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「自分の思い出語りすぎた!ネタがない!」と無償コンテンツを作り続ける人、とその他。

今日は少し言葉も、口も悪い。けどまぁいい。「罵倒も、失望も、嫌悪も、或いは違和も、憤怒も、呆れも、厭いも、僕への興味だと思うから」

たま~に見かける人。

自分の身の回りのこと、人間のこと、想っていること、憧れの人を一通り書きまくった上で、ネタ切れ感のある人。というか、全力で日常を無償コンテンツ化してしまっていることで、書くことが無くなってしまったか。始めたはいいものの、そんなに続ける価値を感じなかったか。或いは、わざわざ無償労働をして、自分の思想や行動を金を生み出さないコンテンツに変えることに違和感を覚えたか。それはよく分からない。

しかしこれは、おそらく、ネット上での活動に”従事”している人たちにとっては、なんとなく聞き心地の悪い文言かもしれない。そうでないかもしれない。

というか、大した意味さえないかもしれない。どんなコンテンツをここに投稿しようが、かまわないのだし。「ネタがない」ということさえも、一種の消費コンテンツに、「今日は休む」という旨の文言さえも、無償コンテンツに。真面目に書いたような文章も、依然変わりなく、無償コンテンツだ。

おそらく、この無償労働を、「ボランティア」という風には捉えていないだろう。「ボランティア」は、最初から何も得ないし、対価も貰わないという自己犠牲が前提となっているうえでの活動だ。(任意ではあるけれども。)

依然とある記事に”従事”した時に、ワタシはこんなことを書いていた。

そう思うと、今世にあるSNSはよく出来ているなぁと感じる。その利用者に、彼らのあらゆるweb上での活動が、実は「無償労働」であることを知らせないための仕掛けが、張り巡らされている。

おそらく、この無償労働を、「ボランティア」という風には捉えていない。つい先ほど、そう書いた。それはおそらく、このnoteというシステムに、そしてあらゆるsnsには、「「無償労働」であることを知らせないための仕掛け」が、途方もないほどの数施されているからだ。

そのような、どちらが消費者で、生産者かはっきりしないようなものが、現れているのだろう。

今日も今日とて、そしてワタシが書く文章(と呼ぶにはあまりに粗野であるけど)も含めて、無償コンテンツがごっろごろ散らかっている。

どれも不思議な事に、無料で見られる。簡単に、他人の諸々が載っているものを見ることが出来る。断りもなく見ているという点で、それは一種の「覗き」ではあるが、どうぞ「覗い」てくださいと言われているなんとも不思議な空間なので、そのようなことを気にすることはない。

だからといって、有償コンテンツ化するのはほぼ無意味だろう。消費者か生産者かよく分からない状態で、生産者になろうとするには、一般人の書くことに、まともな経済的価値を見いだすことは難しい。そこには、メッセージXが足りない。

他人は、他人にそんなに興味は持たない。

ところで、これはどこで聞いた話か忘れてしまったが、人間が労働をしなくなる未来について、どこかの有名な漫画家の人があることをいったそうな。それは、「労働があろうと、そうでなかろうと、自己表現や自己実現に人々は従事するようになり、自分が認められようと躍起になり、結局忙しくするだろう」、というものだった気がする。

完全にそうなっているわけではないけれど、snsに広がっている活動は、大体はこれだ。「自分」というものを、他者に知らしめようとして、それが(労働のようには見えないが)、まるで労働であるかのように見える。これは、youtubeを見ればいいかもしれない。

趣味や娯楽としての「youtube」が、いつの間にか「職業」「労働」「仕事」「大変なもの」という言葉の中で語られている。

これは

「労働があろうと、そうでなかろうと、自己表現や自己実現に人々は従事するようになり、自分が認められようと躍起になり、結局忙しくするだろう」

と一緒ではないか?「認められたい」という承認欲求と自己顕示欲の強い人間が、揃いもそろって、「競争」を始める。今の、「youtube」なんて、どうだろうか。本当に、ただの「娯楽」の領域だけで語れるのだろうか。

なんか話が逸れた。オチも、結論も、どうつけていいか分からない。紙幅は、勝手に終わらせよう。



今日も大学生は惟っている。


参考文献

大塚英志.2016.感情化する社会.太田出版

ヨルシカ.2020.盗作.ユニバーサルミュージックジャパン

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