相続を通して、継承者の背負う荷物の重みを感じる

大病を患ったり、寝たきりになったわけではないが、父と相続の話をするようになった。お互い元気なうちに、いざというときどうするものか、腰据えて話しておこう、となったのが2年ほど前の正月だったと思う。

以来、資産を棚卸ししたり、少しずつ所有権を移したり、捨てるべきものは捨て、引き継ぐものは引き継ぐために、ちょっとづつ段取りを踏んでいるところ。
オトナの男同士として、がっぷり向き合うのは、彼から事業を引き継ごうかと、なんやかんややってた頃以来だなぁ。

テーマがテーマだけに、相続の話と同時に、家族のこと、生活のこと、お金のこと、などなどを改めて考え直すきっかけになるわけで、当然家族とそういう価値観のやりとりが頻繁になってきます。そんな中でまた、父のおもわぬ側面が見えたりするのが新鮮です。

相続、なんてお金も物品も他人も巻き込むある意味家族の一大事業ですから(たいした資産があるわけやありません→拝啓泥棒さま)、表面だけのやりとりでは、まともな相続は出来ないのだろうなと、ひしひし感じています。

回り道だろうけど、そうした本当のところで大切にしているところをオープンにしないと、行動につじつまもあわないんだ。お金とそれに紐付く行為というのは、なんともまぁ、生々しい。

何事だってそうなんでしょうけど、ある対象を知ろうとしたとき、原型をたどることが回り道のようだけど、本当に知ることが出来る気がします。
源流、本質、ホントのところ。
そういうところでやりとりすれば、お互いの心をちょっとえぐってみたり、傷つけたりもしてしまいます。だけれど、そのあたりに厚みのあるやりとりがあるおかげで、お互いの心がみえてくる。そして、わかり合えてくる気がするものです。

もちろん、団塊世代特有の価値観が基礎にあり、戦争の傷跡生々しい頃を少年時代として過ごした魂は、頑固すぎるガードが張ってあり、そうやすやすとオープンになるわけでもありません。霧が晴れたように、葛藤がぱぁっと、、とは問屋が卸さない。

ただ、ほのかに面影のように、心情としてみえるものが見えてきます。これはまた、親子だからこそのなんとも言えないわかる部分もあるわけです。これはきっとその源流を共有しているからなんかな。

そしてやっと今頃んなって、私は父とまともに親子の対話が出来るようになったのかもしれません。

ほんのわずかな資産を引き継ぐ相続ですら、こんな体験が出来るのです。いわんや事業を継承される、という一大イベントに向き合われる親子の葛藤の激しさをや。その葛藤の先に光あらんことを。

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