映画「ひとしずく」鑑賞リポート(一部ネタバレあり)

山下大裕監督作品、映画「ひとしずく」を見てきましたので簡単な感想をまとめた記事です。ふだん映画評など書くキャラではない(そんなに本数も見ていないし)のですが、後述の通り少しだけこの映画は制作プロセスに関わらせてもらったこともあり、どなたかが興味を持っていただくきっかけになればと思って書いてみます。


映画「ひとしずく」と山下大裕監督について

もともとは、担当しているラジオ番組(MBCラジオ「RADIO BURN+」)で山下監督が行っていた映画製作のためのクラウドファンディングを紹介させてもらったのがきっかけでした。

山下大裕監督は映画製作の活動を行いながら地域おこし協力隊として鹿児島県南大隅町に着任、自身も協力隊OBということで「地域おこし協力隊」をテーマにした映画を製作することを掲げてクラウドファンディングでの資金調達にチャレンジしていました。目標額を見事達成し、その後「全都道府県の地域おこし協力隊に取材を行う」とのことで、自ら車を運転して全国取材行脚の旅へ。番組では毎週のように監督と電話を繋いで現地のようすなどを聞きつつ追いかけてきました。

取材旅行を終え、いよいよ製作スタートというところで世間はコロナ禍へ。もともと2020年公開を目標としていた映画製作はストップしてしまいました。その頃、自分自身も担当していた番組をMC・制作を兼務することになって、こんどは制作の立場でこの映画についても進捗を紹介できればと思っていました。映画とは関係のない仕事で何度か監督とご一緒させて貰う機会もあり、進捗を聞いたりなどしていました。
 
2023年、3年越しでようやく映画製作スタートということになり、監督から「ラジオのスタジオでの撮影」について打診が。監督にこれまで何度も番組に出てもらっていたり、もともと地域おこし協力隊やOBの出演も多かった番組であったりもしたので、実際の生放送後のスタジオをそのまま撮影に使ってもらうことになりました。結果的に自分もほんの少しだけですがディレクター席で映り込むことに。もちろん初めての経験。12年も同じ番組やってるといろんなことがあるものです。

地域おこし協力隊について

総務省の事業として実施されている「地域おこし協力隊」制度。
都市地域から過疎地域等へ移住し、地域PRや特産品開発などの「地域おこし」に従事します。任期は1年~3年で、任期中は給与と活動費が支給されますが活動内容や待遇は受け入れる自治体によって様々です。
総務省によると、令和4年度には全国に6447人の隊員が活動しており、令和8年度までに1万人に増やすことを目標としています。
総務省 - 地域おこし協力隊とは

様々な経験やスキルを活かし、地域に貢献する特徴的な取り組みを行っている例が多数ある一方で、都市と過疎地域の価値観・カルチャーの違いや、受け入れ自治体・地域住民との関係性構築に苦戦する協力隊員の声もそれなりに聞いています。制度としてもサポートデスクや研修制度を設けるなど、地域にうまく溶け込めるよう支援策を設けていますが、地域の実情と個々の隊員によって様々なケースがあるのもまた現実。今後の地域おこし協力隊制度、また地域の実情がどのように推移するのかはもちろん、協力隊OBである監督が映画として描く時にどのような表現になるのか、注目していました。

映画「ひとしずく」評

今後、各地で上映が進められていくと思いますので、これからご覧になる方のために具体的なネタバレはできるだけ避けますが、一部映画の内容に触れています。大きく改行を取りますので見ていない方はここで離脱をオススメします。








映画評としてまとまった文章を書けるほど見ていないのでただの散発的な感想ですが、以下、映画の内容と雑感について書いてみます。

作品の持つリアリティについて

作中には南大隅町の風景が数多く登場します。この作品はフィクションでありながら実在の協力隊に大量の聞き取り取材を行い、南大隅町が主なロケ地になっています。地名も架空のものではなく、南大隅町をそのまま使って町役場などが登場しているので、同じ鹿児島県民としてはドキュメンタリーを見ているような感覚もありました。
様々な人間関係が中心的なテーマのひとつとして描かれます。そこでの軋轢や葛藤は、いわゆる「地方あるある」「U/Iターンあるある」でもあり、多くの人が体験したことがある感情をなぞるようなものだったように思います。
自分自身もUターン組で、自身の体験と重なる部分もあり、そういう意味での居心地の悪さみたいなものは、映画への感情移入に貢献する要素でした。

地域の商店が閉店したり、高齢者が亡くなったりするシーンがあります。舞台となっている南大隅町に限らず、経済のシュリンクや高齢化の問題は全国各地の過疎地域共通の課題であり、それらを直ちに反転させる処方箋はおそらくありません。若者がひとりやってきたところで、地域の現状が劇的に改善するわけではない、という現実から逃げずに描いた結果、単純な「困難に立ち向かい、乗り越えた若者のサクセスストーリー」にはならなかった。ドキュメンタリーでもなく、完全なフィクションでもない、この映画が持つ妙なリアリティはこのような点からも生まれているように感じます。

キャストのみなさんもなんだか実在の人物のように見える瞬間がたくさんありました。方言が登場する作品は、その方言のネイティブ話者からすると不自然に聴こえた瞬間に興ざめしてしまうのですが、その点は地元キャストのみなさんがしっかり支えてくださっていました。
放送業界だと、少し大げさな表現ぐらいがちょうどいい、という感覚があります。テレビ/ラジオの番組を正座して真剣に視聴している人はいないので、流し視聴にひっかかりを作る程度に少し表現にアクセルを踏むというノウハウなのですが、映画の世界はまた違うのかもしれません。
この作品は主演の工藤さんはじめ、キャストのみなさんがそういったフィクションっぽさをほとんど纏っていなかったように思います。「こういう人いるよなあ」というリアリティに振った演出は、監督の意図するところなのかキャスティングの妙なのかわかりませんが、この作品の軸になっているように感じました。

作品の持つメッセージ性について

前述のように、この作品は「若者のサクセスストーリー」のような仕立てにはなっていません。決して成功譚ではないところは、重要なポイントのように思います。
あえて書くなら、困難に直面しつつもなんとか立ち上がった若者と、それを応援するようになる地域の方々の物語、といったところでしょうか。
作品からどのようなメッセージを受け取るかは様々だと思いますが、自分のはこの「応援」というキーワードがそのひとつでした。地域おこし協力隊、という制度そのものも地域に対する応援であるということもできるでしょうし、協力隊の活動も、地域の側からの応援無しでは成立しません。
それはある意味において、あくまで協力隊という存在が持つ「非当事者性」を浮き彫りにするものかもしれませんし、担い手の少ない地域において、どのように地域を維持し盛り上げてゆくかという観点に立った時に、誰かひとりのスーパーヒーローを期待するのではなく、当事者も非当事者もごちゃまぜにして、相互に応援し合うような関係の中から前に進むしか無い、という現実を突きつけるものかもしれません。「ひとしずく」というタイトルにもそのような意味合いが込められていたりするのでは。

人口減少社会の現代においては、効率化が至上命題になっているような感覚があります。無関係のものにはできるだけ関与せず、効率的にものごとに対処すべし、という価値観はビジネスなどある場面においては有効に機能するのかもしれませんが、その一方で人間関係を希薄化し、感情よりも成果を優先する結果、多くの人が心に闇を抱えてしまうというのは、ある種の現代病と言ってもよいのではないでしょうか。
話は逸れますが、よく話題になる「推し活ブーム」もこのような時代性を反映しているように思います。応援する対象がある、ということ自体が人の心の安定に作用し、応援する側もされる側もモチベーションになる。感情の生き物である人間とは面白いものだなあと思います。
そもそも、この作品が完成するまでのプロセスを思い返してみると、クラウドファンディングに始まり多くの人が監督を応援して作られた映画なのでした。
おそらく、日本の多くの地域においてこれから劇的に人口が増え経済が浮揚してゆく、といった未来はあり得ません。どちらかというと、どのように軟着陸させてゆくか、もしくは緩やかに閉じてゆくか、という難しい議論をしなければならないでしょう。その辛い現実のプロセスにおいて、「応援」という要素が関わる人々の心を少しでも和らげられるのではないか。そのような期待を感じた映画でもありました。

コンテンツを作る、ということについて

ジャンルは違えど、自分もコンテンツの仕事に携わっていて「作る」ということ自体については思うところがあります。大量生産・大量消費の時代、誰でも発信者になれる現代において、世に放たれたひとつのコンテンツ表現というのはまさに大きな海原へ落ちる一滴の水のようなもの。ラジオ番組も数多ある中で、他の番組どころではなくテレビ、YouTube、TikTok、ポッドキャスト、その他数え切れないほどのコンテンツとのあいだで、生活者の時間を奪い合う競争をしています。
「作る側」の人間というのは、自然と何かを表現したいというモチベーションを持つものなのでしょう。番組などを例に取ると、10年も15年もやっていれば「それまで蓄えてきたストック」の使い回しで、いわゆる規定演技はこなせてしまう。ただそれでは面白くないので、わざわざ新しいことをやったり、誰にも気づかれない自分だけのこだわりだったりで、何かを表現しようとするんです。
見間違いでなければ、映画の序盤のあるシーンで監督の過去作品のタイトルが某所に掲示されていました。こういうのはあってもなくても映画そのもののストーリーに何の影響も無いんです。でも、「作る側」の人間はわざわざ時間をかけてこういうことをしたくなるんですよ。
不思議なもので、これだけコンテンツ過多の時代でも、ある表現を世に放つと(ごく一部からだったとしても)気づく人がいてリアクションがあったりします。ひとつの作品が誰かの人生に大きく作用する、ということも稀にありますが、ほとんどのコンテンツはそんな存在にはなり得ません。ただ、ほんのひとしずく、誰かの心にぽつんと届いたものがあればいいじゃないか。作る側の人間は、潜在的にそんなことを思っているのかもしれない。作品のテーマとは関係のないところで、そんなことを考えていました。
自分の仕事に立ち返って、誰かのひとしずくとなれるようなものをまた地道に作っていこう、と思わされた映画だったかもしれません。


案の定、長い割にまとまりのない文章になってしまいました。
映画「ひとしずく」について詳細は公式Xやウェブサイトで。


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