【歌詞考察】山崎ハコ「呪い」-その呪いは誰に届くのか?

はじめに

草木も眠る丑三つ時、明かりもない神社の森で「コンコン、コンコン」と音がしたら、すぐに引き返しましょう。それは誰かが恨みを込めて、藁人形に釘を刺している音かもしれません――
とまあ、前置きはこれくらいにいたしまして、藁人形に釘を刺して相手を呪うというのは日本の怪談話でしばしば見られる行為ですが、こうした儀式は合理的かつ科学的な現代日本においても、人を惹きつけ怖れさせる何かを孕んでいます。
今回考察するのは、そんな呪いに関するあの楽曲。山崎ハコの「呪い」です。日本を代表する恐怖ソングとして名高いこの曲ですが、ただの怪談ソングではありません。今回は歌詞に込められた人間の生々しい心理を読み解いていきたいと思います!

「呪い」とは

「呪い」概要

「呪い」は1979年に発表された山崎ハコの楽曲で、同年にキャニオンからリリースされたアルバム『人間まがい』に収録されています。この『人間まがい』は、日本の土俗的な恐怖感を題材にした曲が多く収録されている独特な作品となっています。その中でも「呪い」は、丑の刻参りを題材にした内容や、山崎のひんやりとした歌い方、そのタイトルから度々メディアで扱われており、あるテレビ番組(名前は忘れてしまったのですが)では「呪い」に関する特集が組まれました。またこの曲のエピソードとして、『ちびまる子ちゃん』の作者さくらももこが山崎の大ファンで、2002年7月7日の『ちびまる子ちゃん』では山崎ハコが本人役で登場、EDではまさかの「呪い」が流されました。こ、こわ!

山崎ハコという人

山崎ハコは1957年生まれのシンガーソングライター。高校時代からフォークソングを歌い始め、1975年にファーストアルバム『飛・び・ま・す』でメジャーデビュー。フォークギターの弾き語りによる土俗的・社会的な楽曲で1970年代後半にかけて知名度を上げ、「中島みゆきのライバル」「深夜放送のマドンナ」の異名を持つ人気アーティストになる。1980年代はフォークソング自体の人気の低迷や、山崎の暗い雰囲気の楽曲が若者の支持を得られなくなったことが原因で、活動も次第に縮小。一時期は極貧生活を強いられる。2002年に先述した『ちびまる子ちゃん』の放送があり、そのインパクトから山崎の楽曲が再び注目を集めた。現在も活動中。

「呪い」考察

わらう畳

それでは考察に入っていきましょう!

コンコン コンコン 釘をさす
コンコン コンコン 釘をさす
たたみが下から笑ってる

山崎ハコ「呪い」

コンコン、コンコン。曲は釘を打ち付ける音とともに始まります。語り手は自分の家の柱に釘を打ち付けているようです。もちろん、工事なんかではありません。藁人形に釘を刺しているのです。ひたすら金槌を振るう語り手。「たたみが下から笑ってる」とあるので和室なのでしょう。しかしなぜ畳が笑っているのかは、まだわかりません。

コンコン コンコン 釘をさす
わらの人形 釘をさす
自分の胸が痛くなる

山崎ハコ「呪い」

語り手は釘を打ち続けます。藁人形の言い伝えとして、恨んでいる人を思い浮かべながら藁人形に釘を打つと、釘を打った部位に関する悪いことが恨んでいる人に降りかかります。きっと語り手は藁人形の胸に釘を刺したのでしょう。恨めしい相手の心臓が止まるように。しかしなぜか痛み出すのは語り手の胸。きっと身体的な痛みではなく、心痛のほうの痛みでしょう。
どうして語り手の胸が痛くなるのか。まだはっきりとしません。

釘に変わる涙

コンコン コンコン 釘をさす
唄いながら釘をさす
釘よ 覚えろ 覚えろ この唄を

山崎ハコ「呪い」

釘を打ちながら唄をうたう語り手。何の唄でしょう。この「呪い」という歌をうたっているのかもしれません。そして、打ち付ける釘の一本一本に、この唄を覚えさせようとします。まるで怨念を込めていくかのように。

コンコン コンコン 釘をさす
なくなるまでは釘をさす
涙ポトリとまた釘になる

山崎ハコ「呪い」

釘を打ち続ける語り手。数多ある釘が尽きるまで打ち続けるようです。しかし気になるのは、語り手が釘を打ちながら涙を流しているという点です。しかも、恨みの涙があふれ出るのではなく、ポトリ、ポトリと水滴のようにこぼれてくるのです。これは一体何の涙なのでしょう。こぼれた涙は釘に変わります。涙が枯れるまで、語り手は釘を打ち続けなければならないのです。
このあたりから、語り手は怨念にかられて無心に釘を打っているわけではなく、恨みとは別の感情も抱きながら釘を打っていることがうっすらわかってきました。

藁人形の血は誰の血?

コンコン コンコン 釘をさす
わらの人形 血を流す
泣いているように いったい誰の血

山崎ハコ「呪い」

釘を刺していくと、藁人形が血を流し始めました。普通に考えれば、この血は語り手が恨んでいる相手の血です。しかし歌詞を読んでいくとこれは相手の血だとすぐに断言はできなさそうです。「泣いているように」とありますが、この前の歌詞で「涙ポトリと」とあるように、藁人形の涙はすなわち語り手の涙である可能性があります。
藁人形に釘を刺すと自分の胸が痛む。藁人形が泣くと自分も泣く。もしこの藁人形が語り手自身と連動するものだとしたら、この血もまた、語り手の血なのかもしれません。そして語り手が呪っているのは、他人ではなく自分自身。自分を呪い苦しめるために語り手は釘を打っていると考えられるでしょう。

コンコン コンコン 釘をさす
私いつまで釘をさす
誰がこうした うらんで釘をさす
私をこうした うらんで釘をさす

山崎ハコ「呪い」

釘を打ち続ける語り手ですが、釘は一向に尽きません。語り手の涙が釘に変わっているので、語り手が泣き止まない限り永遠に釘を打ち続けなければなりません。語り手は言います。「誰が私をこうした」。うらみながらまた一本、また一本と釘を打ちます。
先ほど同様、藁人形=語り手として考えると、この部分の歌詞はこう読み取れるのではないでしょうか。「誰がこうした。私をこうした。いや、私をこうしたのは私自身だ。私が憎い。私をうらんで釘をさす」と。
冒頭の歌詞を思い出してください。「たたみが下から笑ってる」。ここまでの歌詞を踏まえて振り返ってみると、この笑う畳は、語り手が自分自身を笑っているとも解釈ができるのではないでしょうか。
誰かをうらみ、呪おうと藁人形に釘を刺す語り手。しかし打っていく中で、次第にうらみの矛先は自分に変わっていきます。「結局、自分が悪かったんじゃないか。それなのに、私は私のことを私のせいにできずに誰かを呪おうとしている。そんな私がうらめしい。こんな私がうらめしい」。

この曲のメッセージ

さて、ここまで「呪い」を考察してきましたが、どうやらこの曲は演歌でよくあるような、誰かをうらむ曲ではなく、自分自身をうらむ、つまり悔やんでいるような内容であるようです。
この曲をうたっている山崎ハコは、「呪い」についてこのように語っています。

呪いましょうって歌じゃないんですよ。そういう自分に釘をさせっていう歌なんです。釘を打つとは一言もいっていない。そういう裏の意味があるんです。そういう悲しい自分に釘をさせよっていう、愚かだろうがよ! みたいな。

山崎ハコ(サンスポ 2018年6月19日)

「釘をさす」という言葉があります。あらかじめ念を押す、戒める、諫めるという意味です。何か苦しいことがあると、他人のせいにしてしまう自分。自分のことなのに自分の責任を他人に押し付けるような自分は愚かだろうがよ。そんな悲しい自分に釘をさせ。そんなメッセージが込められているというのです。

おわりに

「呪い」、どうだったでしょうか。その曲調とショッキングな見た目から、単なる怪談ソングとして扱われることの多いこの曲ですが、その中身は自分自身を諫める教訓的なものだったのです。プロテストソングの歌い手として活躍してきた山崎ハコの本領が発揮された見事な歌だと思います。
それでは、また次回お会いしましょう。
ありがとうございました!

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