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ガスと晩餐

やはり、「映画でも観ようかな」と思った時は、とりあえずNetflixを開いてしまうものだ。あのサブスクリプションというものは、たいへんに便利だ。毎月1000円ちょっと払うだけで、一生かかっても消費しきれない量のコンテンツにアクセスできるのだからたまらない。わざわざTSUTAYAに足を運んで、棚の端から端まで舐め回し、ようやくのことで絞り込んだ何枚かのDVDを手に、財布とにらめっこしながら、どれを捨てるべきか1時間も2時間も吟味していたあの頃を思うと、夢のような世界だ。高校生の頃にNetflixがあったなら、全身がふやけるほどどっぷりと浸かりきっていたに違いない。

でも、Netflixに入っていない映画を観ることはなかったかもしれないな、とも思う。だって、あれだけたくさんの映画が観れるのに、どこの誰が、何が悲しくて、1本の映画のために金を払うだろうか。

そういうときに思い出す、1本の映画がある。「GERRY」という映画だ。たしか、高校生の頃、渋谷かどこかのミニシアターで観たと思う。どことなく中世ヨーロッパっぽい雰囲気の映画館だったような気がするけど、どこだったかな。たぶんもう閉館してるんだろうな。

この「GERRY」という映画、グッド・ウィル・ハンティングやミルクで有名なガス・ヴァン・サントの作品であるが、これがまぁとんでもなく退屈な映画であった。僕は、こと映画となると忍耐強い人間で、どんなに退屈な映画でも、きっと面白くなるに違いないと信じ、太ももをつねりながら観続けるタイプの人間なのだが、この「GERRY」に限っては、実にスヤリと寝てしまった。

あれは、主人公のジェリーがひたすらに砂漠を歩き続けるシーンであった。スクリーンいっぱいに砂漠の風景が広がっていたのを憶えている。スクリーンの左端からのっそりとジェリーが現れて、ゆっくりゆっくりと歩いていく。ジェリーは体力の限界にあって、いつ倒れてもおかしくない。一歩一歩に生命の限りを尽くしている。この砂漠の先のどこかに必ずあるはずの希望。それが、唯一、絶望の淵にある彼の身体を動かしているものだ。そういうシーンだったのだけれど、ガス・ヴァン・サントが何を考えたのか知らないが、とてつもない遠景から撮っているものだから、ただでさえ遅いジェリーの歩みは、輪をかけてカタツムリのように鈍い。いつまでも進まないダウンロードのステータスバーの如く、永遠にも感じられる時間が流れる。しかも、ガス・ヴァン・サントのことだ。どうせ、ジェリーは、生真面目に、スクリーンの右端まで歩いていくに決まっている。ああ、これはどう頑張っても寝てしまうな、と当時の僕は確信し、心地よい眠気に身を任せた。

正直、あの映画の結末がどうなったのか、そもそも終わる前に目が覚めたのか、全然覚えていない。けれど、あのシーンはとても印象に残っている。終わりなき砂漠の中で、ジェリーが体の奥底で感じながら、必死に抗っていたであろう死の甘い誘惑。それがちょうど、心地よい眠気とクロスオーバーしたのかもしれない。まぁ、理由はよく分からないけれど、とにかく、GERRYのあのシーンは、僕の中に、彗星の如く足の長い余韻を残している。

もしあの頃Netflixがあったなら、僕はきっと、GERRYを観ることはなかった。魅力的なコンテンツが洪水のように押し寄せる中で、わざわざ金を払ってあれほど退屈な映画を観る理由が、一体どこにあると言うのか。

でも、そんな、Yahoo!映画で5点中2.25点という評価を受けるような映画だとしても、どこかの誰かに、特別な何かを残すかもしれない。そういう不思議もあるのだということを、僕らは、案外忘れがちな気がする。

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