「死」について

「死」ってタイトルにつけておけば、なんとなく深淵というか深遠というか、意味深長に見えるかもしれない。まぁ、「死」について書くことには違いないんだけれども。

「死」とはなんだろう、ということは問わない。それらしく、とは、とは、とはと問うたとて、私見すらも述べないのなら、意味がなさそうに思えるから。ということで、最近頭の中にボヤぁーとしているものを、ここに吐き出すのみ。

人間が一番「死(のようなもの)」を感じるとき、それは生きようとしている時ではないか。しかしそれは生きようとする点から見れば、真正性のようなものを帯びているように見えるけれど、死というものから見たときには、途端に疑似的に見える。なぜなら、死は直接には体験され得ないから。

前も引用したけれども、ここでも引用する。

死ぬことを経験するためには、初めから模擬的に経験することが不可欠である。それゆえ、模擬的ーその意味で、虚構的ーな仕方で〈死ぬこと〉を生きることは、死の経験にとって、本来的で、根源的なものである。〔中略〕死ぬこと(すなわち死に近づいてゆくこと)という出来事の経験は、不可避的に、どうしても模擬的に生きるほかない部分を含んでおり、それに応じて〈反復することから始まる〉側面を必ず秘めている。(湯浅博雄、2020、190)

死に関わる体験は、死そのものへの連関というよりかは、疑似的な死とのつながりに近いということを学んだのは、湯浅博雄さんが著した「贈与の系譜学」という本を繙いた時だった。

さて、死にとても近くなることが、生にまた近くなることでもあるのでないかと考えたのには、もちろん理由がある。例えば、食料とするために、獲物を探しているとしよう。しかし一方的に喰らうなんて勝手が良すぎるというもので、こちらも喰われる、或いは幾ばくかの痛手を負うことも、予想に含めておかなければならない。生とは、他の生を奪取すること。獲物を捕らえたということは、そしてそれを食べるということは、死がそこに(見えない形で)生まれたということだと思う。

喰わなければ死ぬ。喰えば生きる。その表裏一体の関係性が、生と死の近さを物語っているような気がしてならない。生きようとする必要がないのは、死が間近に迫っていないということとも言える。つまりその裏返しとして、死が迫っているからこそ、人間が生に執着し、生きようとする。これもまた、「生きている」ことの一つの形だと思う。

ということは、やはり死は生と共にあるからこそ輝くのであって、純水に死的な「死」、生と切り離された「死」は、それが「生」を実感させないという意味で、非常に簡素に、味気なく見えてしまう。しかしながら、例えば直接「死」に関わることがないような事柄、偉大な著者の小説や論考を読んだりだとか、遊びに思い切りふけるだとか、絵を描いたりだとか、自然を悠々と闊歩するだとか、そういったことが味気ない生だというのは、いささか早計にも思える。だがここまで言ってしまうと、「生」の問題に傾倒しすぎてしまうような気がするので、「死」というものから離れないでいよう。

あくまで「死」という観点で、「死」が「生」と近しいものだと言っているだけだから。文化的な営み(非常に曖昧だけど)は、一旦置いておこうと思う。「死」に近づくことが無いような生、或いは「生」に寄り添うことの無い「死」。これらは、健全だといえるのだろうか。現代の食料分配は、食料は獲るものでも、自ら解体処理するものでもなく、「出来合い」のものとも言える。それは「死」を纏っているかというよりかは、ただの「商品」だ。けどもそれを否定するつもりはない。より効率的になるべき部分というのは、確実に存在する。そうするべき場所は、そうあるべきだというだけのこと。

それに先ほども書いたけども、「死」に関しては疑似的であることで精一杯なのだから、真の意味で「死」に触れるような生というのはあり得ない。殺し、解体し、喰らったとしても、それはどこまでも疑似的かもしれないのだから、というのは「死」を忘れていい口実にはならないけれども、ともかくも人間の生は宙ぶらりんなんだ。

今日は、3月11日(もしかしたら、3月12日に投稿してしまうかもしれないが)。直接的な被害は、まぁなかったわけではないけれど、被災地に近い人に比べればといったところか。目の前に「(別の意味の、「生」の為の供物とはならない)死」を身に染み込ませた人が、数多といる。その「死」を体験して、生きようとしたかもしれないし、身を滅ぼしてしまった人もいるかもしれない。メメントモリには、「死を忘れるな」という訳がある。けどあの地震の時に感じたのは、「死ぬ」ということと同じくらいに、どこかから湧いてきているかも分からないほどの「生きなければ」という感情だったことを、微かに覚えている。大分薄れている。

大災害は、ただ「死」だけをもたらすのではなく、同時に「生」さえも生み出すのではないかと思う。普段の、あの何気ない、幸せといっていいのかも分からない愚鈍な日々に埋もれてしまいそうになる「生(死)」が増幅する。そういうのがあるべきというのではない。不可逆的に、あるとしか言いようのないそれは、「死」と「生」を増幅させるアンプリファー。死が近いほど、生にも近くなる。この意味で、生とは本来不安定なものなのかもしれなく、人間が築いているこの地上の、ユートピアとは言い難い楽園紛いのものは、安定という死と生の不安定性からの解放を目指している。

まぁもちろん、良いとも悪いとも言い切れないね。また高校生気分の愚鈍な青二才に、わかるはずないもの。ただ亡くなられた方々、行き先も、何もかもが分からなくなってしまった方々、それ以外に艱難辛苦を感じた方々にまことに勝手にながら、哀悼の意を表すべく、この文章をここにとどめる。加えてまた、被災した後もなお一意専心の言葉の如く、精進し続ける方々がいるということも、忘れないようにと。そこんトコロ忘れたら、ダメな気がするからね。






今日も大学生は惟っている


引用文献

湯浅博雄.2020.贈与の系譜学.講談社選書メチェ

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