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■【より道‐53】戦乱の世に至るまでの日本史_王政復古の野望「笠置山の戦」

鎌倉幕府の権力が北条氏に権力が集中しだした頃、イタリア人の旅行家・マルコポーロが記した「東方見聞録」に「日本の民族は、肌の色が白く礼儀正しく、偶像崇拝者である。彼らは、限りなく金を所有している。しかし、大陸から離れているので、この島に向かう商人はほとんどおらず、黄金が眠っている」このときに「黄金の国ジパング」と日本を表現してくれたそうです。

しかし、一説によるとマルコポーロ自身は日本に訪れておらず、中国の役人に聞いた話しをもとに記したそうですが、この記事を読んだモンゴル帝国皇帝のクビライ・カアンが日本に興味を持ち侵攻してきたそうです。

蒙古軍が攻めてこなければ、鎌倉幕府は続いたのでしょうか。

いや、この時代の問題は、鎌倉幕府が現代のロシアのように専制支配となっていたことや、皇族の両統迭立りょうとうてつりつ問題。日本の血族対立である平氏一族に不満が溜まっていたこと。そして、民の貧しさなどの不平不満の矛先が鎌倉幕府に向かったことだと思います。

今回は、鎌倉幕府が滅亡した「元弘げんこうの乱」をご先祖さま達がどのように生き抜いたのか調べてみたいと思います。


■不屈の男・後醍醐天皇
1324年(正中元年)の「正中しょうちゅうの変」では、討幕計画が事前にバレてしまいましたが後醍醐天皇はあきらめませんでした。

今度は、幕府からの影響の少ない、寺社勢力たちのチカラを借りようと、息子を比叡山に送り込みました。

ほかにも延暦寺の僧には、「関東調伏の祈祷」という鎌倉幕府を怨敵として降伏させる祈祷をさせたり、東大寺や興福寺などに足を運び味方を増やしていきました。

腹心の日野資朝ひのすけともなどには、各地の武士たちと連携をとらさせるよう活動が活発になると、側近の公家に討幕計画を密告されてしまいます。

「正中の変」に続き、二度目の倒幕計画を企てたということで、鎌倉幕府は、今度ばかりはと、直ちに僧や日野資朝などを逮捕しました。

さらには、後醍醐天皇を捕まえようと、宮廷におしかけますが、後醍醐天皇は「三種の神器」を持ち出しギリギリのところで都を脱出して、わずか20名程度の公家たちと笠置山かさぎやま(京都府南部)に布陣したそうです。

そして、幕府の追手と戦うために、近隣の土豪や野武士らに参陣を呼びかけ3,000人ほどの兵で籠城すると、1331年(元弘元年)の「元弘の乱」の発端となった「笠置山の戦い」がはじまりました。

対する幕府勢力は75,000人。圧倒的な兵力差でしたが、笠置山は天然要塞となっていたので幕府軍に善戦します。とはいっても、いかんせん兵力が足りません。そんなときに後醍醐天皇がある夢を見て戦局が変わっていきます。

それは、「南向きに伸びた大きな木の横で休むように」と童子に告げられたという夢だったそうです。その夢から「木」と「南」の文字を合わせて「くすのき」を連想し、河内国(東大阪)に館を構えている、武将・楠木正成くすのきまさしげに参戦を促す伝令を向かわせました。

しかし、鎌倉幕府の対応は容赦ありませんでした。鎌倉からは北条軍だけではなく、第二陣として足利尊氏や新田義貞も笠置山に兵を向かわせることになります。

後醍醐天皇の要請に呼応した、楠木正成は笠置山に足を運び後醍醐天皇と面会を果たします。そして、後醍醐天皇の皇子と共に笠置山を脱出し自らの領地にある赤坂城で挙兵することにしました。兵力を分散しようという戦略です。しかも、赤坂城は、山を切り崩した断崖絶壁の城で幕府軍は大苦戦したと言われます。

鎌倉幕府の次なる手は、後醍醐天皇を強制的に退官させて後醍醐の大覚寺統と対立する持明院統の皇統から光厳こうごん天皇を即位させました。

すると兵力差のある笠置山が陥落して後醍醐天皇は捕まってしまいました。楠木正成も新たな天皇が即位したことで、「朝敵」に対する挙兵という大義名分を失い善戦むなしく赤坂城を脱出したと言われています。

そして、倒幕を計画した後醍醐天皇は隠岐に流され、日野資朝は斬首されてしまいました。

この当時の足利尊氏は、源氏の頭領でもありますが、北条家を支える家臣でもありました。横柄な北条家に多くの不遇や辱めを受けながらも、鎌倉を支えるために奉公をしてきたそうです。さらには、政略結婚として北条家の血筋である赤橋登子あかはしとうこを妻に娶っていました。

家を存続させるために、平氏である北条家との関係をなによりも大切にしていましたが、京都に出兵した足利尊氏は、日野資朝の斬首刑を目の当たりにしたともいわれています。

そもそも、「正中の乱」や今回の「笠置山の戦い」は、源氏の血筋である後醍醐天皇や公家の日野資朝が、貧しい民たちが溢れる世の中を正そうと考えて行動したことです。その原因は、搾取し続ける鎌倉幕府、いや、北条氏(平氏)にあると考えていたからです。

後醍醐天皇の隠岐への流罪。日野資朝の斬首刑をみた足利尊氏は思うところがあったと思います。

さて、この頃のご先祖様を辿ると血筋である佐々木道誉ささきどうよのちの京極道誉きょうごくどうよは、後醍醐天皇を隠岐流罪の旅に随行したそうです。京極道誉の身分役職は、相伴衆そうばんしゅうとよばれる、宴席や他家訪問の際に随従・相伴する仕事だったといわれています。

さらには、流罪の地である出雲・隠岐地方は、同族の佐世させ氏(佐々木氏)の領地。そのため、後醍醐天皇を京都から隠岐へ随従したと言われていますが、このときに同じ源氏である後醍醐天皇に忠義を誓ったのではないかと想像しています。

ちなみに長谷部氏が従属していたと思われる山名時氏やまなときうじと、足利尊氏は従妹関係で、母親が上杉氏の出身でした。

長谷部氏の動向は、シンプルに足利尊氏が後醍醐天皇の反乱を鎮圧するための出兵に従属していたと考えてよいのかなと思いました。おそらく、能登の長谷部氏はともに京都へ出兵したでしょう。

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