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高校時代の「答え合わせ」

光と影のコントラストの強い子ども時代を送ってきたな、と思う。殊に高校生の時は、これ以上ない眩い光と、これ以上ない暗闇の二つの面を持ち合わせていた。そして今も。

高校の先生との再会

先日、出身高校の説明会の手伝いに行った。同期から誘われたのだ。高校同期とはオンライン上の交流こそあれ、直接会う機会は少ない。せっかくなので、3年ぶりに高校に行くことに決めた。

迎えた当日、「久しぶりに現れた卒業生」である私はとても歓迎された。先生方からは大学生活はどうだ、今の生活はどうだ、としきりに聞かれた。高校時代、学年トップの成績を取り、外部活動でも表彰され、偏差値の高い大学に合格した卒業生が、笑顔で「大学楽しいです、環境も性に合っている」と高校教員に語る様子は、私の光の部分そのものなのだろう。

1人の先生が言った。
「普段、高校生を教えていると、私達の教育はこれで良いのだろうかって、不安になるんだよね。だから、あなたみたいな卒業生を見ると安心するの…」

「まるで私達の教育の答え合わせをしているみたいで」

私は何の言葉も返せなかった。

「答え合わせ」とは、言い得て妙だ。先生の言葉から察するに、きっとは私は「正解」の側に置かれたのだろう。だって、成績が良かったから。大学生活が楽しそうだから。それは、彼らの行なってきた教育というものが良い効果をもたらしていることの証明のように思われたのだろう。まぁ、実際そうだ。あの場所は、学問の心得を身につけるためには非常に良い環境だ。大学に合格したのも、あの高校があってこそだ。

しかし、だからこそ、私はその「答え合わせ」とやらを、ただの正解として終わらせる気にはなれなかった。

だって、きっと、私が高校に行った理由はただ友人に会いたかったからだけではなかった思うから。

けじめをつけたかったのだ。耐えられないような記憶の数々に。未だに高校の記憶と闘わなければならない私自身に。

私の高校時代

ざわざわした教室が怖かった。周りの友人はキラキラして、活発で、どうにかついていきたくて必死だった。そんな私は何を間違ったか学年トップの成績を取ってしまった。その日から強迫観念じみたものに付き纏われるようになった。成績が取れなければ価値がない、という思い込み。それを振り払うために使ったのは、中学生の時からお馴染みの、自傷だった。

成績が良いのに何をそんなに悩んでいるのだ、なぜ死にたいなんて言うのだと先生は問う。私は黙ったまま俯く。なぜ私の心が悲鳴を上げているのか分からない。なぜか言葉を発することもできない。初めは話を聞いてくれていた担任も、もううんざりだ、という顔で強い言葉を放って去った。養護の先生の言葉は今でも鮮明に思い出される。「他にも辛い人がいるの、あなただけじゃない。あなたのカウンセリングの枠を、今すぐにでも他の子に譲りたいぐらい」と。

なんでこんなに辛いんだろう、いつ治るんだろう、どうしたら解ってもらえるんだろう。そう悩んでいるうちに時間がどんどん過ぎていって、あっという間に入試前日になった。ぶちっと音を立てて、何かが切れた。

「あぁ、もう無理だ。もう間に合わない。もうこの心は治らない」
「もう、死のう」

…結局死ねなかったからこうやってnoteを書いているんだけど。結局受験にはちゃんと行った。何もかもどうでも良くなってしまって枷が外れたのだろうか、私の頭脳は人生で一番よく働いてくれた。結局、奇跡的に合格した。

そんな怒涛の日々の中で、私には、私自信が隠してしまった記憶があることに気づいた。辛くて耐えられない、家庭の記憶。「気づいてしまった」だなんて言い方は正確ではないかもしれない。「親に蹴飛ばされる場面の記憶が、突如私の脳をぶん殴ってきた」の方が、衝撃を表す言葉としては、良いのかもしれない。

これに一縷の希望を託した。ギャクタイ、これがあったから私は苦しかったのだ!これならば、先生も私がなんで苦しんでいたのかわかってくれるに違いない!私に「頑張ったね」って言ってくれるかもしれない!

…本気でそう思っていたのだ。だから、自分の体験を先生に話した。返ってきた言葉は生涯忘れないだろう。

「親も悪かったけど、あなたも悪かったね」

その時の私が何を感じていたのか、文章で表現することは難しいけど、きっと「心が死ぬ」とはこういうことを言うのだろう。私は「人に頼る」ということに絶望したまま、高校を卒業した。

私の「答え」は

想像する。高校生の頃の私が、大人になった私の腕を引っ張っているところを。ちょっとだけ幼い私の腕は傷だらけで、胸元も傷だらけで、泣き腫らした目をしている。幼い、幼い泣き顔。この姿を「正解」の姿とは思わない。

結局、私が得たものは2つの精神疾患。解離性障害とPTSD。なんだか大層な名前だ。これが、私が20年ちょっと生きてきた結果だ。これもまた「答え」なのだ。まるで私と私の周りの大人との関係の「不正解」を凝縮したような。私は「正解」と「不正解」の両方を持ち合わせているのだ。だけど、正解の部分だけを見て「あぁ私たちの教育は成功した」だなんて、言わせるものか。

(ねぇ、忘れないで)

高校生の私がそう呟く。正直、忘れたかった。全部忘れてしまいたかった。だって、心の中に留めておくにはあまりにも辛くて、言葉に出すには苦痛があまりにも大きいから。

でもさ。

ボロボロなこの子は、一人で泣いて、一人で耐えた。一人で何度も助けを求めた。なんなら一人で児相に電話かけたり人権相談センターに飛び込んだりと、なかなか果断だったと思う。

そして、一人で決断した。生きることを。だって、やろうと思えば学校の屋上から飛び降りて、今まで関わってきた全ての大人に「不正解」を叩きつけることだってできたのだ。でも、しなかったのだ。

無かったことにしてたまるものか。傷だらけの体も、心も、数々の苦い失敗も、耐え難い記憶も。全部が全部、私が生き延びてきた証拠だから。過去の私がこれ以上できないぐらい頑張ったのだ。忘れるっていうのは、あまりにも酷だと思うのだ。

高校生の私へ語りかける。

忘れないよ。大丈夫だから、もう安心して眠ろう?

こども時代の私が耐えたこと、耐えられなかったこと、全部背負って歩いていく。それが生き延びた私へのリスペクトであり、愛であると信じるから。

I survived.

この言葉が、後悔じゃなくて、誇りを持って言えるようになるまで、私は、過去の幼い私を抱きしめてあげたいのだ。



長い長い自分語りでした。読んでくださった方、本当にありがとうございます。

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