにすると直視できなくなった。以前と同じ歌声が、変わり果てた相貌から放たれているのは異様な光景だった。
 ファンは激減した。スーシャには心ない誹謗中傷が無数に届けられるようになり、出演予定だったイベントはキャンセルが相次いだ。そんな中、彼女を愛せなくなったことに苦悩する夫を解放しようと思い、スーシャは別れを決めた。また一人になった。
 スーシャはステージに立ち続けた。
 場末のバーでも、見せ物小屋でも、呼ばれればどこでも行った。好奇の目と嘲笑に囲まれることも多々あったが、不屈の魂が乗った歌声は冷やかしをもかき消した。
 十年経ち、まだ地道な活動をしていたスーシャは、福祉団体からインタビューを受けた。これが大きな反響を呼び、己の半生を綴ったエッセイはベストセラーとなった。勇気をもらったという声が寄せられた時、スーシャは涙した。
 再びイベントやツアーができるようになった。全身全霊で歌い続けた。数多の痛みから復活した彼女の歌は、自らの不遇に苦しむ人々に光を与え、いつしか彼女自身が光となっていた。
 六十歳で、喉の不調から引退を決意した。満足な歌声を出せなくなっては、プロでいられないと判断したからだった。最後のライブの日、スーシャは会場の出口に立ち、一人一人に頭を下げた。
 その中で、年頃の少女が近づいてきた。目深まぶかにフードを被っていたが、顔の大きなアザがちらと見え、自分と似た境遇なのかとスーシャは思った。
 少女はくぐもった声で言った。
「あなたのせいで、逃げ場をなくした」
 深い憎しみのこもった瞳に射すくめられ、スーシャは何も返せなかった。家に帰り、これまでの歌手としての人生を振り返って感慨に耽る間も、少女の言葉が胸に詰まっていた。あれはどういう意味だったのかと自問しても、返事はなかった。

 スーシャは郊外に小さな家を買い、数十年ぶりにゆっくりとした時間を過ごした。これからは緩やかな日が続いていくと思っていた。
 ふと生活用品を買いに街へ出かけた彼女は、店員がどこかよそよそしいのを感じた。一向に目を合わさず、気まずそうに苦笑を浮かべるのだ。そんな店員もいるのだろうと思ったが、どこへ行っても同じだった。
 しばらく後、部屋の鏡を見て、スーシャはその理由にようやく気付いた。
 自分が歌手をやめたからだと。
 歌がなくなった自分は無価値なだけでなく、醜怪しゅうかい極まる存在でしかないのだと。
 同時に少女の言葉の意味がわかった。
 顔の傷からスーシャは日陰者となり、それでも諦めなかった末に、とうとう復活を遂げた。その姿は美しく、多くの人に感動をもたらした。
 そこで少女にはこのような視線が向けられる。
「あの人があんなに頑張ってるのに、君はいつまでそうしてる?」
 スーシャはむせび泣いた。取り返しのつかないことをした自責の念は尽きることなく、胸を締めつけた。
 何日も悶え苦しんだが、結局何をどうすればいいかわからず、彼女は学生時代の恩師に連絡を取った。家庭と金銭面に悩みながら夢を追うスーシャを親身に支えた、ヤンという教師だった。
 彼女がヤンの家を訪ねると、彼は車椅子に座っていた。
「よく来たね」
 齢八十を超えたヤンが笑うと、顔いっぱいに刻まれた皺が深くなった。数年前に妻は他界しており、日当たりの良い家に彼は一人で住んでいた。
 思い出話に花を咲かせた後、スーシャは少女のことを語った。口は重かったが、かつて悩みを打ち明けた時と同じ穏やかなヤンの表情に、いくらか気が休まった。
「私がそうだったように、人々が歌で希望や勇気を感じてくれればと思っていました。でも、まったく逆のことをしてしまった気がして」
 ヤンは「ふむ」と言って、カーテンを閉めるようスーシャに頼んだ。
「例えば君が冷たい闇の中をさまよっているとしよう。遠くに暖かな光が見えたらどうするね?」
「それは、光の方に向かいますわ」
「多くの人がそうするだろうね。でもその少女にとって光は眩しすぎた。闇の方が居心地が良かったんだ」
「つまり、やはり私が彼女を白日の下に晒したと」
「そうだ。しかし一方で君に救われた者も大勢いることだろう。いいかい、それは忘れてはいけないことだ」
「でも、だからといって」
「ああ、僕も慰める気はない。少女のことは君がずっと背負っていかなくちゃいけないよ」
 はっきり言われ、スーシャはじくじくと罪悪感に苛まれた。同時にヤンに感謝もした。
「光は、善にも悪にもなるのでしょうか」
「受け手に依ればそうだろうね。しかし本質的には善いも悪いもない。それは闇だって同じことだ。闇があるから光を当てられる。光があるから闇を照らせる。光と闇に善悪も優劣もないんだよ」
 腑に落ちた答えが心の奥で小さな活力になろうとしているのを、スーシャは感じた。彼女の様子を見てヤンも微笑んだ。
「先生は、どちらを必要としていますか」
 スーシャの問いに、ヤンは妻の写った写真立てを見やり、車椅子の肘掛けを手のひらでなぞった。
「どうだかね……僕にはまだわからない。ただ近ごろは少し見えてきたところさ」
 意味を計りかねる彼女に「大丈夫だよ」と声をかけ、ヤンは握手を求めた。
「君のこれからに、幸多からんことを」
 その一ヶ月後、彼はこの世を去った。
 ヤンの墓前に手を合わせ、スーシャは動きだした。
 歌手として稼いだ私財を投げ打ち、闇から光へ出たい人、闇のままいたい人たちがそれぞれ自分らしく生きられる場所を作ると決め、会社を立ち上げた。
 希望と適正に合わせた技能の修得や働き口のサポートと、何より人との関わり方を自由に選べる暮らしを実現させるため、世界中から優秀な人材を集めはじめた。
 困難の連続だった。自分が描く夢など絵空事に過ぎないのではないか、独りよがりじゃないかと思うこともあった。それでもスーシャの芯には諦めない心が宿っていたため、何度でも立ち上がった。最後にはスーシャの人柄と熱意に打たれ、大勢が力を貸してくれることとなった。
 長い年月の中で、彼女の会社は幾度も柔軟に形を変え、子供たちの健やかな育成と、平等な権利を守る活動へと行き着いた。収益は微々たるものだったが、細々と長く経営は続いた。

 今、スーシャはベッドに横たわっている。周りにいる子供たちは医者の話を聞くと涙を流し、悲嘆に暮れた。
 まったく眠くないのに、もう二度と瞼は開かないのだと、彼女はわかっていた。
 とうとうあの少女との再会は叶わなかった。これまでやってきたことが正しかったのかどうか、スーシャに知る術はない。
 ふいにヤンのことを思い出し、スーシャは考えた。
 自分には、真にどちらが必要だろうかと。
 振り返れば、光と闇は常に付き纏っていたように彼女は感じた。そのことに終わりはあるのかと思った。
 もしも自分に「これから」があるのなら、願わくば――。
 考えるうち、スーシャの意識は日なたの雪のように溶けはじめた。次第に形を保てなくなり、液状になってしまうと、深淵へ流れていった。
 肉体が失われ、茫洋たる川の一部となった時、彼女は限りない安らぎを得た。

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