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「SAMURAI BLUE」への違和感

「SAMURAI BLUE」という言葉が目に入ってきた。サッカーのなんかだろうなと、まぁ特に興味もない蹴球の競技に注目するわけではなく、言葉そのものへと、その無いはずの興味がシフトする。

日本を象徴するものとしての「SAMURAI BLUE」なのだろうか。

いやちょっと。

日本ってか、侍ってそんなに人口多かったかな。

むしろ少ないよね。百姓とかの方が多いよね。

なら「HYAKUSHO BLUE」じゃないの。

武士道じゃなくて、商いの精神ぶちまけるんじゃないの。

石田梅岩さんの出番ここでしょ。

ってかそもそも武士道を、どうサッカーに活かすの。

サッカー道じゃないでしょ。

織田信長とミキシマックスして刹那ブースト繰り出しちゃうの?。

沖田総司で菊一文字放つの?


まぁともかくも、「SAMURAI BLUE」に違和感をとても感じる。これって、本質主義というか、戦略的本質主義というか、恣意的ななにかが隠れているような。日本なら「武士道」とか、「侍」とかいう外から(外という言葉が適切かは分からないけど)見た視点が組み込まれているような気がする。

日本であれば、武士というのは、はっきりいえば変だ。だって、侍以外の身分の人もいたのだから。というか、「侍」なんてとある時代の、一身分でしかないのだから、それを「SAMURAI BLUE」という形で、日本を表現するものとして固定化するのは、奇妙だ。野菜といえば、「きゅうり」だけではない。ならそれと同様に、日本といえば、「侍」ではない。

「侍」だけではない。というか、侍は男性が主だったから、そこには自然に「女性」を排除するような視点が内包されているかもしれない。てかそういえば、「なでしこジャパン」も、なんだか変である。日本という土地にいるすべての、女性(に限るべきではないと思うけど)が、「なでしこ」ではない。そこには、日本という、或いは日本人という対象を非常に狭いイメージで捉えているというか、そのように日本側が操作していることの表れではないだろうか。

と、「SAMURAI」要素も、 「BLUE」要素も全くない精神マロニーちゃんのワタシは、なんだか最近色んなものに疑問を抱きすぎて、ブドウ糖が不足している。




今日も大学生は惟っている。



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