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誰かに明るい未来を示すことは、誰かの明るい未来を奪うということだと:僕のヒーローアカデミア

僕のヒーローアカデミア第四期第85話「開催文化祭!!」(アニメベース)に、こんな台詞がある。

これは、ラブラバ(相葉愛美)というヴィラン(?)の台詞だ。

やめてよ放して!ジェントルを放して!放して!いやよぉ!...ジェントルが心に決めた企画なの!大好きなティーブレイクも忘れて、準備してきたのぉ!放せ!何が明るい未来よ!あたしの光はジェントルだけよぉ!私のジェントルを奪わないで!奪わないでよ!   

 僕のヒーローアカデミアは、純粋に一人の少年の成長物語としての側面を持っているが、魅力はそこだけではない。

魅力は、ヴィラン或いはヴィラン(とされている)人にもある。特にジェントル・クリミナルvs緑谷出久戦は、僕のヒーローアカデミアのなかでも、非常に印象に残っている回だ。

なぜかというと、ラブラバにとっては、ヴィラン側にいるジェントル・クリミナルこそが、「ヒーロー」であり、「光」であり、「未来」を象徴するものであったからだ。

ジェントル・クリミナルも、緑谷出久も背負っているもの、守りたいと思っているもの自体は、全くもって同じなのだ。同じであるはずなのに、立場が異なるというだけで、お互いが争わねばならないという皮肉を、私はこのエピソードから読み取ったのだ。

そこにあるのは、正義対悪ではなく、正義対正義或いは、悪対悪なのである。本質としては同じものであるのに、お互いの守りたいものを犠牲にしないために、衝突が起こる。そしていづれどちらかが負け、正義という悪に屈しなければならなくなる。

誰かに明るい未来を示そうと思った緑谷出久は、ラブラバ(相葉愛美)の未来・光であるジェントル・クリミナルを倒すことによって、ラブラバの明るい未来を奪ったという見方も出来る。というか、私にはそうしか見えない。


明るい未来は、誰かにとっては、絶望の別の名でしかない。


ヒーローではなく、ヴィランにとって助けられたのなら、その人にとっては、ヴィランがヒーローなのだ。

だから、ヒーローは非常に難しい職業だ。オールマイトという名のヒーローもいるけれど、全てを救うのは土台無理な話なのだ。ヒーローになろうという時点で、もう全て(オール)を救うことは無理なのだ。ヒーローになることは、誰かの明るい未来を守ることであり、また必然的に誰かの明るい未来を奪うことなのだ。

緑谷出久といづれ対立する死柄木弔は、「誰かの明るい未来を奪う」の典型なのだ。ここでも、緑谷出久と死柄木弔は真反対にいるように見える。

話を戻そう

ジェントル・クリミナルvs緑谷出久戦は、やはり特筆すべき回なのだと思う。誰かの明るい未来を守るために、誰かの未来を奪う。このようなことを、ヒーローは成さなければならないのだと知った。多の為の、少数の犠牲でもあった。

私が、何か明るい未来を手に入れようとするとき、それは誰かの未来を奪うことだとしたら、それは果たして正当化出来ることなのだろうか。


仮に私がヒーローになったとして、自身がこれほどに矛盾していると知ったなら、私は誰かを守らないということを横目に、誰かを救うことは出来ると決めることは出来るだろうか?

ところで、ヴィランには、社会から意図せずに拒絶、或いは正しい(とされている)道から逸脱してしまった人が多い。彼らは悪であったというよりも、悪になってしまったのだ、という方が正しい。

そんな彼らの未来を、ヒーローはやはり奪い続けるのだろうか。



今日も大学生は惟っている。


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