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■【より道‐90】戦乱の世に至るまでの日本史_足利義満へ継がれるまで

足利尊氏が亡くなると息子の足利義詮よしあきらは、父の時代から続く南北朝のイザコザをなんとか治めるために、足利一門の結束を促して南朝側に属していた大名たちを幕府側に帰参させることに成功しました。

ただ、歴史をみると足利義詮はあまり注目されておらず、どちらかというと三代将軍・足利義満の方が評価されているように思えます。実際に南北朝問題を解決し、明との貿易で莫大な財を得て、日本の文化である金閣寺を建立したからですかね。

今回は、激動の時代を乗り越えた、足利尊氏、足利義詮ではなく、その後の室町幕府を築いた、足利義満の時代に迫ってみたいと思います。


■足利尊氏が残したもの

足利義満よしみつを語るには、父である、足利義詮よしあきらがどのような時代を過ごしたか、語る必要がありますが、そのためには、祖父の足利尊氏の時代を簡単に振り返ってみたいと思います。

大覚寺統と持明院統の皇族争いの問題を抱えながらも、何とか武家の世を築いた足利尊氏ですが、ひとつ大きな落とし穴がありました。それは、1349年(観応元年)に起きた天下分け目の兄弟ケンカ、弟の足利直義ただよしとの権力争い「観応の擾乱」です。

足利直義は、足利尊氏がどこかしらの女性に産ませた息子、足方直冬ただふゆを養子にしたことで、日本という国は、右往左往してしまいます。なぜなら、足利尊氏には、鎌倉時代から続く、北条得宗の血筋である、赤橋塔子あかはしとうことの息子、足利義詮よしあきらがいるからです。

征夷大将軍である足利尊氏の息子として生まれた、足利直冬と足利義詮ですが、血筋を蔑まされて育った長男の足利直冬からすると、父の愛情をうけながらぬくぬくと育ってきた、義弟・足利義詮に憎悪の念をもつことは、必然だったのかもしれません。


■ 源一門の結束

南北朝の問題と、兄弟ケンカが複雑に重なり合った、室町幕府初期でしたが、息子、足利義詮が征夷大将軍を継いだことで、この問題を大きく改善させました。

それは、足利直義派閥であった、山名氏や大内氏。他にも二木氏や桃井氏、石塔氏を室町幕府に帰参させたことです。これは、征夷大将軍の補佐をする「管領」の職についていた、細川清氏きようじが失脚したことで「管領」の職を、同じく足利直義派であった、斯波氏が継いだからだといわれています。

その後、斯波氏が失脚し「管領」の職についたのは、細川頼之よりゆきでしたが、細川頼之が「管領」職についた翌年。10歳の足利義満を残して、足利義詮はこの世を去りました。38歳でした。


■足利義満の功績

足利義満の功績と言えば、なんといっても、南北朝問題を解決したことにあると思います。

南北朝問題を振り返ると、1272年(文永九年)鎌倉時代に後嵯峨ごさが天皇が後継を決めずに崩御したことから、二人の息子、持明院統と大覚寺統の血筋から交互に皇位を継承したことからはじまります。

しかし、後嵯峨天皇の曾孫で正統な後継者を主張する後醍醐ごだいご天皇(大覚寺統)は、1333年(元弘三年)に「元弘の乱」を起こし、鎌倉幕府の倒幕を果たしました。そして、建武の新政、公家一統の世を築こうとしましたが、命がけで戦った武士たちに不満が募り、源氏の棟梁・足利尊氏のもとに武士たちが集まり「建武の乱」が起きました。

その後、吉野に逃げた後醍醐天皇(大覚寺統)は南朝。足利尊氏を支えた光厳こんごん上皇(持明院統)は北朝として、各々朝廷を主張しながら争いが続きました。ときには、源氏一族の政治の思惑で武士たちが敵味方に入り乱れていましたが、この混乱の状況を、足利義満が解決したということです。

その方法は、1392年(明徳三年)南朝方に通じている大内義弘よしひろを仲介役として和平交渉を行い、南北朝合一の合意をとりつけたそうです。合意の条件は、三種の神器を北朝に引き渡し、今後は、大覚寺統と持明院統で交互に皇位につきましょう。また、国の荘園を各々わけましょう。というものでした。

しかし、室町幕府と北朝側は約束を反故ほごして、皇位は北朝側(持明院統)が代々継ぎ、南北朝問題を無理やり解決したというもです。

では、なぜ、足利義満は、このようなことができたのでしょう。それは、南朝はじめ、有力武家たちの力を衰退させて、専制権力を確立したからだといわれています。

次回からは、そのあたりを調べてみたいと思っています。


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