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正常な人間はもしかしたら、と

ニーチェ、三島由紀夫、中島義道

彼らの著作を読む中で、

私はある一つの確信のようなものを得た。しかし20年も生きていないクソガキの思い違いかもしれないということを先に言っておく。

この確信(のようなもの)へと至る道の最初には、はたしてどのようなものがあったか。

それは、不道徳であることへのモヤモヤとした疑問

それは、家族という絆しを美化してはいけないという断言への猜疑心

そしてそれは、現代の人間そのものを造り上げた一つの嘘の確信

これらをもし、何も考えず、時間を空けて読んでいたら、至らなかったであろう一つの確信(に似たもの)を書いていく・・・。


無害な人間


とかく今の人間は静穏だ。社会というものに、お利口に従順で、ものをあまり言わない。

「男子」が消えかけているのも、納得がいく。なぜなら、社会とは社会全体の利益を優先させるのであって、個々人を最優先にするわけではない。そのように見えたとしても、それは結果的に社会の利益になるからという理由に負っていると考えたほうが自然になる。


抑圧される獣性

社会とは、何か。

それは存在するものでもない。それ単体として存在しているわけでもない。大学の教授は、「社会」というものが形容詞的なものだと言っていた。それほどに、泡沫のようなものでありながら、人間を檻に閉じ込めておくには強度が優れているとは・・・。

そんな社会では、個人の欲望、本能、意思が「悪」であるかのように見なされる。それは和を見出し、社会全体を害するものであり、共同体という債権者に徒なすもの。

人々は、社会という舞台に立ち、役割をきっかりと演じ切るオートマタになり果てる。


美化されるつながり


なぜ「家族」という言葉が、東日本大震災の時は特に、あんなにも美化されるのだろう。美化しよう、家族という言葉の価値を伝えようとしていた割には、それが意味を持たぬ記号と化してしまったような気がするが。

それはまるで、キリスト教の教義を知っているが、その信奉の根本には身体を伴った確信や論理が無く、無味乾燥な宗教の一つとなってしまったかのようだ。


人間性は獣の如く


ここで引用をしよう。

少し長い。

これは飼いならされた家畜(すなわち現代人、すなわちわたしたちということだ)の繊細さに反することであり、その偽善に反することではあるが、あえて全力をもって思い浮かべてみよう。古代の人々にとって残酷さというものが、どれほどまでに祝祭の大きな喜びとなっていただろうか。人々のほとんどすべての喜びの一部として、どれほどこの残酷さが混じっていただろうか。〔中略〕古代の人々にとって、「私心なき悪意」が(スピノザであれば、「悪意ある同情」と呼ぶだろう)、いかに人間の正常な特性として、基本的なものとして、ー良心が心から肯定するものとして想定されていたか!〔中略〕残酷さとは、人間の高度な文化のすべての歴史を貫くものなのだ(ニーチェ、2009、116)

三島由紀夫も、中島義道も、そしてニーチェも、現代人(家畜)のそのあまりにも残酷さを嫌う態度、静かすぎる態度がひどく不自然に見えたのではないだろうか。人間性(獣性)を失った、社会という檻の中に存在する動物みたいに。

この時、僕は確信のようなものを得た。

僕をふくめて、現代人は、支配するような人、上に立つような人、残虐性をあまりにも憎んでいる、善悪を逆転したままの奴隷みたいなやつだと。

我慢する、人のことを極力揶揄わない、ただ誠実でいる、残虐なことはしない。弱者を美化するようなその態度が、もはや不自然ではないのかもしれないけど、極めて可笑しな事態であると。

思えば、人が主にテレビで、困っていたり、苦しんでいる”ような”リアクションを行ってるのを見て笑っている自分がいる。

それはまったく可笑しなことではなく、むしろ本来の人間として、人間性を持った人間として相応しい姿なのだろう。

(でもいじめは嫌い)

さて

人間も畢竟、動物なのだ。元来の性質として、奪い、傷つけ、殺し、喰らう。動物は人間にはなれないが、人間が動物になることはありうる。

ただ現代は、社会を円滑に運営するために、その本来の人間性を抑止しているだけだ。それだけだが、あまりにも人間を押さえつけすぎている。

それは社会にとって都合のいい事だ。150人以上の集団を管理するには、神話や宗教にも似た共通の「何か」が必要だ。

では

人を傷つけては行けない、嘲笑ってはいけない

その様な良い行いを、「良い」と判断することが、造り上げられたものだとしたら…?



正常な人間、あなたはどんな人間だと思うだろうか?


今日も大学生は潜考している。


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引用文献

フリードリヒ・ニーチェ. (2009). 道徳の系譜学. (中山元). 光文社 

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