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私を守ってくれた人の話

なんて言葉で表せば良いのだろう。

生命線。うーん、生命維持装置?浄化装置?

私にとってのカウンセリングとは、そういうものだった。

頭に次々と浮かんでくる悲しくて苦しい感情を出来る限り吐き出す。自分の心を守る方法を教えてもらう。

カウンセラーの先生は、よく一緒に深呼吸をしてくれた。

どんな人かと聞かれたら、少し答えに窮すけど、「夜の森のような人」と答えるだろう。静かで、穏やかな声。抑揚が少なくて、優しい、優しい声。


始まりは高校2年生になったばかりの頃。

勉強のストレス(きっと他にも原因はあったろうが)を担任に訴えたら、カウンセラーの先生のところに連れて行かれた。

涙でぐちゃぐちゃになった顔で、蚊の泣くような声で「これ…」と傷だらけの手首を見せた。

静かな森のような人が、その雰囲気に見合わぬ強くてまっすぐな瞳で「心配だから、また来週、来てくれる?」と聞いてくれた。

初めて「死にたい」と訴えた相手も先生だった。そのうち身も心もぐちゃぐちゃになって、「死にたい」という言葉しか口に出せなくなった。そのうち「死にたい」という言葉すら出せなくなってしまった。

だけど、先生は、いつも変わらず、静かに私の前に居てくれた。

先生に縋るしかなかった。何を話しても、否定されない場所はここだけだった。担任とも、教科担当の先生とも、私は「うまくやっていく」ことができなかったから。それに、受験を控えた友人たちに話すわけにもいかなかった。みんな、自分のことでギリギリ精一杯であったから。

週に1回のカウンセリングが終われば「ここから1週間、次のカウンセリングまで生きなきゃ…」といった感じだった。カウンセリングがあるから生きていられた。(当時は週1でカウンセリングを受けられることがレアだと知らなかった…。)


カウンセラーの先生は私をいつも温かく迎え入れてくれた。でも、それを不満に思う人がいた。それが保健室の先生だった。職員室の先生たちだった。

保健室でメソメソと泣いている私に向かって養護教諭は言った。

「あなたの他にも辛い人はたくさんいるの。あなたのカウンセリングの枠を今すぐにでも空けて欲しいぐらい」

「…」

あの時、私はなんと返したんだっけ。もう、覚えていない。思い出したくないから、きっと記憶を消してしまったんじゃないかな。

年配の女性の先生が私に言った。

「あなたはそんなに"優秀"なのに、どうして辛いのか、理解できない」

私は確かに成績は良かった。学年1桁をキープできるぐらいには。

自分のいた高校がなんだか変だ、と気づいたのは大学になってからだ。別に成績が良いからと言って人生の全てが順風満帆に行くわけではない。そんな簡単な事実が教員の意識から抜け落ちていた学校だった。

私はどんどん病んでいった。自分が「病んでいる」ことを認めて欲しかったから。頑張ったね、といって欲しかったから。「そうしてもらえるためには、私はどれだけ酷い目に会えば良かったのだろう」そう考え続けて、私は自分の不幸を願うようになった。不幸になった分だけ、人に愛してもらえると思ったから。


どれだけ考えても、自分がなんで病んでいるのかわからなかった。

(それが解離性障害の症状の一つだと気づくのはもっと後の話)

だから、自分がカウンセリングに行く資格はないと思っていた。養護教諭に言われた通りに事が運ぼうとしていた。

その話を聞いたカウンセラーの先生が、私に少し語気を強めて話してくれた。夜も深まった森に、月の光が差すような、不思議な強烈さを孕んだ声だった。

「物事には絶対に理由がある。あなたが苦しんでいる理由も、きっと見つかるよ」

「毎週◯曜日の昼は、ずっとあなたのために空けておくからね」

何回も、伝えてくれた。

私は「ここにいていい」のだと。

先生は私を大切にしてくれているのだと。

カウンセリング室、あの古くて、本がいっぱい並んでいて、大きな窓から光が入ってくる、あの場所は、確かに私の「居場所」だった。

先生が、守ってくれた。私は、彼女に守られた。


なんて幸せだったのだろう。



心の傷は癒えない。未だにぐちゃぐちゃと膿を出して、血を垂らしている。

でも、私は生きている。

先生、ありがとう。
私は、生きています。私は、あなたを尊敬しています。
私に居場所をくれてありがとう。
生きる意味をくれてありがとう。

今も絶望する時があります。死んでしまいたいと思うことも。


でも、あなたとの会話を思い出せば、1日、耐えられるかも知らない。

きっと、その積み重ねなのでしょう。


先生も、どうかお元気で。
いつか会えた時には、笑顔をあなたに見せたい。

またね。

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