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偏見を抱いてはイケナイってのも偏見では?

偏見とは、何だろうか。

偏った意見のことだろうが、そもそも意見というのは、最初から偏っているものではないか。偏っているからこその意見なのではないだろうか。偏っていなければ、意見は対立することはない。

あらゆる意見は、偏見である。これ多分箴言。

意見そのものが意見であるなら、偏見はイケナイという意見も、偏見ではないのか。

これと同様に、常識というものがある。この常識というものは厄介なもので、ある常識にとらわれていないということは、ある常識に絡まっているということだ。

常識という眼をもってでしか、少なくとも私は、常識を見ることができない。これは、言語にも見ている。他の言語を理解する為には、母国語と意味や文法や時制を一致させなければならない。元々の言語を所持していなければ、外国語を勉強することは不可能に近い。母国語という、ある意味では「常識」のようなものでもって、外国語を捉えなければならない。多分こういうことだ。

さて、少し話が逸れたね。

偏見、とは前述の偏見のようなもの。ある偏見を敵視するのならば、それこそある種の偏見に基づいて物事を見ているというかもしれない、と思わないか。偏見そのものをオカシイと思うことが、自分自身の奇妙さを証明してしまっている気がするのだけど。

偏見、もといある「意見」が拒否されるのは、それが当人にとって都合が悪いという場合が多い。というかこれだけしかないとまで云えるレベル。偏見という本来的な性質を持つ「意見」は、それ自体では、いわゆる「偏見」足り得ない。

人間の投企と共に生ずる世界のように、意見(=偏見)は、判断という名の恣意性に曝される。

偏見は、誰かから見れば、やはり「偏見」である。それを偏見だと見なすことも、偏見である。以上を偏見だと捉えることも偏見であるし、偏見でないと一蹴するのも偏見である。

これらは、マックス・ウェーバーの云うような、「意味喪失」であろうか。あらゆる意見が無意味になる。ある意味では、脱魔術化しているが、あらゆる思案が意味を無くすという再魔術にかかっている。

あらゆる意見に意味がないのなら、私たちは「意見」に、意味があるように振る舞わねばならないね。故に、「意見」を言うことは、ある種の思考停止である。

そうだと「思う」、と吐き捨てるのに、その実は何も考えていやしないどころか、どこかで思考を停止しているの。


これが、余計に「意見」がやはり偏見の域を出ないということを示している気がする。あくまで気がしているだけ。

自分の意見の究極根底を、必死に、みじめに、ひいひい喘ぎながら、無理しいしいに探してみても、どこにもないのだ。あるのは、「無い」という事実だ。自分の意見を云う時に、それは本当に自分の意見なのか、と疑問の連続に陥ることがある。

自分の意見の存在理由を求めてみても、それをイイ感じにまとめるには、自分の独断的で、盲動的な恣意的判断でしか対応できないと気づく。理性だの、知性だの言うが、私たちの判断や意見に対する思惑なんて、ほとんど理性的ではない。

それらしく、美辞麗句を、常用ではない漢字を使ってみたり、偉人の意見を採用してみたり、少々専門的な文言を使ってみたりする。しかし終局、判断しているのは、1:9で感情の方だ。多分。

都合がいいか、都合が悪いか。快か、不快か。嬉しいか、苦しいか。

多分と書いたのは、この判断すら、非常に曖昧模糊な気がしてしまうからで。

どこにも、明確な存在根拠などない(のかもしれない)。

やはり、あるのは事実だけ、というわけか。ニーチェさんよ?




今日も大学生は「思っている?」


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