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寛容であることの重要さ―ヴォルテール『寛容論』―

毎月のように参加している読書会に今月は参加できても聞き専になる見込みである。そこで今月紹介する本を以下に記しておこう。

18世紀を代表する哲学者ヴォルテールによる著作である。フランス南部の街、トゥールーズで起きた事件を題材に、寛容とは何か、なぜ寛容さが大切なのかを問うものである。

この本のベースとなっているのは、トゥールーズで起きた宗派(カトリック、プロテスタント)間の対立、そしてそこに巻き込まれたジャン・カラスの冤罪事件である。カラスは冤罪の罪で死刑判決が下り、執行までなされた。ヴォルテールは、カラスの冤罪を晴らすための活動を行い、事件の数年後に判決が無効であることを勝ち取っている。

この本において、ヴォルテールは寛容や不寛容がどういうもので、どのようにして生じるのかを検討している。また、先の事件がキリスト教の宗派間対立から生じていることもあり、イエス・キリストの教えについても寛容さの視点から検討がなされている。

結論から言ってしまえば、ヴォルテールは人々に寛容さを求める。それも特定の信仰に基づくものではなく、全人類的なレベルでの寛容さを求めるのだ。

 キリスト教徒はたがいに寛容であるべきだ、というていどの証明なら、たいした技術も、たくみな弁舌も必要ではない。しかし、私はもっと大きなことを言いたいのである。すなわち、すべての人間を自分の兄弟と見なすべきだと言いたい。えっ、何だって、トルコ人も自分の兄弟なのか。中国人も、ユダヤ人も、シャム人も、われわれの兄弟なのか。そうだ、断固そのとおり。われわれはみんな同じ父の子、同じ神の被造物ではないか。 

ヴォルテール著、斉藤悦則訳『寛容論』(光文社古典新訳文庫)pp.138

ヴォルテールが求めるものは理想であり、現実は違う、と言いたくもなる。しかし、自分たちの中にある不寛容さを認めていないから、理想と現実は違う、と言いたくなるのではないか、とも言える。

実際、あらゆる人々や事物に対し、寛容であり続けるためならば、テロや戦争、迫害、身近なところで言えば、行列への割込みのようなものもすべて、いったん受容したうえで、それらが生じない道を探らないといけない。

これは非常に厳しい。実際ヴォルテールも不寛容であることが正しい場合があるという。奇しくも、それがユダヤ人によるパレスチナ地域への入植(ユダヤ人からすれば神から与えられた土地に戻ろうとする行為)を受け入れない姿勢であるのは、何とも皮肉な話である。

これほど大きな単位の話でなくても、行列への割込みや差別的な発言などに対して、受け入れがたい感情を抱くことはままあるだろう。単に、それらを受け入れないのであれば、話は早いが、現状と何ら変わりはない。

そうではなく、いかにして、受け入れがたい行為を行った人たちと互いの状況・認識を共有し、最善の解決策を見いだせるようにするか。そんなコミュニケーションをどのようにとればよいのか。ヴォルテールが求める寛容さはその方向にあるのだろう。

この本自体難しくて、まだ理解できていない点も多い。また、現代的に捉え直すべき点も多い。それでも、読んで損はないし、自分なりの発見が必ずある。そう思える本である。

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