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もがいても無力

人生、どうがんばってもうまくいかないことがある。
そんなとき、なんとか取り繕おうともがいてしまっていませんか?
もがいても、無力です。
やるべきことをやったら、あとは流れに任せましょう。


私たちはどこから生まれてきたのでしょう?
母親の体の中から、とは聞いていますが、実際に覚えている人などまずいません。
では、私たちはなぜ生まれてきたのでしょう?
あなたという存在は、なぜ、この世界に、この国に、ヒトとして生まれてきたのでしょう?
この問いに答えられる人はいません。
私たちはみな、この世界に新たに作られた個体に理由もなくただ魂として宿ることで生まれてきたのです。


以前、死への向き合い方のお話をしました。

この中で己の死をどう受容するかは大きく4つのタイプに分けられると言っていますが、今になって5つ目のアプローチがあるな、そして自分がそれに当てはまるな、と勝手に思うようになりました。

「訳もわからず生まれてきたのだから、訳もわからず死んでいっても仕方がない」
短く言えば諦観タイプです。この考え方は、人間の生を考える上ではかなり理にかなっていると思います。

そしてこれは生と死、つまり始まりと終わりだけではなく、その間についても言えます。始まりと終わりに根拠がないなら、その途中の全ての事象にも根拠はない。根拠は全て、人智を超えた絶対的な存在しか知り得ないのです。そして私たちがこれを初めて知るのは、映画「現実」のクランクアップのちょうどその時です。

ちょっと言い方を変えましょうか。
まず、絶対的な力を持つ何かが、この世界で起こる全ての事象を定義します。そこに登場する1つの要素として、私たちは生まれて死ぬわけです。だから私たちにはなぜ生まれてきたのか、なぜ死ぬのかの理由はどれだけ探しても見つからないのです。

「絶対的な何か」とぼやかしているのは、ここで神とでも言うと反感を買いそうだからです。神自体も人間が生み出した概念ですから。むしろ人型のものではなく、さながらカレンダーにもともと記されている祝日のように、当たり前の概念なのかもしれません。


人はそう簡単に変わりません。
変わるには、それ相応の努力が必要になってきます。
絶対的存在の作ったスケジュールに「もがく→変わる」の文字は記載されていません。もがくだけでは無意味です。変化を引き起こすのはただ努力。まああなたが努力して変われたとしても、それは結局あらかじめ示された通りの道にあなたが進んでいるだけですが。

絶対的な何かは先述の通り人智を超えていますから、私たちの人生は伏線を全て回収して可能な限り穏やかに終わりを迎えます。それに際して全ての事象にはそうあるべき根拠がなければならない。それが私たちに受け入れ難いものであったとしても。

うまくいかない時、その時点では無意味だと思っていても、必ずあなたの人生の上で何かの意味があります。そしてその答え合わせは、全てが終わった番組終了後のアフタートークで発表です。

私たちはただ、できるだけのことをできるだけやって、あとは文字通り天命を待つだけでいいのです。それが一番自然で、根拠があります。


どこまで伝わったでしょうか。
リアクションいただけると励みになります。
それではこのへんで。


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