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【281日目〜300日目】息子へ紡ぐ物語

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【あらすじ】:2022年1月。82歳の父とメールを続けて約一年の月日がなかがれたころ、コロナウィルスが父に襲い掛かった。持病を持っている高齢者は死につながる可能性がある。我が家の… もっと読む
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記事一覧

【281日】一族集合

ご隠居からのメール:【一族集合】 正月二日には恒例により、子どもたちや孫たちが年始に集ま…

【282日】ステイホーム

ご隠居からのメール:【ステイホーム】 正月三日目は、新型コロナウイルスのまん延で。不要不…

■【より道‐94】戦乱の世に至るまでの日本史_義満の謀事「南北朝合一」

南北朝問題は、1272年(文永九年)に後嵯峨天皇が、治天の君(ちてんのきみ)を定めずに崩御し…

【283日目】初詣

ご隠居からのメール:【初詣】 数年前まで、初詣は成田山新勝寺まで出かけていたが、最近は地…

【284日】疫病の日本史

ご隠居からのメール:【疫病の日本史】 人類の歴史をふりかえってみると、狩猟や漁撈を中心に…

【285日目】市中感染

ご隠居からのメール:【市中感染】 近所に住む友人とイオンの喫茶店でコーヒーを飲みながら約…

■【より道‐95】戦乱の世に至るまでの日本史_義満の謀事「応永の乱」

周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊などの守護大名であった大内義弘は、足利義満の2歳年上で、いちばんの家臣でした。 全国行脚するために安芸の厳島神社へ参拝にも随行していますし、九州探題の今川了俊と共に九州平定のために挙兵しました。また、1391年(明徳二年)に起きた「明徳の乱」で活躍した翌年には、南北朝合一の仲介役までしています。 そのような忠義を尽くした大内義弘を足利義満は追い込み「応永の乱」に発展させました。今回は、そのあたりを記してみたいと思います。 ■征夷大将軍・

【286日目】大雪

ご隠居からのメール:【大雪】 大雪が降った。足が滑るから外出はひかえたほうがよいと家人に…

【287日目】咳

ご隠居からのメール【咳】 私はぜん息という基礎疾患を持っているので、日ごろから咳には敏感…

【288日目】コロナ陽性

ご隠居からのメール:【コロナ陽性】 発熱外来でPCR検査を受けた。結果はコロナ陽性と告げら…

■【より道‐96】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「嫡子断続」

■四代将軍と五代将軍 第三代将軍・足利義満(よしみつ)は、有力大名であった土岐氏、山名氏…

【289日目】ガマン強い

ご隠居からのメール:【ガマン強い】 私は自分がガマン強いほうだと自覚している。しかし、こ…

【290日目】高熱

ご隠居からのメール:【高熱】 ついに体温が38度に達した。37度台で推移しているうちは、…

【291日目】意識もうろう

ご隠居からのメール:【意識もうろう】 体温38度3へ上昇。意識もうろうとなり、何か話そうとしてもロレツがまわらなくなる。白旗をかかげて、タクシーで虎ノ門浦安クリニックの発熱外来を訪れることにした。この判断は、私自身が下したものというよりも、市内に住む長女の意向が強く反映されている。 実は、私はすでにエンディング・ノート(遺書)を書いていて、その中に、「万一の場合でも、救急車を呼ぶな」という一条がある。絶好の死に時は逃がすなという意味をこめたつもりだが、よく考えてみると、タ