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■【より道‐12】長谷部元信


応仁の乱を経て、戦国期に突入したご先祖さま。現時点ではあるけれども、戦国期に活躍した長谷部(長)大蔵左衛門元信の逸話や語り継がれている歴史についてまとめてみた。


はっきりとした勝敗もつかないまま1477年に東西両軍が解散して応仁の乱は終了した。幕府の統制が効かなくなった日本国は、各地で「一向一揆」が起きるなどの混乱期となっていく。そんななか、西日本では、室町幕府時代までチカラを持っていた山名氏が衰退し、代わりに大内氏が影響力を強めていくことになる。

大内氏は、応仁の乱で戦火から避難してきた、公家や僧侶を積極的に受け入れ、「西の京」「大内文化」と呼ばれるようになるまで文化を発展させる。また、日明貿易などで莫大な利益などで益々繁栄し、1508年ついに大内義興は上洛を果たすこととなる。

ときは経ち、尼子氏、毛利氏、大内氏の中国地方の勢力図が目まぐるしく変わる時期に、長谷部元信が活躍したといわれている。

 

【吉田郡山城の戦い】
元々、山名氏に属していた長谷部氏は、応仁の乱で山名氏衰退後、尼子氏の傘下に入っていた。1540年尼子晴久が30,000の兵で毛利元就の居城、吉田郡山城に攻め込む。毛利元就は元々尼子氏に属していたが、大内氏に寝返ったため。2,400の兵で対抗した。その後、大内氏の援軍、陶晴賢が到着すると尼子晴久は撤退し多くの国人が尼子氏を離れたそうだ。

【厳島の戦い】
長谷部元信は、1555年に毛利元就とともに大内與義を殺害した陶晴賢討伐のために厳島の戦いに参戦している。当時、陶軍30,000人、毛利軍5,000人と言われているので、士気や連携、地勢の利をうまく利用したのだろう。

【から傘連判状】
1558年には、毛利元就が備後国衆18人と交わした「から傘連判状」に署名をしている一人となっていた。毛利元就が交わした「から傘連判状」は、芸州国衆と備後国衆と交わした2種類あり、円状に名を連ねることで首謀者を隠し、みな平等だという意味で署名と血判の契りを交わしたそうだ。なお、備後の「から傘連判状」は、その後、破談したと伝わっている。

【白鹿城の戦い】
他には、1562年の白鹿城の合戦では、『楢崎三河守、長(長谷部)大蔵左衛門、虫上五郎は、好適の首を討ち取った』と「陰徳太平記」に記載されている。ここで、松田誠保と戦っている。将来、長谷部氏と松田氏の末裔は、尼子の落ち人と称し高瀬村の隣人として支え合いながら生きていく。

【逸話1】
ロマンあふれる歴史だけではない。伯耆日野黒坂に長谷部信連の末裔で神官の長谷部絢光氏が以下のような文章を残している。

 『註 これより元信、毛利家に加担したること及関長門守黒坂入城の際雅楽相模守(元信五代の孫)に地割(じわり)させられしことより長門守神罰を受けて滅亡することに及び仏法を排し神明神衹(しんめいじんぎ)を崇拝すべきことを詳論せり。』

【逸話2】
そして、もうひとつ。鳥取県の日野に「大倉山」という山があり、この山は、「大蔵山(おおくらさん)」と呼ばれたり、孝霊天皇に退治された鬼が住んでいたので「牛鬼山」とも呼ばれ以下のような逸話が残っている。

『長谷部信連の末裔の長谷部元信が山麓を通りがかると「大蔵殿」と鬼に呼び止められて、「お前の先祖長谷部信連が各地に神社を建てるので住み難くなったのでここを去る」といって消えた。』

まだまだ、深堀する必要があるだろうが、ご先祖さまの情報を460年後の現代で、Webや本を通じて知るというのもなんだが、翁山城跡には、長谷部元信の墓があり、菩提寺である善昌寺があるらしい。どちらも広島県の上下町と遠く離れた土地にあるが、いつか行ってみたいものだ。


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