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日本を原(たず)ねて 心の健康 ストレス解消 【利休】

 15  利休(1522~1591)
俳句のαあるふぁ 毎日新聞社
【特集】芭蕉のうちなる西行
 芭蕉(1644~1694)のなかには…はっきりと自己を西行(1118~1190)につづく系譜の中へ意識したのは、この「奥の細道」行脚においてであったと思われます。この行脚を終えて、上方滞在中に書かれた「笈の小文」の巻頭には、
 西行(1118~1190)の和歌における、宗祇(1421~1502)の連歌における、雪舟(1420~1506)の絵における、利休が茶における、その貫道するものは一なり。(根本精神はひとつなのです)      51ページ 
                  
まぶさび記 空海と生きる 篠原資明 弘文堂
 詩について、空海(774~835)は次のように言う。
「詩は志に本づくなり、心に在るを志と為し、言に発するを詩と為す。情中動きて、言に形(あら)はれ、然る後に之を紙に書くなり」『文鏡秘府論』、…いずれにおいても、心のうごめきが、詩や書へと成りいずるダイナミックなプロセスが語られている。      30ページ 
                     
 ある人物の生死間をひとすじのメロディーにたとえてみよう。そのメロディーにひとつの音、ひとつの楽器を加えるだけで、メロディー全体の印象が変わることがあるはずだ。別様の感じ方が別様の生死間への生成と連動するあり方…心遣ると呼んでおこう。…心遣るという言葉は、慈円(1155~1225)から借りたものだ。…慈円自身の歌も、一首だけ、次に引く。
  うき世いとふ心の色を人はみよ 
    ちる言の葉をよそにおもはで
 この歌は、言語表現に心の色そのものを見てほしいということだから、まさに心遣ることにより生起する事態を示していると言えるだろう。なお、慈円とほぼ同時代の明恵上人(1173~1232)は、自らの歌集に『遣心和歌集』と名ずけていた。…慈円と明恵との間に、歌の本質について共通了解のようなものがあったとすれば興味深い事実ではある。 31・32ページ                            

 …「心遣る」というあり方だ。たとえば、言葉になりきるというあり方のこと。
 詩人が、自らの言語表現と一体化することにより、それまでの自分とは異質の存在へと生成するとする。この場合の言語表現が、詩人そのものをさすとすれば、これを真言といってはいけないだろうか。もちろん真言宗というときの真言とは、意味合いを異にするのは承知の上でだ。たとえば、明恵の次の歌を見てほしい。
  あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月
 ここで明恵は、月の光がくまなくいきわたっていることに、感動しているだけでではない。文字どおり、その月の光になりきってもいるだろう。     38ページ 
  
(明恵と月の光が合一している。)

利休の侘び茶の世界は、まさに数寄と寂との両面にわたるものとして理解されうるからだ。一方では、「茶の湯とは只湯をわかし茶を立てのむばかりなる本を知べし」『南方録』とあるとおり、利休は、ただひとえに茶への偏愛を示す。また他方では、「侘の本意は、清浄無垢の仏世界を表し」ともいう。このような数寄と寂びとの両面は、利休にとっては別ごとではない。侘び茶の舞台として露地草庵について、利休は次のようにいうからである。「火ををこし、湯をわかし、茶を喫するまでのこと也、他事あるべからず、これ即ち仏心の露出する所也」と。このように、茶に心遣ることが、仏に拠りつつ心鎮めることへと直結する装置として、侘び茶の世界は理解されうると思われるのだ。 82ページ

日本の美術№5 669 墨跡 堀江知彦編 至文堂
茶道との関係 1 我が国に多くの墨跡が遺存した理由
 千利休によって大成された、いわゆるわび茶の創始者と目されているのが、村田珠光(1423~1502)である。…かれは能阿弥(1397~1471)に師事して、立花(りっか)と唐物の目利きとを学んだ。…珠光は、また大徳寺の一休に参禅し、印可の証として一休から圜悟禅師(1063~1135)の墨跡を授けられ、…珠光の体得したところは茶禅一味の境地であって、禅は茶の中にも在り、「わび」「さび」は物に在るのではなくて、茶人の心の中に在るものであることを説いた。後には、能阿弥も義政(足利)(1436~1490)も、ともに珠光に師事して茶を学ぶに至った。          98ページ

 利休も禅の修業に努め、初め大徳寺の第108世笑嶺宗訢(しょぅれいしゅうきん)(1504~1568)に師事して名を宗易(そうえき)と称し、のち、同じく大徳寺の第118世古溪宗陳(こけいしゅうちん)(1532~1597)に参禅して、利休居士の号を受けた。
利休は茶道においては、心を第一に形は第二とせよと説き、茶席の床は墨跡を第一に重んずべきを教えた。要するに珠光の精神を発展徹底させたのが利休で、わび茶の大成者と目されるゆえんである。   99ページ                 

まっさきに読む「禅」の本 秋月龍珉 勉誠社
「喫茶去」という「平常心」のなかに、釈尊の悟りも、龍樹(りょうじゅ150~250ごろの人)や無著(むじゃく生没年不詳310~390ごろの人)の哲学も華厳も唯識もみんなこもっている。

 わが利休は「茶道」として、その心を見事な形に表現した。…日常ふだんの行いがそのまま道になるには、有心から無心へ有事から無事へと一転し、すなわち行為の主体が凡夫から仏へ変わらないといけない。
仏が食べる、仏が眠るということになってはじめて「平常心是れ道」といえる。
利休の茶道は、衆生でなく仏がお茶を点て、お茶を飲む悟りの心の働きであった                        139ページ

禅仏教の基本思想は何か?
 「無」の一字が分かれば、禅の基本思想が読めるといってよい。…禅には、有名な「趙州無字」という公案がある。 160ページ               

 …中国の臨済宗の中興の祖師といわれる五祖法演(1024?~1104)が「公案禅」を大成した時に、大いにこの「無字」の公案を使った。それが禅門でこの公案が有名になった初めである。
 この法演の弟子が「碧巌録」の編者の圜悟克勤(えんごこくごん1063~1135)である。その圜悟の弟子の大慧宗杲(だいえそうこう)(1089~1163)がまた精力的にこの「無字」の公案を用いた。
 そして、それ以来、公案中の公案となった。それがわが白隠禅師(1685~1768)によって、日本に取り入れられたのである。(白隠を見る)        161ページ

喫茶心得 男のための茶の湯入門 堀内宗完 講談社
茶書を読む 各時代を茶人がどう生きて、どんな茶をやってきたか。今日の眼で読んでみる。
熊倉功夫+聞き手石田敦士
立花実山『南方録』元禄の利休観を示す
 利休は、…この世の目に見える美しさということをいくら追い求めても、それは完全に満足できるはずがない。…とすれば、そういう表面の美しさ、ものの量にこだわることではなくて、そういうものを初めから超えてしまうことが無に至る道ではないか。 …なお熊倉は松尾芭蕉(1644~1694)が『笈の小文』の冒頭のところで、和歌における西行(1118~1190)、連歌における宗祇(1421~1502)、絵における雪舟(1420~1506)、茶における利休、貫通する物は一なり。といってますが、これは精神的充足というものが、現実におけるさまざまのふかんぜんさを超えるところに展開してくるという、そういう利休の姿を芭蕉は、芭蕉なりに発展させ、受けとめたんじゃないかという気がする。
…元禄の茶人たちにとって利休というのは、こういうふうに理解されていたわけで、それは今日みても、ものすごく優れた理解だと思うんです。      153・154ページ

茶のこころそして宇宙 朝比奈恵子 河出書房新社 
 珠光は、大徳寺の一休和尚(1394~1482)に参禅し、…茶の湯の中にも仏方はあるはずだと考え「茶禅一味」を唱えました。村田珠光(1423~1582)によって初めてお茶と禅が結びつき、そして茶道となっていった。…装飾性よりも簡素化を一層深めた人に武野紹鷗(1502~1555)という人がいます。かれは裕福な商家に生まれ、様々な学問を身に着けた人でしたが、とりわけ歌道に秀でていました。
 「見わたせば、花も紅葉もなかりけり
    浦のとまやの秋の夕暮」 新古今集 藤原定家
 この歌のように色とりどりの花も、紅葉もないけれども、秋の夕暮れの残照を浴びて、ひっそりと浮かんでいるわらぶき屋根の漁小屋、そういうものの方が何とも言えない風情があると唱え、自然美との調和を茶道に求めていったのでした。そして紹鷗を師にもった利休が現代に至る茶道を完成した。                71ページ

いけばなの道 工藤昌伸 注解―いけばな小辞典 主婦の友社
 千利休 大阪堺の商家に生まれ、茶をまなび、村田珠光、武野紹鷗の跡を受け継いで茶の湯を大成させた。茶の湯の宗匠として信長(1534~1582)に仕え、信長没後、秀吉(1537~1598)の茶頭として召しかかえられたが、のちに秀吉の怒りを買い、切腹を命ぜられた。 利休の茶の世界は禅との一体感であり、「わび茶」の世界といわれた。      210ページ

 いけばなの起源 中山真知子著 人文書院
 山上宗二は、「山上宗二記」の中で、師である千利休(宗易)が、慈円の道歌を常に口ずさんでいたと記している。これは慈円の歌がのちのちまで、芸道者に愛されていたことを表している。

 【拾玉集】は、「慈円の和歌の集大成としてだけでなく、和歌を含めた日本文化のひとつの方向を示す重要な書となった。     81ページ            

 以上により利休の茶道は一体感をあらわし、日本古来の生活感情をあらわしている。



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