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■【より道‐105】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_「応仁の乱(自習):前編」

歴史に興味がなければ、「応仁の乱」などわけがわかりません。そもそも、中世の時代は、日本の歴史に隠されているような気がしていますので、普通の「くらし」をしている現代の人には、人生で触れる機会というのが非常に少なく、日本史として人気があるのは、織田信長が活躍した戦国期のように思えます。

それでも、じぶんなりに、ファミリーヒストリーの視点で調べてみると、中世の時代は、かなり面白く、いまの日本の文化や、命があるのは、この時代を経てあるのだなと、しみじみ思ったりもします。

今回は、じぶんが学び、感じた視点で「応仁の乱」を書いてみようと思います。もしかしたら、新しい発見があるかもしれません。


■専制政治

「応仁の乱」が起きた、そもそもの理由は、三代将軍・足利義満よしみつが、武家、公家、仏門のトップに君臨し、ありとあらゆる権力を手中に治めたことからはじまると思います。

現代でも、人が人の上に立ち、一人の人間に権力が集中する専制政治で保っている国がありますが、中世の日本は、天皇の権力をも凌駕するチカラをもった、足利義満よしみつの存在が、南北朝問題の終焉に導きました。

しかし、もともと室町幕府を開いた、祖父の足利尊氏たかうじは、後醍醐天皇が掲げる「公家一統くげいっとう」すなわち、天皇が頂点に立ち、すべての政事を朝廷が行うという思想に反発したのがはじまりではありましたが、その真意は、「公武一体こうぶいったい」、武家が領地を守るための政事を行い朝廷がその権威で治めるという、朝廷と武家が一緒になって日本を治めようという思想でした。

しかし時が経ち、ひとりの人間に権力が集中したことが、終わりのはじまりだったのかもしれません。


■三管領・四職・奉公衆

三代将軍・足利義満よしみつは、将軍直下に「管領かんれい」「侍所さむらいどころ」「奉公衆ほうこうしゅう」という組織をつくりました。「管領」とは、政事を統括する者。「侍所」は軍事長官。「奉公衆」は、将軍直属軍と言ったところです。

この組織をつくったのには、理由がありまして、もともと鎌倉幕府が開かれたときに、将軍の補佐をしながら政事をおこなう「執権しっけん(管領)」という役職がありました。しかし、この「執権(管領)」が実権を握り、好き勝手に政事をすると、将軍はお飾りのような存在になってしまいます。

そこで、足利義満よしみつは、「執権(管領)」に集中していた権限を分散することにして、「管領」の実質支配を防ぐ組織をつくったということになります。

また、「管領」の職には、畠山氏、斯波氏、細川氏という、足利一門で家格かかくの高い血筋をもった家長しか就くことができず、「侍所」には、足利一門以外の外様とざまも含めた京極氏、山名氏、赤松氏、一色氏の家柄の家長しか就くことができませんでした。

この三管領・四職の勢力争いというのも「応仁の乱」に発展したひとつの要因と言われています。


■時代を超えた因果応報

源頼朝みなもとのよりともが鎌倉幕府をひらくと源氏の血を引く武士の棟梁が東日本を治めることになりました。

そして、源頼朝が亡くなり「執権(管領)」の北条平氏が実権を握ると、1221年(承久三年)に朝廷と坂東武者が戦う「承久の乱じょうきゅうのらん」が起こりますが、朝廷の敗北により、西日本含めた日本という国を武家が治めるようになりました。

しかし後醍醐天皇が朝廷の世を取り戻そうと、源氏の武士たちの力を借りて鎌倉幕倒幕に成功して「建武の新政」を行いますが人心を掌握できず、足利尊氏が大覚寺統だいかくじとう(南朝)の血筋をもつ後醍醐天皇と対立する、持明院統じみょういんとう(北朝)の光厳こうごん上皇の綸旨りんじを得て西の京で幕府を開き、源氏の血を引く足利一族が日本を治めはじめたのです。

それは、多くの人の血が日本の大地にしみこみ戦い続けた結果ではありますが、日本の将来を見据えて、武家の棟梁、足利尊氏たかうじ、足利義詮よしあきら、足利義満よしみつの三世代の将軍が、朝廷がふたつあるという、南北朝の問題を徐々に解決しながら築いてきたことです。

その後、四代将軍・足利義持よしもちは、父、足利義満よしみつに集中した権力を否定しながらも、守護大名たちとの調整役として機敏に立ち回り、実に28年もの長きにわたり歴代最長の政権を築き上げることができました。

しかし、悲運は、嫡男が19歳でなくなり、後継が育たなかったということです。最後は、神頼みの「籤引き」でこの国の未来を決断することになったことになりますが、このとき神は、足利一門の終わりを示したのかもしれません。


■万人恐怖政治

じぶんは、籤引きで将軍になった、六代将軍・足利義教よしのりの行った、政策によって「応仁の乱」が起きたと思っています。

足利義教よしのりは、兄の足利義持よしもちによる長期政権で失墜した幕府権威の復興と、将軍が自ら政事を行う、将軍親政、ようは、専制政治の復活を目指しました。政策のお手本となったのは、父、足利義満よしみつでした。

たしかに足利義満よしみつは、南北朝問題を解決するために、土岐氏のお家騒動、「土岐康行の乱」を誘ったり、もともと南朝勢力出身で、当時六分の一殿と呼ばれた、山名氏のお家騒動を誘う「明徳の乱」を起こさせたりしました。

これは、守護大名の家督継承に口をはさむことで、自らの勢力を増強して、チカラをもつ勢力を衰退させる、ようは、南北朝問題を解決させるための政策でしたが、足利義教よしのりもこの政策を真似ます。

しかし、彼がとった行動に大義はなく、意中の者、すなわち自分のいうことを聞く人間に家督を継がせ、さらには、次男三男坊には、将軍直下軍の「奉公衆」に加入させるなど、嫡子単独相続の伝統までも否定してしまったのです。この背景には、足利義教よしのりが若かりし頃、仏の道に進むしか生きる道がなかったことへの反発のように思えます。

さらには、関東討伐を行い、同族の鎌倉公方まで自害に追い込むという、とにかく、自らを中心に政事を進めるために、武力をつかい他者を征圧していくわけですが、当然、このような傍若無人な対応には、人の心はついていかず、最後は、有力守護大名、赤松満祐みつすけに殺害されてしまったのです。「嘉吉の乱」ですね。

足利義教よしのりを、有力大名の既得権益から解放した天才と評価するひともいますし、織田信長は、足利義教よしのりの恐怖政治を参考にしたともいわれていますが、この世の混乱から「応仁の乱」へ発展することになります。果たしてそれは、その先の日本の未来まで考えてくれていたのでしょうか。


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