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君にとっての知性とは?

半年ぶりに再会した友人がいる。その友人とは中学生の頃からの付き合いだ。当時、一緒に委員長をしていた。

彼はその頃から非常に頭がよく語彙も豊富な上、現状に満足せず内省を繰り返す人だった。彼はそれを自覚していないようだが。いや、自覚していないのではなく、そう思わないようにしているのかもしれない。

おまけにギャグセンも高い。話すスピードもテンポ感も面白い。ただ、私は笑いのツボが浅い。

それを伝えると彼はいつも「普段面白くないやつとしか話してないんじゃないの」と言った。たしかに私は単純なことで笑ってしまうけれど、彼は本当に面白い人間だと思う。

中学生の頃の私と彼は、周りの人よりやたら悩み、病んでいた気がする。その原因や内容は全然覚えていないんだけど。彼は頭がいいから、周囲の人たちより視野が広かった。その年齢にしては見えすぎてしまうものについて悩んでいたんだと思う。

彼とのLINEを遡ると、基本的にカレーの話しかしていない。「美味しかった」とカレー屋さんの写真を急に送り「私・俺も食べたい」とか、「いいカレー屋さん見つけた」と情報を送り合う。それも頻度はまちまちだった。

もしくは、電話するする詐欺。「○時に電話かける」「寝てるんよ」「今日電話かけるかもしれないしかけないかもしれない」「了解」そうやって実際、電話をかけあった記憶はない。気の置けない関係だ。


前回会ったのは今年の頭だった。今回は昼にカレーを食べに行った。カレーにやたら詳しいのも面白かった。よく行くカレー屋さんや、通いたくなるお店の特徴などについて話した。

3時間程度だったけれど(毎回会って話すのは2~3時間)、いつもより充足感が強く「忘れたくない!」と思ったので残しておこうと思う。

下記、印象的だった話をざっくり書いたので、気になるところを目次から飛んで読んでみてほしいデス。
※思い出したエピソードがあれば加筆修正アリ



Q.君にとっての知性ってなに?

彼が出会った人の話をしているなかで「知性を感じる」という言葉が出てきた。

「語彙がただ数多くあるだけじゃ、知性を感じない。語彙力って、知っている言葉の数じゃなくて表現力のことだと思うんだけど、言葉をどう使うのかに知性を感じる。これはもう初対面でわかる。たくさんの経験をして、たくさんのことを考えてきたんだなって、初対面でわかる。」


Q.君にとって人間の深みってなんだと思う?

「たとえば、明日仕事で怒られることが確定していたとする。前日の夜にどうしようかと対策を考え、できる限りのことをして寝ようとする。眠るときに悶々とするし、あぁ怒られるの嫌だな、と思う。でも怒られることは確定している。そうやって、どうしようかなって考える経験の数が多ければ多いほど、深い人間になっていくんだと思う。」

「それは長さ?回数?」

「回数回数!嫌な気持ちが長いのは嫌じゃん笑 でもそうやって、自分にとって嫌なことがあるってわかっているときにどうしようか、って考えると思考力が身に付く。それを重ねていくことが深みになっていくと思う。」

“嫌なことがあるってわかっているとき”というところがポイントなんだろうな。


Q.自分とこの人、相性がいいな、と感じるのはどんなとき?

「話の聴き方。なにより相槌の打ち方だと思う。相槌の打ち方が上手な人と話すと、ちゃんと会話が折り重なって、会話が成立しているように感じる。それがうまくいかない人は、折り重なったとしても崩れちゃって、結局平らなままだったりする。」

互いが繰り出してミルフィーユになっていくような印象を受けた

Q.言語化はどうやって意識してる?

「俺は紙に書き出すとか文字に起こすとか、そういう言語化の仕方はしてないけど、こうやって人とたくさん話すよ。口にすると、相手からフィードバックをもらえるじゃん。「私はこう思う」だとか共感だとか。その自然発生したフィードバックを何回も何回も自分の中で反芻して、改めて思考して、言葉や表現や自分の思考を確かめてる。」


自分の価値は否定しない

「俺は聡明ぶるのが上手いって言われる。」と言っていた。私はそれは褒め言葉だと思った。

「俺は別に頭がいいわけじゃない。高学歴というわけでもないけど、世間的には大企業に勤めることができてる。学歴だけじゃとてもじゃないけど今いる会社にはいられるはずがないほど俺は頭が悪い。今この場所にいられるのは、学歴だけじゃなくて自分を紹介できるスキルとか、思っていることを言語化できるだとか、、自己アピールが人よりできるからだと思うんだよね。その自分に備わっている価値は否定する必要がない。それが無くなったら俺には何にも残んないんだし。」と笑っていた。

私は彼が、自分が持ち得る要素を価値だと認められていることが素晴らしいと思った。


自分はどのような時間の使い方をするのか

「雇用形態に関わらず、みんな自分の時間を切り売りしているだけ。そうやって切り売りする時間を自分がレベルアップできる仕事に使いたいのか、なんとなく指示された仕事に使うのか。どんなことに自分の時間を使うのか。どっちが悪いとかじゃない。本当にただ自分にとって合う合わない、ただそれだけの話。だけど、自分の時間を切り売りしている事実は忘れないようにしたい。」


教養の育ちやすさについて

彼とはよく、都会と田舎の違いについて話をする。都会と田舎の違いのひとつに、“教養の身につきやすさ”があると思う。芸術に関する広告の量も圧倒的に違うという気づきを挙げていた。その情報を仕入れたところで行動に移しやすいのも、都会のメリットだ。

漫画でもアニメでもいい、小説、ドラマ、映画、Twitterのツイートでも良い。誰かが生み出した作品に対して、「自分が何を思うのか」それが一番大事なことで、善し悪しではない。

何か作品に触れて、「面白くない」「最近人気だけど何が良いのかわからない」と感じる。それでいい。何が面白くないと思ったのか?自分には良さがわからないが、なぜ巷では人気なのか?そこを考えることが思考力を磨く方法で、アートや作品に触れ教養を身につけることで思考力は格段に磨かれるんじゃないか、と話した。

あまり“作品”そのものに触れさせない家庭もあるかもしれない。それは意図的に触れさせていないのかどうかはわからない。親そのものに教養がなければ、幼いうちに作品に触れさせる機会も無いだろうから、思考力や素養が身につきづらいかもしれないね、と話した。子どもの頃からなるべく多くの作品に触れていると、なにか感想を持つようになる。その感想を持つことこそが思考の結果であるなら、作品に触れる触れないも本人の自由ではあるが、作品に触れた方がより豊かな心を持ち教養が育ちやすいだろうね。それはあるなあ。という話をした。

初めはTwitterのツイートとか、なんでもいいんだよね、興味を持つのは誰かの何かに触れることから。それが思考の始まり。

「それでも環境を変えようと動くか動かないかは自分自身の問題だし、教養は自分で身に付けていかないとね。それも時間の切り売りで、どこに時間を充てようとするかなんだよな。」と話していた。


鉄でできた渦

「扉が閉じることで人はどんどん狭い世界に閉じこもっていくわけじゃないんだよ。刺激の少ない場所で現状維持を図る人は、どんどん内に巻き込まれていく。」と言っていた。

イメージを絵に起こせなくて悔しい〜〜

「どんどんどんどん巻き込まれていき、自分がその渦の外に出ようと思った頃には身動きが取れないどころか、どう足掻こうと出られなくなっているんだよ。」と言った。

私はその話を聞き、そうなった人たちは外に出られるチャンスがあっても「これまでこうやって生きてきたから」と言うだろうと思った。

私はその内巻きに巻き込まれていくものは鉄のような、硬くてびくともしないようなものに思えるな、と言うと「まさに、そのイメージが湧くこと自体が教養が身についているっていうことだと思う!人が言った表現を受け取って、さらに自分はこう感じただとか、そんなふうに表現ができることが、教養が身についていて思考できるっていうことだと思う。」と言っていた。

「みんな幸せなままいようよ!世界が狭いままそれが居心地のいい人はそれでいいんだよ。だって幸せなんだから。内に巻き込まれていくことにも気付かないんだから。自分の今ある状況や、外の世界に一生気付かない人だっている。でもそういう人は気付かないまま死ぬんだよ。それはそれで幸せなことじゃん。その人たちはそれを選んでるんだから。でも俺らは気づいちゃうじゃん。気づかないとか無理じゃん。だって思考力があるから。なりたい自分にレベル上げしたいって思うでしょ?俺らの幸せはそうやって自分を磨いていくことだよね。どっちが悪いとかない。自分に合った幸せがあるってだけなんだよな。」

昔からはっきりしている。本当にその通りだ。彼と話していると自分が愚痴を言っているように思えてくるくらい、彼はすごい勢いでオールを漕いでいる。いつも前向きだ。自分のことを考え、自分を磨くことに集中するよう気づかせてくれてありがとう。

自分で自分を変えられる人の分かれ道を知った


一人称を選ぶ理由がある人

私は自分の一人称を選ぶのに理由を考えたことはなかったし、あっても言語化することを考えていなかった。
「私はそうやって一人称ひとつをとっても、その自分の選択に理由があるっていいなと思った」と言った。

彼は、「自分がどんな一人称を使うのか、見えてくる世界に理由を持とうとすることもその人の思考力からくる表現で、そういった表現をできることこそが尊ばれるものだよな。」

「こうやって、“尊ばれる”なんて表現も普段使わないし、それがわかる🐄だから俺はそう表現していいんだなって思える。その話(一人称について)は尊ばれる思考・表現だな、と思うよ。」

この世はやっぱり類友なんだと思った。思考の深さと得られたものに比例して、それに近い表現をしてくれる人が現れる。それに触れて心地いいと思える。

「素敵な人と出会って、褒められたり好かれたりすると、ハハーン俺ってもしかして素敵なんじゃね?とか思うよな!いいのかな、こんな素敵な人に好かれて、と思うときもあるけど。」と笑っていた。

いいよ。
君はちゃんと素敵な人に好かれていい。


些細なテキスト表現

「文章って、句点を打つ位置で印象や表現の仕方が変わるじゃんか」と話をした。

彼は「めっちゃわかる!俺はLINEで“俺”って打つときも、漢字のときとひらがなのときあるでしょ、それはその話の流れとか、文章をぱっと見たときにこっちの方がいいなって感覚で使い分けてる。」と言っていた。

使い分けていることに気づかなかった。漢字に変換するのが面倒なのかな、なんてぼんやりと思っていた。おそらく、相手に与える印象を意識しているな、と思った。


彼が見つける私の優しさ

「あ〜この漢字読めないかもしれないな〜と思う相手にはひらがなに変えて送ったりしてたな〜」と言うと、「🐄は自覚していないだけで、そうやってこの漢字読めないかも、と思う相手にはひらがなに変換して伝えようとすることそのものが🐄の優しさだよ。そういうのが、思考力があって、教養があって、賢さからくる優しさなんだと思うよ。」などと言った。

褒めるのうま〜〜〜!!!
また自分の良いところを気付かせてもらった。


サイクルをうまく回して自分を深める

「やっぱり久しぶりに君と会うと、コンフォートゾーンに馴染んでしまっている自分と、本来やりたかったことの再確認ができていいなと思うよ。」と私は言った。

「そうだよね、こうやって自分が考えていることや目標を話し合うことで、新しい発見だとかこれでいいんだって思える感覚とかってあるからたまに話せるといいよね。俺はそうやって話せる人のことまじで大事にしなきゃなって思うよ。でも安心していられる場所から無理に刺激を求める必要はないと思う。確実で揺らがないことを確認してからで遅くないと思う。」

「俺にとって、教養のない人とは“話すこと”がない。こうやって深い話のできる相手ってなかなかいないし、俺は出会った人全員にこんなこと話すわけじゃないよ。こんな大事でエネルギーのいること誰にでも話すわけないじゃん笑」と言っていたので、自分がこんな話をしてもらえる人間にならないと、そもそも深い対話をスタートするところまでも行きつかないんだろうなと思った。そりゃそうだよなあ。


恋愛をするための大前提、及び最低条件

彼とは概念的に恋愛の話はするけれど、お互いの恋バナをほとんどしない。自分の例を持ち出すこともほとんど無い。

恋愛をする上で、相手を選ぶときに教養が身についている相手であることは最低条件。ただ、それほどまでに「面白いなその思考!尊敬できる!」とまで思えても、必ずしも恋愛的に好きになるわけではない。」

ただ、土台には教養が確かにあり、その上に相手への好意が重なったとき、人として尊敬できる上に異性として相手を見るスタートに立つね。好意は思考力などとはまた別のところに存在している。と話した。

思考力があることは恋愛をする上で大前提・最低条件。
この条件を満たして初めてこれから関わっていく人かどうかが決まる。
思考力や教養があるからといって恋愛的好きになるとは限らない。

これほど彼の言語化や思考力にたびたび目を見張り、いつも心のどこかに「彼ならこう言うだろう」と思える安心感もあるというのに、私はそこに恋愛的好意が乗っからないのだ。まさに、お互いにこの恋愛観から外れた人間ということだ。だから10年以上友人関係が続いているのかもしれない。


普段、私は周りの人たちよりも言葉や思考の流れや行動に起こすまでが速いな、と感じる。しかし彼と会うときはいつも、自分が小川のせせらぎのようにゆったりしているように感じられる。

それほど彼の思考は速い。言葉も速い。テンポ感も速い。彼はあえて自分がそういられる環境を選んでいるようだ。それが自分を成長させる術だと知っているみたい。

こうやって彼と話すと、コンフォートゾーンの輪郭がはっきりして、出たり入ったりを繰り返すことができるんだなと思った。彼は流れが速く勢いが止まることを知らない滝のような人間だ。滝に打たれるのは半年に1回程度がちょうど良い。

彼は自分の無能さや、頭の悪さを自覚しており、それを補うだけの努力をし、常にエネルギーを放出しながら前進しているように見える。しかし、それほど揺るぎなく自分に自信をつけ進んで行く様なのに、時折見せる彼の弱気な面が昔と変わっていなくて良いなと思う。彼は彼のままだ。たまにしか会うことはないけれど、彼なら大丈夫だろうと思う。

青すぎて、今よりももっと感性がしなやかだった思春期に、お互いなにかしらの悩みでもがき、なにかしら助け合っていたような気がする。もがきながらも、さりげなくいつも見守ってくれていたような気がする。
10代の頃、固められた土台の上に私たちが立っているのは確かだ。

普段この友人のことを考えることはないけれど、今回印象的だった話が多かったので彼との過去も振り返りつつ書き留めてみた。いつも思考内容についての話はしているけれど、今回印象的だったのはどうしてだろう。

年々、MBTI診断の結果が近づいていっているんじゃないかという仮説を立てている。昔はどうか知らないけれど、カレーを食べた今回は彼も私も広報運動家だった。


思考して初めて教養が身につく。

教養が身につくと自身の表現力が豊かになる。

自分自身や考えたことを表現豊かに伝えられると、他人に知性を感じさせることができる。

知性があるということは品性の良い人間だと判断される。

その品性が人間の深みの本質なのかもしれないと思った。

人間の深みは思考の数によって決まるのであれば、このサイクルが成り立つ。

思考→教養→表現力→知性→品性→人間の深さ→思考

また来年、会いましょう。

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