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25歳借金アリ、子供できちゃった、崖っぷちフリーターが縫製工場で起業して4年で1億円の売上になった話

1章 夢はでっかい崖っぷちフリーター


今から5年前、

僕は崖っぷちだった。

オーストラリアからのワーホリを終え、貯金を使い果たし、帰りのチケット代をクレジットカードで購入し(リボ払い)帰ってきた、

そして帰国後すぐに出会った彼女(今の妻)のお腹には子供がいる。


俳優や、テレビの助監督などの仕事をフリーランスでした後、メディアの仕事が嫌になって日本を飛び出し、オーストラリアで1年間を過ごし日本に帰ってきた。


とりあえず日銭が必要で、友人の紹介でレストランの立ち上げのバーテンダーとして働いていた、大阪の難波から少し北に行った地下の小さなお店だ。

アメリカ人兄弟が立ち上げだおしゃれなお店、そこでアルバイトしていたが月々10万円前後の収入では結婚はもちろん、子供なんか育てられるわけがなかった。

妻にはプロポーズした

「一生幸せにする、これからとても大変な道のりになるかもしれないけれど、信じてついてきほしい」

もちろん指輪なんて買えなかった、

「1万円のものでもいいから買ったらいいじゃないか」という人もいるかもしれない、

でも本当に買えなかったのだ。

正直電車代がもったいなくて、歩いて難波から奈良の実家に帰ったこともあるくらいだ。(4時間かかりました)


僕は考えた、

ひたすら考えた、

「どうしようか、最低でも月20万円くらいはないと子供育てるとか無理だよな。。。」


でも当時の僕にとっての20万円はとてつもなく大きかったし遠かった、

今アルバイトで10万円だけどこの”倍”稼がないといけないのだ、


僕はテレビドラマの演出家をしていたし、バラエティ番組でもディレクターなどもしていたからそこに戻ればまぁ20万円くらいは稼げるか、

とも考えた、

しかし一週間合計で10時間くらいの睡眠になる過酷な労働に耐えられる自信もなかったし、

いつまでもそこにいたらダメだ!と決めて日本を飛び出したのだ、

またそこに戻るのは気が引けた、


それに妻も「できるだけ家にいてほしい」と言ってくれた。

妻は生まれ育った土地から離れて奈良の田舎に嫁いでくるのだ、

周りに友達もいなく、女系の僕の実家の近くに置かれて、

僕が1ヶ月のうち数日しか帰ってこないなんてありえないだろう。



そこでひらめいた、

天才だ。と思った。


「親のスネをかじろう」


こう見えて僕はクズだ、

プロのクズだ。

なめてもらっちゃ困る、

ヒモもやったし、ホームレスも経験した、

今更親に頭下げてなんとかしてもらうなんて訳ないのだ。


しかも僕の母は縫製工場を経営している、

経営はなんだか苦しいらしいが一応経営しているのだ、

僕1人に20万円の給料を払うくらいなんとかなるだろう、

もちろん中に入って手伝う訳だから労働力にはなるだろう。


そう考えて母に電話した、


僕「俺おかんの会社に入って手伝いたいんやけど」

おかん「無理」

僕「なんで?」

おかん「会社苦しいし、縫製業はこれからの仕事じゃないし、それに。。。」

僕「それに?」

おかん「自分で苦しまな会社のありがたみなんかわからん、わかってもない人に入ってきてほしくない」

僕「ケチ」

ツーツー...



ということで母の会社に入社する作戦は失敗に終わりました、

こちらは人生をかけて恥を忍んでお願いしているのに(クズ)

でも1つ気になることがありました、

「縫製はこれからの仕事じゃない」って言ってましたが、

オーストラリアでもユニクロは流行ってましたし、

ZOZOもすごい勢いでした、

服づくりなんかめちゃくちゃ儲かってるやろ?

ということでした、

そこでググってみました、

「縫製 市場規模」

そうすると縫製の市場規模は出てきませんでしたが、

アパレルの市場規模は9兆円以上あることがわかりました、

「ほらみろ、かなりでかい市場やん」

そしてスクロールしていったところ

「洋服の国内自給率は2.3%しかありません」という事実に行き着きました。

愕然としました、

「なんとかしなあかん」

そこで奮い立ちました。

そして母の工場を研究してみました。

そうすると

設備ボロボロ

・60-70代が多い(50代数名、80代数名)

・1社の大手の下請けの仕事が99%

・給与は本当にギリギリ(下手したら赤字)

こんな感じでした、

クズは(僕は)とても後悔しました。

こんな状態の会社に「働かせて、俺に20万払って」と言っていたんだ、

そこで奮い立ちました、

こりゃ僕がなんとかしなあかんやろ。

苦労して、母子家庭で僕を育ててくれたオカンにここで恩返ししな意味がないやろう。


そしてその場で当時まだ同居していなかった妻に電話で伝えました。

僕「起業しようと思う」


妻「そうなん、頑張って」


衝撃でした。

そんなことありますか?

自分のお腹には子供がいて、自分は仕事を辞めて、

今から土地勘のない奈良に嫁いでくる

そんな状況でさらに「起業する」という言葉に二つ返事で「頑張って」って言えるのか、本当すごいと思う。


そんな妻の理解もあり起業を決意しました、




2章 クズ、起業する


クズはあまり良い言葉ではありませんが、僕の友人は僕のことを本当に愛情を持って(?)クズと呼んでくれていました、

なんたってプロのクズだから。

妻からの了承を得て、いざ起業するということになりましたが肝心のものが何一つありませんでした。


・ノウハウ

・お金

・ビジネスモデル

・信用


こんなものは本当に1つもありません。

まず行ったのは法人登記のための資本金調達でした。

なぜ法人にしようと思ったのか、

「代表取締役社長」ってかっこいいと思っていたから。70%

母の事業が個人事業だからなかなか大手企業と取引ができなかったから30%


です。

本当に適当ですね。

全く登記に関してもわからないのでとりあえず母が入っている「商工会」とやらに駆け込みました。

それで法人登記を調べてみると「株式会社30万円弱の費用が必要」「合同会社10万円前後で起業できる」ということでした。

迷わず合同会社を選択、そして手続きしました。

できることはほとんど自分で行いました。

そして気付きました、合同会社の場合「代表取締役」にならない。

「代表社員」ってなんやねん。

まぁそれはしょうがない、金がないんだ。

そもそも資本金がない。

だって借金あるくらいだからマジでお金がない。

だからって1円の資本金なんて企業と取引なんかしないよなぁ、特にアパレルとか古そうな業界だし。100万円くらいなんとかならないかぁ。。。


そう考えました、


そこで女神が降ってきました。





「ご祝儀!」


あるやん、

その当時僕たちは籍を入れたばかりで結婚式はやってませんでした、

時間軸でいうと

12月籍を入れる

2月末結婚式


つまり1月に会社を登記して資本金を入れて、個人貸し付けにすれば資本金100万円の会社ができるんじゃない?

と閃き親戚を回りました。

「ご祝儀の前借りをさせてください」

「爆笑、なんでやねん」

「会社起こすんですけど、資本金にしてそれから結婚式に使います」

「ええよ」


そういって親戚10人(10万円ずつ)回って100万円集めました。

実はこれが僕の最初の「資金調達」でした。


そして無事に?資本金100万円で合同会社ヴァレイを創業しました。

2016年1月21日、25歳でした。

結婚式を1ヶ月後に控えた時期でした。



3章 日本政策金融公庫との戦い


無事に結婚式を終え、手元に資金は1円も残っていませんでした。

これはなんとかしなきゃ仕事を始めることもできない。

手元にパソコン1台あったけど、オーストラリアで使っていたボロボロのものでした。

その時考えていたビジネスモデルはいわゆる「振り屋さん」と呼ばれるものでした、

母の工場という武器を持っていた僕は、母に休日出勤してもらい自分で取ってきた仕事を縫ってもらい収益をあげよう、というものでした。

(今のビジネスモデルの原型)

僕は一応テレビドラマを撮ったりしていたので写真を撮ったり、なんとなくホームページをつくるくらいはできたので、ホームページで仕事を取ってこようと考えていました。

それにしてもしっかりと使えるパソコンもカメラもありません。

そこで商工会に相談したところ「日本政策金融公庫ならお金かしてくれるかも」と言われました。

「おいおい早速借金かよ」

そうも思いましたがもう引けません。

そして人生で初めて事業計画書を書きました、今見返すと青臭くて全く説得力のないものでした。

希望金額は300万円、

言っても会社の社長なのだ!借りれるだろう。

そう思い公庫奈良支店へ、


「ん〜、無理っすね」

「え、マジですか」

「だってこのビジネスモデルだったら費用必要ないじゃないですか、仕入れいらないし」

「シイレイラナイ?」


そんな仕入れも何もわからない状態で乗り込んだもので、結局担当者に色々と教えてもらいました。

そして「半分の150万円ならいいですよ」と言われ、

150万円を調達しました。


「よし、これで15万円の給与(手取り13万くらい)だったら10ヶ月くらいは生きられる。。。」

そう思いました、





そして帰ってきて事務所を契約しました!?


はい、

事務所を借りてしまいました。

だって欲しかったから、

それがこれ

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そして今はこんな感じ

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知り合いに頼んで内装を10万円でやってもらって、家賃3万円という超破格で契約しました。

家でもできるだろうに、事務所まで借りて、

本当にバカです。

でもそれがないと今はなかったとも思います。


そしてそのまま



20万円のカメラと20万円のパソコンを購入


はい、

またやらかしました。

理由としては

いいカメラじゃなきゃいいプロモーションなんかできない(そんなことない)

いいパソコンがないとやる気が出ない(本音)


多分奥さんはマジで呆れていたと思います。


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でも「ヒデのやる気ができるならそれでいいんじゃないの?」と言ってくれました。

本当に女神様です。


そして早速ホームページを立ち上げました、

そしてまずやったのは不明確な価格を公開する事。

これは今でも思いますが、

服づくりってどれくらいの価格感なのか全くわからないんですよね、

お客様としては100万なのか10万なのかそれくらいの概算でいいから価格を公開してほしい。と思いました。

だから価格を公開し、仕事を募集しました。

すると1週間後初めての仕事が入りました。

それは洋服ではなく布でできたクリスマスツリータペストリーの縫製、

1枚1000円で30枚縫うというものでした、

もちろんお受けしました。

母に土曜日に600円で縫ってもらいました。

1000円くらいの送料発送して、売上3万円、粗利11000円。

これが初めての利益でした。

涙が出るほど嬉しかったです。

妻にも報告しました、初めて仕事で収益を上げたのだと、

一緒になって喜んでくれました。



もちろんこの本業だけでは食べていけないので自分のできることはなんでもやろう、ということで

・クラブの写真撮影

・商品写真

・動画制作

なんかもやりました。

ちなみにこんな写真を撮ってました。

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なんとかなんとか、手取り13万円を確保していました。

もちろん本業のホームページ用の写真を撮りまくりました、そしてアップしまくって行きました。

そうして少しずつ週に1件ずつくらい仕事が入ってくるようになりました、

しかし母の土曜日は毎月4日しかありませんでしたし、

縫製士の姉もとても忙しく、仕事をお願いしても収益を出せるほどはありませんでした。


姉はとても技術を持っている職人です、

しかし「優しい」という性格が邪魔してデザイナーさんからの仕事を格安で縫っていました。

「値段安すぎへん?」

と聞いても「デザイナーさんもお金ないんやって」

と答えるばかりで、値上げの交渉なんてろくにしていませんでした、

技能五輪で銅賞を取るくらいの技術があって、生活がやっとというような生活でした。


その頃から「絶対に職人が適正な価格を取れるようにしよう」と決めていました。

自慢ではありませんが僕はめちゃくちゃ貧乏でした、

母は朝早くから仕事に行きました、そして「ご飯だけは不自由させない」という母のポリシーにより本当に「ご飯以外」はほぼ子供達でやってました、

それでも貧乏でした。

そんな母の仕事を見ていたので、職人がきちんとした価格をもらえるようにするんだ、とこの時心に決めたのでした。



当時の僕は「資金調達」「税務」「バックオフィス」「マーケティング」「ブランディング」など含め月に50冊近く本を読んでいました、

とにかく時間だけはありました。

その頃読んでもよくわからないものも多かったですが、それでも読み漁りました。

もちろんパソコンで縫製業の現状や、他のベンチャーのビジネスモデルも研究しまくりました。


そこで出会ったのが「ラクスル 」のビジネスモデルでした。

簡単にいうとラクスル は稼働率が低い全国のプリント工場のプリンターを活用し、

自社でプリント設備を持たないプリント屋さんでした。

このモデルを縫製業に持ってくることはできないか?

そう考えたのが現在のMy Home Atelierに繋がります。


ロジックはこうです。

30年で1/4くらいに減ってしまった縫製工場の解雇された職人や、閑散期に空いているミシンと職人を稼働させることでミシンを持たない縫製屋さんができるんじゃないか、

そうすると隙間で縫うため職人は収入が上がるし、正規の価格より少し安く縫製できるから差額分儲かるんじゃないか。

そう考えました。

そしてまずは母や姉、そして親戚の工場(岐阜に結構親戚がいました)の空いた時間で縫ってもらうために営業活動を行なって行きました。



4章 娘の爆誕

起業から4ヶ月経ち、6月に娘が爆誕しました。

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この頃はまだ本業の仕事は1割くらい、

ほとんど借り入れの消費、母の工場でたまにアルバイト、写真や動画の仕事

で収益を上げていました。


この頃は本当にしんどかった。

けどなんだか楽しかったなぁ。

この頃意識していたのは「徹夜ばっかりして家に帰れない仕事にはしない」ということです。

実家は職人の集まりなので「頑張って徹夜してでも稼ぐ」という考えが定着していました、

でも僕は「仕組みで稼ぐ」をしなきゃいけないと思っていたので、

徹夜で頑張る!はほとんどしてきませんでした、

だって娘可愛いし。

妻も可愛いから。



甘えてる!

と言われるかもしれませんが、自分の調子を整えるのも自分の仕事です。



5章 初めてのMy Home Atelierさんとの出会い


当時まだMy Home Atelierという名前はありませんでしたが、

ホームページで「職人さん募集!」と募集していました。

そこに1件のメールが届きます。


「奈良県で職人をしています」

この出会いが僕たちの運命を大きく変えることになります。

このメールをもらって2秒後に僕は電話をかけていました、

ご本人もめちゃくちゃびっくりしていました、

メールを送った8秒後に着信があったのですから。

そして爆笑。

「電話してくるの早いですね」

「スピード命ですから」

そんな話をかわしアポイントを取って翌日お会いしに行きました。


お話を聞くと昔工場にお勤めで、ご結婚を機に職を離れ、今は友達に頼まれてお祭りの法被を縫うお仕事を自宅でされているとのことでした。

技術としては法被ではなくコートでもジャケットでもパンツでも縫えるほどの技術を持っていました、

僕は説得しました。

「僕たちと仕事をして下さい!絶対に僕たちは面白い会社になります!」


そこで初めての契約が取れました。

合同会社ヴァレイを初めて半年後のことでした。

そしてその職人さんは今でもめちゃくちゃ仲良くさせてもらってますし、その月から毎月途切れることなくお仕事をお願いしています。

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6章 またやらかした、仕事がないのに2人も社員を雇うの巻


その頃営業としてはインスタグラマーさんに「小ロットから受注生産できます!」とメールしまくっていました、

何名かのインスタグラマーさんからのOEM案件なども取れてきて、知り合いになったパタンナーさんにお願いして型紙をおこしてもらい、生地屋さんに行って生地を選んで服づくりをしていました。

そこで僕の悪い癖が出てきます。


「戦略を組んだりすることに集中したい生産管理はやりたくない!」

何言ってんだこの野郎!

まだ手取り13万だぞ、

だめだ!

絶対ダメだ!




ということで社員を2人採用しました

当時まだ会社にミシンは1台もなくて、入社したスタッフは購入したばかりの中古ミシンの梱包を解く仕事から始めてもらいました。


そして僕の構想としては1人は僕がやっていた営業やOEM担当、

もう1人は実際に社内で縫製を行なってもらおう。

ということでした。

しかし当時のスケジュールでは来週の仕事しかない状態で、

二週間後は何する?

みたいな状態でした、

こんな状態で人を入れるのは本当にダメです。

まじでどうかしています。

そして入社した子たちもどうかしています。

(現在1人は独立し、もう1人は現在の幹部です)


そんなクレイジーたちの入社に関してうちの妻は「いいんじゃない?」


はい、

最強のクレイジーです。


そんな状態で3名になりました。

そして毎日会議(やることないから)

「仕事頑張って取ってくるから頑張って縫おう!」

「はい!それ昨日も言ってました!」

みたいな状態でした。

けど結局その時「がんばろう」って言ってから3年半後の今まで1度も仕事は途切れませんでした。

本当に奇跡というか、めちゃくちゃ頑張ったと思います。



もちろんというか、

当時の彼らの給与よりも僕の給与はやすかったです。苦笑



いくつもの奇跡が重なって今の僕たちがあるし、

この出会いが僕を「経営者」であり「リーダー」に押し上げてくれたんだと思います。

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当時のメンバーと撮った年賀状用の写真


7章 ビジネスコンテストで奈良県一になる

会社の立ち上げから1年が経ちました、

少しずつお客様が増えてきて、粗利はかなり低いものの売上で3000万円くらいにはなってきました。

とにかく回して売上を上げるんだ!という感じでした。

当時はホームページをしっかりと整えた縫製工場は少なかったのでSEO的にもとても有利で結構強かったと思います。


そしてネットサーフィンしている時に見つけた「ビジコン奈良2017参加者募集」という広告、

なにそれ?

コンテスト?

ビジネスモデル?


とにかく挑戦が大好きな僕は迷わず申し込みました、

優勝賞金100万円!


100万円あれば当時欲しかった業務用アイロン(中古)が買えるじゃん!

ということでチャレンジ。


そして優勝。

優勝までの資料作りに関してはめちゃくちゃ頑張ったとしか言いようがありません。

しかし、

圧倒的な熱量でゴリ押ししました。

あとは役者をしていたので場慣れしていたことは大きかったかもしれません。


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実は裏話ですが、

当時資金的には無茶苦茶しんどかったです、

雇用も行なって日々お金が無くなっていくなか、赤字が常態化していました。

粗利がとにかく低かったので、売上をあげてもあげても損益分岐を超えない状態でした。

銀行に相談に行っても全く見向きもしてくれませんでしたし、

公庫も「とりあえず返済終わらないと」というような感じした。

毎日、

毎日、

本当に何かに追われる夢ばかり見ていました、

そして激ヤセし、

ほぼ鬱状態でした。


この100万円は本当に、本当に涙が出るほど嬉しかった、

というか泣きました、

1人で号泣しました。

自分が考えていたモデルが人に評価されたこと、

そして少し話は脱線しますが昔から「変わってる」と言われたり、

いじめられたりしていたので初めて自分の「変わっている部分」が人に認められた気がして、本当に嬉しかったです。


そして結婚して初めて妻と焼肉を食べに行きました。


この受賞がなければ今の自分はなかったとはっきりと言い切ることができます。


そして、この受賞をきっかけにさらなる地獄?(天国?)に突入していきます。


8章 融資を受けることができて2400万の赤字!


人は調子に乗って良いことはなにもありません。

この優勝をきっかけに公庫や地銀から融資を受けられるようになりました、

本当にびっくりするくらいガンガン融資が通りました、

過去にクレジットカードなどで支払い遅延などにより保証協会がつかない時期があったのですが、(もちろんもう解消済み)

それでもプロパーで通してくれました。

正直立ち上げたばかりの会社で数千万円をプロパーで下ろしくれるなんて、

「ありえません」

これは声を大にして言います。

「ありえません」

しかしありえないことが起こって僕の手元に初めて8桁の現金がありました。

起業してから預金通帳には10万円もない状態が続いていたのに今は8桁(数千万円)

そこで僕は完全に調子に乗りました、

数名新しく雇用し、

「これからはD2Cだ」と言ってノウハウもないのに自社ブランドの開発などに取り組みました。

本業を忘れて新規事業のことばかり。

あれよあれよというまに現金がなくなっていきます。

よく現金がなくなるのを「溶かす」って言いますが、

本当に炎天下の日の氷くらいどんどん溶けていくんですね、


結果その年の損益は4000万円の売上に対して2400万円の赤字でした。


そして決算書はもちろん最悪、

今でも思い返すと胸の奥がぎゅっとします。

悔しくて、恥ずかしくて、

惨めでした。

何が社長だ、ラッキーでビジコンに勝っただけで、

何がイケてる経営者だ。

いい格好して取材を受けている自分に腹が立ちました。

「実力もないくせに、粋がるな」

もちろん次の期中僕は借り入れが本当にできなくなり、地獄を見ました。


手元には現金がほとんど残ってませんでした。

この時期は正直全く眠れてませんでした、イライラして家族にも当たりました。

スタッフにも腹が立ちました、

「本気でやれよ」

自分がやってないくせに当たってました。


最悪な社長です。

典型的な失敗でした。


この時に僕は恩人に出会います。


ある日某信用金庫の支店長に呼び出されました。

その日のこと今でもはっきり覚えています。

朝、妻に「今日で会社終わるかもしれへん」と伝えようか迷ってました。

貸し剝がしがあると思っていたからです。

(貸し剝がし=銀行が返済期限を早めて、一括返済を迫ってくること、潰れる可能性が高い場合などはそうして少しでも現金を回収しようとする)


もちろん手元に現金はありませんから返せません、そうなると銀行口座を抑えられて、売掛金を持って行かれます、

そうするともちろん買掛も払えません、


そう、倒産です。


今日貸し剝がしにあったら妻に言おう、そしてもう一回1から出直そう。

そう決めて信用金庫に行きました。


向かい合って座った支店長が僕に一言、

「社長、本気で縫製業を変えたいですか?」

「え?」

「やりますか?」

「はい!もちろんです」

「わかりました、なんぼ必要ですか?」

「1000万です」

「わかりました、その代わり本気でやりましょう」


そういって支店長決済(プロパー)と日本政策金融公庫に協調融資の相談を持ちかけていただき、

合計で1000万円融資してくれました。

担当者もとてもよく動いてくれました、何度も何度も会社に来て事業計画を見直しました、

見たくない決算書をきちんと見て、課題を共有しました。

僕はこの時に決めました、

「もしうちが上場する時があれば、絶対この支店長と担当者と一緒に鐘を鳴らそう」

一生頭が上がらない、とても大きな恩をかけてくれました。


9章 ビジョンとの出会い

そんな奇跡から間も無く、僕は今のメンターに出会います。

僕のメンターは某監査法人の会計士さんで、奈良県のビジネスコンテストで出会った方なのですが、

当時僕は藁をもすがる思いで「奈良県起業家支援プロジェクト」に応募していました。

その名も

「奈良スタープロジェクト」

奈良県でスター起業をを育て、次世代の起業家を牽引する存在にしよう!

というものでした、

僕はそのプロジェクトの審査を無事通過し、一期生として参加することになりました。

そこで僕の担当についたメンター2人と半年に渡って自分の原体験を深く掘っていきました、

そしてビジョンを見つけました。

「日本の縫製業を次世代につなぐ」

本当に毎日毎日電話でやり取りし、メールもやり取りし、

原体験やこれからの夢を語り合いました、

実は弊社のビジョンは二段階に分かれています。

それは「努力が報われる社会を作る」という僕の原体験に基づいたビジョンがあります、これは僕の人生を通じて絶対に達成したい目標です。

しかし縫製工場としてはあまりにも漠然としたビジョンです、

そのためそれを今の業界に置き換え、どの状態が「努力が報われているのか」というところまでブレイクダウンしました。

その結果大切な言葉たちに出会いました。


VISION 日本の縫製業を次世代につなぐ

MISSION 私たちの服づくりに関わる全ての人を笑顔にする

CORE VALUE 笑顔 挑戦 価値 前進 共存


この言葉たちです。

この言葉たちを軸に、経営していこう。

そう決めました。

この言葉たちは今でもスタッフ全員がクレドカードという形で常に身につけていますし、朝礼でも毎日この言葉たちに関係する内容を話すようにしています。

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そしてそのNSP(Nara Star Project)で尊敬する素晴らしい先輩起業家たち、

そして同期の切磋琢磨できる起業家たちと出会いました。


起業家として情報や悩みを共有できる仲間に初めて出会うことができ、

とても心強かったのを覚えていますし、今でも良きライバルであり、良き仲間たちです。


10章 ビジョン経営〜別れ〜


大切な言葉たち、そしてもう一度起業家として会社を立て直すと決めた僕は心が折れそうなことを実行しました。


大きな動きとしては3つです、

まだ社内で製造を行なっていましたが、その当時ミシンに乗っていた職人たち全員に「ミシンから降りてもらう」という決断、

黒字になるまで減給するという決断、

そしてその2つに従えない人は辞めてもらう。という決断です。


社内の製造部を解体し、

売上が上昇していたMy Home Atelier事業に集中することにしました、

そのため自社製造は0にしました、

そしてこのタイミングで自社ブランドもストップしました、

全てのリソースを「生産管理」に集中させる必要があると感じたので職人たちに言いました。

「本当に申し訳ない、全部僕のせいです、だけど日本の縫製業を次世代につなぐという目標を立てました、そのために職人さんを支えるために、自分が職人であることをやめてほしいです」

そして一人一人面談し給与を見直しました、

全員に家族がいる、生活もある、

その中で給与の見直しは生命線です、だから1人1人徹底的に話し合いました。

全員話したくなかったと思います、

当時の空気感は本当に殺伐としていました。

そして半分の社員さんがやめていきました。


悔しくて悔しくて、

申し訳なくて、

今でもその方々とやり取りもするし、一緒にバーベキューしたりする関係ではありますが、

当時のことは完全に自分の実力不足ですのでマネジャーとして汚点だと思っています。



11章 My Home Atelierの躍進

ビジョン経営に切り替えて、ワンマン経営をやめました。


全員に

「僕1人でアイデアを考えていては1つだけだ、だけどみんなで考えたら10も20もアイデアは出る、だからみんなでアイデアを出し合って実行していこう!」

そう伝えました。

そしてどんどんとアイデアを採用するようにしました。

今まで「そんなアイデアはダメだ」と否定していた僕でしたが、

「現場の声を聞こう」ということでアイデアを採用しまくりました。

もちろんその時に「プライド」なんてものはありません。


すると今まで黙々と仕事をしていたスタッフたちからどんどんと新しいアイデアが出てきました、

全てを把握しなくては気が済まなかった僕が「え?もうそんなに進んでるの?」というくらい仕事が進むようになりました。

「もう谷さんは経営に集中してください」って言われるくらいになってきました。

紙ベースで管理していた顧客や生産管理情報もあれよあれよという間にシステムを導入し、

スタッフが自分でセミナーに通いカスタムし、

とても使いやすいようになっていました。

お客様ともどんどんと深い関係を作っていました。


今までは電話が鳴ったら99%が僕宛てだったものが僕宛の電話はなくなりました。


パリコレブランドさんからの問い合わせや、

D2Cブランドさんから問い合わせが年間数百件来るようになっていました、

My Home Atelierさん登録希望者も年間数百件くるようになりました。

そして知らない間に仕事が始まって、売上が立つようになっていたのです。


この頃に出会った言葉です。

「早く行くなら1人で、遠くへ行くならチームで」

僕は「日本の縫製業を次世代につなぐ」というとてもとても大きな、果てしないゴールを定めました、

だからこそ1人ではできない、チームが必要でした。

僕は優秀なプレーヤーでした、しかし最悪な経営者でした、

現在では最悪なプレーヤーであり(現場に入ると混乱させてしまうので入らないでくださいと言われます)

最高のチームの代表です、

みんなが僕のことを信用してくれて、僕もみんなを信用しました。

絶対に何があっても仲間を信じようと決め、結果が出ない時も信じ続けました。


弊社の幹部がその代表格です、

あのクレイジーなタイミングで入社した2人のうちの1人です、

彼は「技術を学びたい」と弊社に入社してずっと職人でした、愛媛出身で寡黙で技術を追求するようなタイプでした。


そんな彼にミシンを降りてくれと伝え、

それから彼は読書し、お客様と話し、凹み、数字に弱くまた凹み、

結果が出ず、

それでももがき、苦しみ、

セミナーに通いました。


そして僕と一番多くぶつかっています、

何度も何度も喧嘩しました、

会社に行きたくなくなるくらい喧嘩しました。

でも彼のほうが僕に振り回されているはずです、

それでも辛抱強く努力を重ねました。


ミシンを降りて1年半後の今、1人で3000万円近い「粗利」を叩き出します。

彼が目をかけて育てているブランドさんはあれよあれよと売れていき、

最初は1型10着のオーダーが、現在1シーズンで20型、合計500着、売上200万円に成長しています。


人は「信じること」で成長します。

そして「結果が出る」ことでまた成長します。


そして2019年、僕たちはMy Home Atelierという仕組みが「日本で働けなくなった職人たちを再び働けるようにし、小ロット生産を可能にした」という点をご評価いただき経済産業省から「羽ばたく中小事業者300」に選出されました。


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そして2019年5月期、地獄のような日々を乗り越えてようやく100万円の黒字になりました。

売上が7500万円くらいの会社で100万円の黒字です、

とてもとても小さな黒字です、

正直あってないような黒字です。

しかし粗利率は20%以上回復し、売上も1.4倍、

2400万の赤字から1年で黒字に持ち直しました。

苦労し、苦労し、

もがいて、

別れもあって、

寝れない日が続いて、

喧嘩して、

チャレンジして、

修正して、

またチャレンジして、

それでやっと作り上げた100万円の黒字でした。

まだまだ誇れる成績ではありません。

それでも僕たちにとっては大きな数字です。

そしてこれは奇跡ではありません、

徹底的にぶつかって考え抜いた結果です。


そして現在今期の終わりには1億円の売上を予想しています。

まだまだ安心はできません、

それでも大切な言葉があり、

切磋琢磨できる仲間がいて、

そして日本中の縫製職人さんたちがいます、


これはちょっとクレイジーな経営者と、

クレイジーな奥さんと、

クレイジーなスタッフたちによる少しクレイジーで最高にエキサイティングな4年間の物語です。

これから起業する、もしくはしている、

そして今目の前が真っ暗な人も、

もがき、苦しんで、

そしてぶつかれる仲間たちを見つけてください。

絶対にうまく行きます。



運命的な出会いもありました、

運よくコンテストで優勝したこともありました、

でもそのどれもをゲットできたのは圧倒的な熱量です。

そしてビジョンです、

その2つを大切に、これからも起業頑張りましょう!


できるだけ具体的に頑張ってる人がイメージできるように恥ずかしい部分も赤裸々に書いてます、ぜひ参考にしてください!



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