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小早川隆景に学ぶ交渉術 その2「羽柴秀吉と講和せよ」

「謀略の神」と呼ばれた毛利元就の息子で、元就が安芸(現在の広島県)の一地方領主から中国地方の覇者へと昇り詰めるのを助け、元就の死後はその後継者である輝元を支えた小早川隆景(こばやかわ たかかげ)。

豊臣秀吉や黒田如水(官兵衛)からも一目置かれた智将であり、活躍したエピソードには事欠かない人物ですが、その生涯を追いかけながら「交渉」という切り口で隆景の魅力に迫ってみたいと思います。

前の話はこちらから。

甥・輝元を支える

大内、尼子といった大勢力を次々と打ち破り中国地方の覇者となった毛利元就は、1571年に亡くなります。享年75。

元就の長男・隆景は父に先だって亡くなっていたため、隆元の長男である輝元が毛利家の新たな当主となります。毛利家は、当主・輝元を二人の叔父である吉川元春と小早川隆景がサポートするという体制で、戦国末期の動乱を迎えることになるのです。

織田信長との戦い

1576年、紆余曲折を経て毛利家は織田家と戦端を開きます。
大阪には織田家と敵対する本願寺勢力がおり、もともと毛利家は本願寺を支援するという形での参戦でした。

開戦直後の勢力図はこんな感じ。

陸においては現在の兵庫県あたりまでが毛利の勢力圏。
瀬戸内海の制海権は毛利が握っており、大阪で頑張る本願寺勢力に対して兵糧を海上輸送したりもしていました。

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が、羽柴秀吉率いる織田軍にじわじわと追い込まれ、1580年には大阪の本願寺も織田軍に降伏。
5年後には備中・伯耆ライン(現在の岡山・鳥取県)まで後退を余儀なくされます。

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この間、織田軍は東では甲斐の武田家を滅ぼし、関東の北条家も傘下に収めてさらに勢力を拡大。長期的に見て敗北は不可避と悟った小早川隆景ら毛利家首脳は、織田家との講和の道を探り始めます。

羽柴秀吉との交渉

かくして毛利と織田の講和交渉が始まります。織田側の交渉責任者は、軍の司令官でもあった羽柴秀吉。この時、秀吉率いる織田軍と毛利軍は、備中高松城を巡ってにらみ合っている状態でした(いわゆる高松城の水攻めです)。

両陣営の間を使者が行き来し、お互いの条件が出そろいます。

織田側の提示した条件は、現在の最前線である備中・伯耆ラインからだいぶ進んだ備後・出雲までを織田の領国とし、高松城の城主である清水宗治は切腹させるというもの。

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一方、毛利側は備中・伯耆までを割譲し、清水宗治は除名してほしいという要求を出します。

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かみ合っていません。さて、どうしたものか。

BATNA

ここで、交渉における重要概念であるBATNA(バトナ)をご紹介します。

BATNAとは「Best Alternative to a Negotiated Agreement」の略で、交渉が成立しなかった場合に取り得る選択肢のうちの最良のもの、という意味です。

具体的には、たとえばフリマアプリで服を出品している人が、10%値下げしてくれたら買いますよと持ち掛けられた場合。

もし出品者が

「ずっと売れなかった服で、この機会を逃したら誰も買ってくれないかもしれない」

と思っていたら、この条件を呑む確率は高いでしょう。一方

「これは人気商品だから、ここで売れなくても別の人が言い値で買ってくれるはずだ」

と思っていたら、丁重にお断りすることになるはずです。

出品者は「この交渉が成立しなかった時、自分はどうなるか」を考えて、それを判断材料にしています。これがBATNAです。有利なBATNAを持っていれば、交渉で優位に立つことができるのです。

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毛利と織田の交渉ポイントを整理

BATNAを踏まえて、毛利と織田の交渉を整理するとこうなります。

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交渉のポイントは領土をどこまで割譲するかと、清水宗治の処遇。

そしてBATNAですが、織田側には「武田征討から戻った信長の本隊と合流して一気に毛利領に攻め込む」という選択肢があるのに対し、毛利側には有効なBATNAが見当たりません。交渉が決裂したら戦闘続行ですが、信長本体が到着すればこれまで以上に毛利が苦戦を強いられることは目に見えています。

つまりこの交渉において、BATNAを持つ織田側は圧倒的に有利な立場にあると言えるのです。

本能寺の変、そしてBATNAは

しかし1582年6月、織田信長が明智光秀によって討たれ、状況は一変します。

織田軍の総指揮官・羽柴秀吉にとっての最優先課題は京に戻って明智光秀を討つことになり、領土も清水宗治の処遇も二の次になります。そして「信長本体と合流して決戦」というBATNAが消滅し、逆に毛利側に「明智光秀と示し合わせて羽柴軍を東西から挟撃する」といった可能性が生まれます。

つまり、羽柴はBATNAを失い、毛利が新たなBATNAを得たのです。
交渉の状況は大きく変化しました。

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しかし、そのことに気付いていたのは本能寺の変が起きたことを知った羽柴側のみ。毛利側は相変わらず自分たちが不利な立場にあると認識しています。

そして最終的にこの交渉は

「出雲・備後は毛利の領土のままとする」
「清水宗治は切腹する」

という形で決着します。毛利から見れば、領土は要求が通ったけれど、清水宗治については残念でした、という形になります。

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繰り返しになりますが、毛利はBATNAの変化に気付いていません。気付いていれば、清水宗治の処遇についても妥協はしなかったでしょうし、交渉そのものを蹴ることも十分に考えられました。

有利なBATNAを持つことと、それを認識することがいかに重要であるかという、非常に分かりやすいケースと言えるのではないでしょうか。

交渉のポイントは複数用意せよ

ところで毛利と織田(後に羽柴)の交渉は、領土と清水宗治の処遇という二つのポイントで交渉が行われています。

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実はこれは非常に重要で、単一のポイントであればお互い「お前が譲れ、俺は譲らない」で交渉も何もありませんが、ポイントが複数あれば「こっちは譲るから、そっちはあんたが譲って」という妥協が成立する余地が生まれます。

仮に織田側が「どちらかといえば領土が欲しい。清水宗治は助命しても良い」
毛利側が「領土はくれてやるから、清水宗治は助けてくれ」
と思っていたら、落としどころは分かりやすくなるということです。

とはいえ自分がどちらを重視しているかを見抜かれると足元を見られかねませんし、相手も同じことを考えます。自分の本音を隠しつつ相手の本音を見抜くことも、交渉においては非常に重要です。

今回のケースでは、私が調べた限り、毛利側の意図は資料によって

「領土は譲っても良いから、道義的あるいは内部の結束を維持するために清水宗治の一命は何としても守りたかった」
「清水宗治はこの際諦めて、領土を守りたかった」

のいずれも書かれており、はっきりとは分かりません。

対する羽柴側の本音は「一刻も早く交渉を成立させてこの場を去りたい」です。事後処理に時間のかかる領土割譲よりも切腹の方が早い(そしてどちらも譲らないとなると、毛利が不審に思って状況の変化に気付かれてしまう)ことから、清水宗治の切腹を要求した……なんてことが、交渉という観点からは推測できます。

いずれにせよここで強調したいのは、交渉のポイントを複数用意すること。それによって「ここは譲る、ここは譲らない」といった駆け引きの余地を生み出すことが重要であるということです。

今回のまとめ

小早川隆景は毛利側の首脳として、この交渉に関わりました。

当初は故意か偶然かは分かりませんが、ポイントを複数用意することで不利な条件で頑張っていたものの

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条件が変化し自身がかなり有利になったことに気付かず

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結果的に、2つのポイントのうち1つを譲る羽目になりました。

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冒頭に「小早川隆景の魅力に迫ってみます」とか書いておきながら失敗談の紹介になってしまいましたが、BATNAとポイントを意識することで、交渉をこんな風に整理できるんですよというお話でした。

次回は天下人となった豊臣秀吉との交渉を通じて、交渉相手とその目的を見定めることの重要さを学びます。


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