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小説 おくりもの

フェリーが白い波を立てて進んでいく。藤本勉は、デッキの手すりにあごを乗せて近づきつつある島影をぼんやりと見ている。勉は、気持ちが沈んでいるせいか、空も海もどんよりとしか見えない。隣にはお母さんの藤本美奈とお父さんの藤本武が立っている。藤本勉は小学六年生。

「勉、もうすぐ小豆島や。ほら、あそこに重ね岩が見えてきたぞ」

 勉は、お父さんの指差す方を目で追った。山の上に大きな岩がある。いまにも落ちそうに大きな岩が重なっている。あぶなっかしいなあ。勉にはまるで、今の自分たち家族の姿と重なって見えた。

「石が今にも落っこちそうだよね」

「そう見えるだろう。でも、落ちないんだ。あそこは徳川家が大阪城を修復したときに加藤家が石を採った場所なんだ」

「これが春休みの旅行だったらいいのになあ」

 勉は、大きなため息をついた。お母さんは、勉の肩にそっと手を置いた。

「お母さんもそう思うけど」

「親の都合で振り回される子どもの気持ちなんて、お母さんたちにはわからないよ」

「小豆島には、東京にはない、いいもんがいっぱいあるぞ」

 お父さんは、快活に笑った。

「東京にはないいいモノって何んだよ」

「それは自分で探せ」

お父さんは、転校生はただでさえ、目立つ存在になるってことがわかってないんだ。友達ができるだろうか。勉は、不安になる。

「ほら、そんな顔してないの。スマイル、スマイル」

 お母さんは、最後の「スマイル、スマイル」は、自分自身にも言い聞かせていたのかもしれない。お母さんも本当は小豆島に行きたくないんだ。お父さんは、会社を辞めたんじゃない。リストラされたんだ。夜中に二人が言い争いをしているのを、ぼくはこの耳で聞いちゃったんだ。辛い思いはお母さんもぼくと同じなんだ。勉たちの、それぞれの思いをのせて、フェリーは小豆島に近づいていく。土庄港にフェリーが着いた。船着場には、小柄なおばあさんがひとり、満面の笑顔で立っている。勉のおばあちゃん、藤本嘉子だ。両手に荷物を持ったお父さんがおばあちゃんに走り寄る。その後ろを遅れがちに勉とお母さんが歩いていく。

「母ちゃん、元気やったか?」

「ほら、この通り、ぴんぴんしとる」

 おばあちゃんは、両手を広げて見せた。

「美奈さんも、勉くんも、よう来なさったなあ」

「ご無沙汰しています。これからよろしくお願いします」

「なんも気にすることはないよ。これからは自分の家だもの」

 おばあちゃんは、勉を見ると、さらに目が細くなった。

「勉ちゃん、よう来たね。こんなに大きくなって。おばあちゃんよりも大きいね。あんれぇ。勉ちゃん、元気ないねえ。どうしたん?」

「ひさしぶりやから照れとんのやろう。さあ、行くで」

 お父さんは、両手の荷物を持ち上げると、先頭を歩いていく。

「美奈さん、みんなで来てくれたんは、うれしいけど、ほんまにええんかい?」

「はい。言い出したら聞かない人ですから」

「そうだねえ。武は父ちゃんに似て頑固なところがあるからねえ。美奈さんとの結婚のときだって、父ちゃんが反対したけど、一度こうと決めたら、誰の言葉も耳に入らんかった」

「すいません」

「ええんよ。うちはいいお嫁さんがきてくれはったと思っとるもん」

 お父さんが振り返り、気まずそうに言った。

「母ちゃん、聞こえているよ。よけいなことは言わんでいいよ」

 お母さんとおばあちゃんは、顔を見合わせて笑った。

「そうそう、勉ちゃん。半年前に東京から転校してきたかわいい女の子がおるよ。仲良くしてあげて。同じ東京からだから、話が合うんじゃないの?」

「女には興味ない」

 勉は、ぶっきらぼうに答えた。

「勉、心配するな。友だちやったらすぐできるよ」

「人のことだと思って、簡単に言うよな」

「お母さんも、勉なら、どこでだってちゃんとやっていけると信じているから」

「いまどきは、どこの学校でもいじめがあるんだ。特に転校生なんてかっこうの標的だよ」

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。勉ちゃんにはこのおばあちゃんがついているから。誰にも悪さなんかさせないから。それにこの島には、根性の悪い子はおらんよ。心配ない」

 勉は重たい心で、大人たちの後ろから少し離れてとぼとぼと歩いていく。

 おばあちゃんの家はこぢんまりとした一軒家だが、庭が広く、家の周りにはオリーブの木が植わっている。一匹の黒犬が庭に寝そべっている。首輪はしているものの、鎖にはつながれていない。勉が庭に入ってくると、黒犬はむくっと起き上がった。勉は、一瞬、ドキッとする。でも、黒犬は、しっぽを振りながら勉に近づいてきた。ぼくのこと、覚えていてくれたんだ。勉も黒犬の頭を優しくなでる。

「クロ、元気だったか?」

「あんりゃ、クロは勉ちゃんのこと、ちゃんと覚えとるんやね。こんな小さいときに来たきりやのに」

「そうですね。もう三年ぶりになるんですね。本当にご無沙汰しちゃってすいません」

「えーの。えーの。そんなん気にしなさんな。みんなできてくれて夢のようやわ。もう、いつ死んでもえいわ」

「母ちゃん、縁起でもないこと言うなよ。これからはずっと一緒やから」

「そうですよ。これから親孝行させてもらいます」

「ほら、中に入って」

 おばあちゃんに言われて、お父さんとお母さんは、家の中に入っていった。勉はひとり庭に残り、クロと戯れている。

「ぼく、これからどうなるんだろう。クロはいいよな。悩みなんかないんだろう」

 クロは勉の顔をペロペロ舐めた。

「勉、いらっしゃい」とお母さんが呼んだ。勉も、家の中に入っていく。広い畳の部屋の中には、どんと大きな仏壇がおいてある。

「ほら、勉もお爺ちゃんにごあいさつしましょう」

 勉たちは、仏壇の前に正座して、手を合わせた。

「お父さん、武たちが帰って来ましたよ」

 おばあちゃんが鈴をたたく。勉たちも、神妙に手を合わせ、頭を下げた。部屋の真ん中にはコタツが置いてある。東京の勉たちの家にはコタツはない。

「さあさ、コタツに入って。疲れたやろう。今、お茶いれるから」

「それなら、私が」

 おばあちゃんは、立ち上がろうとしたお母さんを手で制した。

「ええから、ええから。今日は疲れとるやろ。今晩の夕食も私に任せなさいよ。美奈さん、武、二階の三部屋全部使ってええからね。母ちゃんは、一階だけで十分やから。美奈さん、好きなように部屋を変えてええからね」

「はい、ありがとうございます」

「勉も好きにしてええんよ」

「うん」

 勉はそれだけ言うのが、精一杯だった。


 翌朝、勉とお父さんは、二人乗りのシーカヤックに乗っている。朝日を受けて、水面がきらきらと光っている。静かな春の海を眺めていると、勉は、少しだけ不安が薄れていくような気がした。

「どうや、気持ちえいやろう」

 お父さんは、ゆっくりとシーカヤックのオールを漕いでいる。

「うん、思ったより気持ちいい。お父さん、ここに来たら、なまりまくっている」

「ハハハ、そうか。なんだろうなあ。おばあちゃんと話していると、自然とこっちの言葉がでてくるんや。不思議やね。まあ、大人になるまで育ったところだからな」

「俺たちしかいない」

「ハハハ、海を独り占めや。えい気分やろう」

「……なんか寂しくない?」

「夏になったら、カヤックで小豆島を一周しよう」

「……まあ、夏ならいいかもね」

「この島には、映画館もないけど、東京にないものがいっぱいあるんや」

「コタツと仏壇があるね。でも、……サッカークラブはないよね」

「なかったら、勉、おまえがつくればええ」

「簡単に言うなよ。……リストラされたくせに」

 勉は、はっとした。言っちゃいけないことを、口に出してしまった。

「そやから、自分で仕事をつくることにしたんや」

「それにしたって、何も小豆島まで来なくてもいいのに」

「勉には悪いと思っている。お父さん、ここなら、やれると思ったんだ。それに、おばあちゃんも歳だし、ひとりでほっとけん。そのうち、勉もここが好きになるわ」

「……ありえない気がする」

「まあ、今はそう思えんでも、ええさ」

「……ここ、海と山しかないじゃん」

「だから、ええんよ。まあ、ええ。さあ、弁天島に上陸するで。まっすぐ進むで」

 お父さんは、小さな小島に向かってオールを力いっぱい漕いでいる。シーカヤックは、どんどん小島に近づいていく。勉は、小豆島が日本の中心とは、ちっとも思わないけど、シーカヤックは気持ちがいい。また、お父さんに付き合ってあげてもいいなあと思った。

弁天島につくと、お父さんは、シーカヤックを海から引き揚げた。シーカヤックの中に積んできた、ポットを出し、火を起こして、おいしいお茶をいれてくれた。


 勉たちが小豆島に来て、一週間が経った。小豆島での朝は、早い。おばあちゃんが一番に起きて、朝食をつくる。軽快な包丁さばきでまな板を叩く音とみそ汁のいい匂いに誘われるように勉が起きてくる。お父さんは、すでに起きていて、庭でシーカヤックの手入れをしている。

毎朝、朝ごはん前に、勉はおとうさんと海に出て、シーカヤックに乗る。勉は、一週間でシーカヤックを操れるようになっていた。お父さんと勉は、二人でシーカヤックを並べて漕いでいく。勉は少し大人になった気分がした。朝の空気は爽やかだ。

海から帰ってくると、クロがしっぽを大きく振って、勉を待っている。なんとなく、朝のクロの散歩は勉の役目になっている。お母さんは、朝食の支度はおばあちゃんに任せ、夕食をつくっている。おばあちゃんが庭仕事や畑仕事に行っている間に、お母さんは家の掃除や洗濯をする。家族のリズムが自然に出来上がりつつある。勉は、ずいぶん早起きになった。お父さんは、朝食を食べ終わると、おばあちゃんが作ってくれたお弁当をもって、勉とクロを連れて、小豆島の山の中を歩き回り、写真をたくさん撮った。

 山の中で食べるお弁当のおいしいこと。東京の空気とは、全然違う気がする。勉は、小豆島は海に囲まれていると思い込んでいたが、山が多いことも知った。小豆島行きを嫌がっていた勉も、毎日、クロとの散歩や海でのシーカヤックの楽しさ、おばあちゃんの穏やかな笑顔に包まれて、小豆島の暮らしに慣れつつあった。東京のマンションでは、犬は飼えなかった。クロとの散歩は、とても楽しい。引っ越し前の数か月のお父さんとお母さんの激しい言い争いがなくなったのが、勉にとって一番うれしいことだった。親のけんかは、子どもの心を痛めていることに、親は気が付くべきだ。

 朝食後、お父さんは、庭で看板をつくり始めた。勉も手伝うことにした。興味津々の顔つきでクロが周りをうろうろと動き回っている。お父さんが電動ノコギリで木を切り、形を整えていく。勉はお父さんと一緒にヤスリをかけ、木の表面をなめらかにしていく。最後に、ペンキで『素朴舎』と大きく文字を書き入れた。

「どうや、できたで」

「素朴舎か、もっとかっこいい名前がいいんじゃない?」

「そうか? お父さんはずっと前からこの名前がいいと決めてたんだ。人も自然もありのまま。素朴なのがいいんだ」

 お母さんが、縁側から顔を出した。

「素朴舎、いい名前ね」

 おばあちゃんも顔を出す。

「おや、できたんかい?」

「お母ちゃん、見てや。俺はこの島の良さを観光客に教えたる。今にこの島にいっぱい人が来るんや。この島を日本のへそにしたる」

「おんやそうかい。日本のへそかいな。うまくいくといいねえ」

「絶対うまくいくさ。俺はこの島に骨を埋める覚悟で帰って来たんだから。勉、お前は大きくなったら、どこにでも好きなところに行っていいんだぞ。俺の跡を継ごうなんて思わなくていいからな」

「そんなこと言われなくても、当然だよ」

「あんれまあ、勉ちゃんは、武の小さいときそっくりよ」

「えー、そんな、やだよ」

 勉は、口をとんがらせた。みんなが笑った。お母さんも作り笑いでない、本当の笑顔だ。

「あなたの仕事が軌道に乗るまで、私も働くから。毎日、暇だし」

「美奈さん、まだ、こっちにきたばかりなんだから、ゆっくりしてたらええ」

「あの、私、素麺屋で、明日から仕事することに決めてきました。素麺作り面白そうだし」

「俺は明日からはネイチャーガイドのコースつくりや」

 勉は、お父さんの決意みなぎる顔をまぶしそうに見つめた。東京でのお父さんは、いつも疲れきっていたように見えた。お父さんの明るい顔を見ていたら、きっとうまくいく、そう思えてきた。だから、ぼくだって、きっと、学校でうまくいくさ。

「さあ、お昼ご飯にしましょうよ」

 お母さんが言った。みんなの顔には明るい笑顔が広がっていた。


 戸形小学校は、海辺に面して建てられている。校庭をぐるりと囲んでいる金網の向こうには、砂浜があり、その先には瀬戸内海の青い海が広がっている。校舎は三階建てのこじんまりしたものだ。裏庭にはヤシやソテツなど南洋の植物が植わっている。ビルの狭間にある都会の小学校に通っていた勉には、校庭の先には海があるというのは驚きだった。

六年生は、勉を入れて十二名しかいない。しかも、今の六年生でこの学校は閉鎖されることになっているという。これでは、まるで現代版『二十四の瞳』だ。

マジか。信じられない。これでは、サッカーの試合もできやしない。勉は心の中で舌打ちした。ああ、やっぱり来るんじゃなかった。

 朝礼で、三井校長先生が生徒より一段高いところからマイクを持って「今日からみんなの仲間がひとり増えます。東京から引越ししてきた藤本勉君です。みんな仲ようしてください」と話すと、生徒たちの視線が一斉に勉に注がれる。勉は、その視線が煩わしかった。勉の気持ちにはお構いなしで校長先生の話は続く。

「きみたちが最後の戸形小学校の卒業生になります。この一年間、価値ある時間を過ごしましょう。そして、金の思い出をいっぱいつくってください」

 人数が少ないせいなのか、態度がだれている生徒はひとりもいない。校長先生の話が終わると、たった十二人の生徒が、整列したまま教室に入っていく。


 六年一組の教室では、十一人の生徒の二十二の瞳は、担任教師三浦輝雄の横に立っている勉に注がれている。いや、ひとりだけ頬杖をついてぼんやりと窓の外を眺めている少女がいた。勉の視線は、その少女に釘づけになった。その少女だけ、垢ぬけていて、ひときわ目立っていた。東京から来た子ってこの子のことだと、勉はピンときた。

 担任の三浦輝雄は、教師になって三年目の若い教師だ。引き締まった体に精悍な顔立ちをしている。三浦先生が黒板に大きな字で「藤本勉」と書いた。

「朝礼でも紹介があったが、藤本勉くんだ。今日からみんなの仲間や。みんな、仲ようしてや。そうしたら、藤本くん、自己紹介して」

「ぼくは東京から越してきました」

「ひょうー、ぼくやて。かっこつけんなやー」

 体の大きな中西弘が、からかった。「ぼくやて」「かっこええなあ」と中西に合わせるように、田中健太と三木修もはやし立てた。勉は、むっとした表情で、口パクで「サル」と言った。さっきまで窓を見ていた少女が勉を見た。少女と勉の視線が重なった。勉は、恥ずかしくなって少女から視線をそらせた。

「こら、静かに。藤本くん、気にせんと続けて」

「はい。サッカーが得意です」

 勉はバッグからサッカーボールを取り出すと、その場でリフティングを始めた。右足、左足で交互にバウンドしたり、頭の上や肩の上でリズミカルにボールをバウンドさせたりしている。鮮やかなボールさばきだ。クラスのみんなの目が、勉に釘づけになる。思わず歓声が漏れる。勉は三十回続けたところで、ボールを手に戻した。中西を除いたみんなが盛大な拍手をした。中西がじろりと三木と田中を睨むと、二人は慌てて拍手をやめた。中西は面白くない様子だ。

「リフティングは、百回以上続けられますが、今は、これくらいでやめときます。ぼくは、サッカーチームに入っていました。親の仕事の都合でこちらに来ました。ちなみにぼくは公用語です。別にかっこつけたわけではありません。普段は俺って言うし」

 勉が言った。三浦先生は、感心したような顔で勉を見る。

「ほう、藤本くんは、なかなか骨があるやっちゃなあ。中西くんと気があいそうや」

「ふん、おれは、すかん。そんなかっこつけマン」

 中西は、むっとしてそっぽを向く。

「藤本くん、寺田さんのとなりが空いているから、そこに座って」

 三浦先生が指し示した席は、先ほどの鼻筋が通った美少女のとなりだった。

「寺田さんも半年前に東京の学校から転校して来たから、いろいろ話もあうやろう」

 勉は美鈴の隣に座り、「よろしく」と軽く頭を下げる。「よろしくね」と、寺田美鈴は、はっきりした口調で答え、勉の目をじっと見つめた。その瞳がまぶしすぎる。

「今日は新学期の始めやし、新しい仲間が入ったので、みんな自己紹介をしましょう。藤本くん、みんなの名前と顔を覚えてな」

「はい」

「じゃあ、学級委員、前に出て進行してや」

 背が高く、やせていてひょろっとした川田秀雄とぽっちゃりした真砂由紀が前に出て来て、並んで立つと、三浦先生は教室の一番後ろの空いている席に座った。

「俺は学級委員をしている川田秀雄です。親が医者をやっているので、将来は医者になろ

うと思っています」

「うちは真砂由紀です。親はこの学校の教頭をしています。だから悪いことはできません」

 クラスのみんながどっと笑った。

「そんで将来の夢は学校の先生になろうと思っています」

 後ろに座っていた三浦先生が立ち上がった。

「親の職業は、言わんでええぞ。言いたいやつは言ってもええけど」

「それでは、名前と自分が言いたいことを言ってください。次は中西くん」

 さきほどから勉に絡んでいたやつが、すくっと立ち上がった。

「中西弘です。夢は父ちゃんがやっているホテルをもっとでかくして、この島にお客さんをいっぱい呼ぶんや」

「じゃあ、次は寺田さん」

 男子は川田が指名し、女子は由紀が指名していく。

「寺田美鈴です」

「えー、それで終わり? 将来の夢とか、趣味とかないの?」

 由紀が呆れて言った。三浦先生は美鈴をかばうように言った。

「まあええよ。自己紹介は自分が言いたいことだけ言えばええんや」

 次々と立ち上がっては自己紹介をしていく。十一人なので、あっという間に終わってしまう。三浦先生が前に戻り、みんなにプリントを配った。

「手紙にも書いてあるけど、おうちにいらない鯉のぼりがあったら持って来てください。今週の土曜日までや。土曜日には浜と裏庭のポールに紐を通して鯉のぼりを飾ります。寺田さんと藤本くんは初めてやね。海の上でたなびく鯉のぼりは、みごとやで」

 この地域では、毎年、戸形の浜と学校の間の浜に数多くの鯉のぼりが風に翻り、小豆島の観光スポットのひとつとなっているらしい。


 中西、三木、田中の三人でボールの投げ合いをしている。

「東京から来るやつは、どいつもこいつもええかっこしいや。胸糞悪い」

 中西が三木にボールを投げ、三木が受け取る。

「ほんでも、俺はリフティング十回もできんわ」

 三木は、田中にボールを投げる。

「藤本を入れたら、男子が六人になる。女子も入れたら、ぴったり十二人。ドッジボール大会にエントリーできるんやないか。中西くんの夢が叶うんやないか?」

 田中は、中西にボールを投げる。

「そっか。気にくわないやつだけど、あいつを入れると、人数がそろうのか」

 中西が言い、田中にボールを投げる。

「それにあいつ、運動神経よさそうやないか」

「ふん、俺の方が運動神経いいに決まっている」

「そりゃ、そうよ。中西くんの方が上や。運動神経の鈍い川田もおるしなあ」

 三木が言った。川田と笹原貴人が中西たちの横を通り過ぎようとしていた。そのとき、中西が、川田にボールを投げつけ、川田の頭に当たった。

「いてえ。何すんだよ」

「川田、ちゃんとボールを取れや」

 中西が偉そうに言うと、笹原は怒りを露わにして言った。

「おまえ、人にぶつけておいて、それはないやろう。ちゃんと謝れや」

「こっちはドッジボールの練習してたんや。坊さんの息子のくせに偉そうやなあ」

「坊さんは偉いんや」

「なに、生意気ぬかすんや」

 中西が笹原につかみかかった。三木、田中も中西に加勢する。三人がかりで、笹原を殴ったり、蹴ったりしている。

「おい、やめろよ」

 川田は、笹原を助けようとするが、突き飛ばされて尻餅をついた。勉は、大勢で一人の人間を殴っているのを黙って見ていられなくて、階段を走り下りてきた。

「おまえら、なにやっているんだ。ひとりに三人がかりは卑怯だぞ」

 勉は止めに入ったつもりだったが、いつの間にか五人で取っ組み合いのけんかになった。川田も起き上がり、その中に飛び込んでいく。六人が校庭で転がるようにして、くんずほぐれつの取っ組み合いになり、もうどうなっているかわからない。

 真砂由紀、森千穂、中井幸恵、木下真奈美、矢田基子が教室から飛び出して来た。

「あんたら、やめなさいよ。やめないなら、先生呼んでくるからね」

 中西や勉たちは、女子の言葉など耳に入らない。砂だらけで転がり合いながらけんかをしている。由紀と矢田基子は、職員室に走って行った。美鈴は、騒いでいる女子や男子を無視して一人帰っていく。

「なんや、寺田さん、感じわる」と中井幸恵が言うと、「でも、ちょっと大人っぽくてかっこええなあ」と森千穂が答える。

「千穂ったら、あんなツンツンしたんがええんか?」と木下真奈美も言った。

「そんでも、きれいやもの」と千穂がうっとりと言う。

 けんかしている男子の横で、三人の女子たちは、美鈴のうわさ話をしていた。


 由紀と基子が、職員室に駆け込んで来た。

「三浦先生、大変や。中西くんたちが転校生とけんかしよる」

「藤本の息子は元気がええのう。転校初日からけんかか」

 真砂教頭は面白そうに言う。

「お父ちゃん、そんなこと言っている場合とちゃうやろう。ここは学校よ。けんかは、だめでしょう」

「由紀、学校では教頭先生と言いなさい」

 真砂教頭先生は、由紀をたしなめた。

「大丈夫。今、行く」

 三浦先生は、駆け出していく。その後ろに由紀と基子がくっついて走っていく。

 校庭では、勉、中西、笹原、三木、田中、川田が群れあって殴り合っている。もう誰が誰だかわからない状態になっている。女子たちは、それを半分面白がって見ている。

 三浦先生が、勉、中西、笹原、三木、田中、川田、ひとりずつを引きはがしていく。みんな、ぜいぜいと息が荒い。

「やめ、やめ。お前らなにしとる。転校生をいじめたらいかんで」

「俺、いじめられていません。けんかを止めに入っただけです」

「そうや。こいつ、強いで。俺のことぎょうさん、殴りおった。こんなに殴られたの初めてや。先生、見てみい。俺のほっぺた赤くなってないか」

 三浦先生は、中西の頬をじっと見てから、優しく撫でた。

「だいじょうぶや。中西くん、互角のけんか友だちが出来てよかったな」

「ふん、ちっともよかない」

「藤本くん、けがはないか?」

「たぶん」

 三浦先生は、笹原、川田、三木、田中、それぞれの顔をじっと見ていく。

「で、このけんかの原因はなんや。川田くん、言うてみい」

 川田は、黙っている。

「中西くん、言うてみい」

 中西も黙っている。

 勉は、自分の服の泥を手で払った。服に泥がついたまま帰ったら、おばあちゃんが心配するからだ。

「あの、俺はけんかをしているのを止めに入っただけなので、理由は知らないので、帰ります。先生、さよなら」

 勉は、ひとりさっさと帰って行った。

「先生、俺も家の用事があるので帰ります。さよなら」

 笹原も、走り去っていく。

「先生、俺も家庭教師が来る時間なので、帰ります。さよなら」

 川田も笹原のあとを追うように走っていく。

「俺たちも帰ろう。先生、さよなら」

 中西が三木、田中と連れ立って帰っていく。校庭には、女子五人と三浦先生だけが残っている。

「雨降って地固まるかな」

三浦先生は、ぼそりとつぶやいた。

「寺田さんは?」

「さっさと一人で先に帰っていったわ」

 真奈美が突き放した感じで答えた。

「真砂さん、寺田さんを頼むわ。仲良したって」

「しゃあないなあ。三浦先生に頼まれたら、うちひと肌脱ぐわ」

「うわあ、脱ぐだって。由紀ちゃんのエッチ」

 千穂がはしゃぐような声をだす。ほかの女子たちもはやし立てた。

「あんたら、アホか。その脱ぐとは違うわ。役にたったるって意味や」

 女子たちは、楽しそうに何やらおしゃべりをしている。


 勉が石ころをけりながら歩いていると、笹原が息を切らして走ってきた。

「さっきは加勢してくれてありがとう。よろしく」

 笹原が手を差し出した。勉は笹原が差し出す手を握った。

「当然のことをしただけだよ。きみの家もこっちなの?」

「いいや、山の上。今日、うちに遊びに来ん? 急な坂道を上った山の中だけど」

「山の中?」

 川田も走ってきた。

「おーい、笹原、待ってよ。俺を置いていかないでよ」

「おう、今、藤本くんをうちに誘ったとこ。川田も来るだろう」

「おお、ええなあ。ほしたら、藤本くんの歓迎会やね」

「川田くんだっけ、学級委員のくせに、さっきはなんでほっといたんだよ」

「ああ、ごめん。でも、俺だって……」

「ああ、ええんよ。川田はけんかは苦手なん。逆に加勢されても足手まといになるだけや」

「まあ、そうだけど。笹原、俺、一応加勢にはいったんや。でも、中西に突き飛ばされたんや」

 ぼくは、笹原と川田を見る。

「ふうん、二人はそういう関係なんだ」

「そういう関係って、俺たちホモやないで」

 川田が言う。

「アホか。あたりまえや」

 笹原が答えた。勉は、笹原、川田のじゃれあいを見て、羨ましくなった。いいなあ。俺だって転校しなければ、こういう友だちがいたのに。勉は、心の中でつぶやいた。

「じゃあ、一度うちに帰ってから行くよ。この山の上に行けばいいの?」

「うん、山のてっぺん。お寺だからすぐわかるよ。じゃあ、待ってるよ。川田もあとでな」

 三人は、別方向に歩いていく。


 笠原の家は小豆島の観光スポットでもあり、八十八ヶ処の霊場ひとつである山滝寺が家である。お寺のすぐ横が住まいだ。

「すっげえ、山の中。ここから毎日、学校まで歩いてくるんだ」

「まあね、三十分くらいでいけるよ」

 さらに上まで登っていくと、岩肌に鎖がある。

「お遍路さんは、この鎖場を登って頂上までいくんや。背中の曲がったじいちゃんやばあちゃんでも登るんやで。どや、やってみる?」

 ぼくは、鎖の上の方を眺めた。岩肌はほぼ一直線である。

「川田も行くやろ?」

「しゃあないなあ」

 笹原を先頭に勉、川田が、鎖を握りながら岩肌を登っていく。山滝寺の頂上から見る眺めは、今、自分たちが立っているところが、緑の木々の中にぽっかり浮かんでいるように見える。

「どや、ええ眺めやろう?」

 勉は、深呼吸をした。

「うーん、ええ眺めや。空気もうまい」

 川田が笑い出す。

「藤本くん、わしらの言葉を真似しとる」

「へへへ、わかった? 方言面白いね。お父さんがここの生まれだから、こっちに戻ってきたら急に方言しゃべっているよ」

 笹原は、崖の中腹に生えているギザギザした葉っぱを指差した。

「ほら、あのギザギザしとる葉っぱはな、薬草なんだ。あれを煎じて飲んだら腹痛が直ぐ治る」

「笹原くんって物知りなんだね」

「笹原は、しょうもないことばかり知っているんよ」

「うるさいわ」

「薬草より、具合が悪くなったら、うちに来ればええよ。うちの父ちゃん医者やから」

「おまえはええなあ。将来に迷いがなくて。俺は、父ちゃんの仕事継ぐのはいやなんだ」

「そんでも坊さんがいないと、誰かが死んだとき、誰が供養するんじゃ?」

「寺じゃなくて、もっと大きな仕事がしたい」

「大きな仕事ってなんだ?」

「たとえば地球防衛軍とかさ。宇宙人からの襲撃から地球を守るんだ」

笹原は、ウルトラマンのポーズを取り、真顔で「シュワチ」と叫んだ。みんなで笑った。

 二人とも将来のことを考えているんだ。ぼくは、まだ何も考えていない。小豆島に来て、これからのことで不安がいっぱいなだけだ。

「医者はいいよな。人を助ける仕事だから」

「笹原、気にすんな。俺はおまえにいつも助けられているから」

「そういう問題じゃないと思うんよ」

笹原は、寂しげに笑った。勉は、この二人とは友だちになれそうだと思った。


 門構えの立派な家に中西弘は住んでいる。その広い庭の中で、中西は竹刀の素振りを熱心に繰り返している。額からは玉のような汗が流れている。それでも心の中のもやもやが、なぜか晴れない。

「ちくしょう。ちくしょう」

 中西は今までけんかでは負けたことがなかった。それが東京から来た勉に殴り返されたのが悔しくてならなかった。あいつのほうが、俺よりよけいに殴った気がする。しかもあの鮮やかなリフティング。俺にはできない。子分の三木や田中まで勉に羨望の眼差しを送っていた。それが無性に腹が立つ。でも、田中の「藤本を入れたら十二名になり、ドッジボール大会に出られる」との言葉が頭のすみにひっかかっている。

「あいつを入れたら十二人、あいつを入れたら十二人」

この言葉が呪文のように中西の頭の中をぐるぐる回っている。小豆島全島あげてのドッジボール大会に、今までは出たくても人数が足らずに参加することができなかった。勉が転校してきたので、ドッジボール大会に出られるチャンスがきた。でも、クソ生意気な転校生を仲間に入れたくない。中西はズボンのポケットをさぐった。しわくちゃになった紙がでてきた。その紙には小豆島小学生ドッジドール大会の詳細が書かれている。一チーム十二名から二十名以内と書かれている。

 俺のこの気持ちは何なんだ。なんかどす黒い気持ち。俺、あいつに嫉妬してんのか。こんなの俺らしくない。そうや、あいつ、三浦先生になんにもいいわけしなかった。クソ生意気だけど、案外いいやつかもしれない。今年が出場できる最後やしなあ。あいつ運動神経良さそうだし、ひょっとしたら勝てるかもしれない。でも、あいつに頼みたないしなあ。ああ、でも、このチャンスを逃したら、ドジボール大会に出られない。中西は、しわくちゃの紙をじっと見つめていた。


勉は、クロを連れて海辺の道を散歩していた。砂浜に人影が見えた。空からの梯子のように、雲の間から光がところどころに差している。その光の中で寺田美鈴が踊っている。勉は、慌てて岩陰に身を隠した。まるで天使が舞い降りてきたみたいだ。なんてきれいなんだ。十二歳の勉は、この瞬間、恋に落ちた。


 一週間後。戸形小学校の校庭のポールと戸形崎の岩の上に立っているポールに紐が結ばれ、そこに何十匹もの鯉が、風にはためいている。

 勉は、初めて見る光景だ。笹原と川田が、勉の肩をぽんと叩いた。

「どや、ええながめやろう」

「うん、鯉のぼりが気持ちよさそうに泳いでいるね」

 寺田美鈴も、ぽつんと離れて校庭の隅で見ている。勉は、寺田美鈴に目がいってしまう。真砂由紀と中井幸恵が、美鈴に近づいていった。

「寺田さんは初めてよね。鯉のぼり見るの? どう?」

「どうって?」

「壮観やと思わん?」

「別に」

 美鈴は、由紀たちに背を向け教室に入っていく。勉は、その姿を目で追っていた。

「なんなん? 寺田さん、感じわる」

「寺田さんは、きっと心に傷があるんやろう。親が離婚しているやもん。仲ようしような」

「由紀ちゃん、えらいわ。さすが学級委員や」

 始業時間のチャイムが鳴り、校庭にいた生徒たちも教室に入っていく。三浦先生の授業が始まり、みんなは先生の話を聞いているが、美鈴は、頬杖をついてぼんやりと窓の外を見ている。窓の外には鯉のぼりが気持ちよさそうに空を泳いでいる。

 学校が終わり、勉が一人で歩いていると、中西がこそこそと隠れるようにあとをつけてくる。勉は、立ち止まった。すると、中西も立ち止まる。勉が歩き出すと、中西も歩き出す。勉が後ろを振り向くと、中西はさっと物陰に隠れる。あいつ、なにやってんだ。ぼくはとっくに気が付いているのに。だるまさんが転んだやっているんじゃないんだから。勉は、後ろを向いたまま、立ち止まって叫んだ。

「なんか用? 隠れてないで、でてこいよ」

 バツが悪そうに中西が物陰からのっそりと出てきた。

「おまえに用なんかあるわけないやろう。俺んちもこっちなんや」

「中西くんちは、港のそばのホテルじゃないの?」

「おまえ、あほか。誰がホテルに住むんや。家は別や」

「そっか。なら、後ろからこそこそついてこないで一緒に帰ろうよ」

「おまえが一緒に帰りたい言うなら、そうしようか」

 中西は、黙ったまま勉と並んで歩いた。二人とも黙ったままが気詰まりになり、同時に

「あのさあ」「あんなあ」と同時に言った。「なに?」「なんや?」と二人同時に答えた。

 勉と中西は、顔を見合わせて思わず笑ってしまった。

「あんなあ、おまえ、ドッジボールせんか?」

「ドッジボール?」

「あんなあ、これ見てや」

 中西はズボンのポケットの中からしわくちゃになった紙を広げて見せた。

「あんなあ、七月にドッジボール大会があるんよ。一チーム十二名以上なんよ。おまえを入れて、ぴったり十二名」

 中西は、勉の肩を両手でがしっとつかんだ。

「なあ、一緒にやろうや」

「うん。いいよ」

「えっ、いいの? ほんまにほんま?」

「うん、いいよ」

 中西は、うれしくて小躍りした。

「よっしゃ。決まりや。頑張ろうなあ。昨日の敵は今日の友っていうのは、ほんまやなあ」

「おれはいいけど、十二人ってクラス全員ってことでしょう?」

「そうや」

「女子も入れて十二人だよね。みんなやるかなあ?」

「明日、クラスのみんなに話すわ、じゃあな」

 中西は、勉に背を向けて走り出した。

「ねえ、こっちじゃないの?」

 中西は振り返り、「うちはこっちや」と言うと走って行ってしまった。勉は、夕暮れの砂浜で一人踊っている美鈴の姿が浮かんだ。あの子は、一緒にやるのかなあ。


 三浦先生は、教壇の横に椅子を持ってきて座っている。教壇には、川田と由紀が立っている。黒板には「ドッジボール大会参加について」と書かれている。美鈴は、窓から外を見ている。その横顔は寂しそうに見える。

「では、今日の議題は中西くんの提案なので、中西くん、説明してください」

「藤本が転校してきたんで、六年一組はちょうど十二人になった。俺たちはドッジボール大会参加資格をクリヤしたんや。ドッジボール小豆島大会にみんなででようや。そして、優勝して四国大会にいこうや」

 中西は熱く語った。

「俺は、賛成」「俺も大賛成」と、三木と田中が即座に声をあげた。

「藤本も賛成やろ」

「うん」

 笹原は、意外そうな顔して勉を見た。

「ほかの人はどうですか?」

 川田がクラスのみんなに聞いた。笹原が手を挙げた。

「六年の思い出になるし、参加するのはええと思うよ。ただし、中西くんが動きの鈍いやつをいじめなんだらやけど」

 中西は、笹原を睨みつける。

「いじめるなんて人聞き悪いこというなや」

「やたらに人にボールをぶつけるのは止めてほしいけどな」

 川田が小さい声でつぶやいた。

「中西くんに悪気はないんや。ただ、気が短いだけなんや」

 三木が立ち上がって言った。

「そうや。ちょいと手が早いだけや」

 田中も言った。

「そしたら、男子は全員賛成やね。うちは面白そうやと思うけど。女子はどうなん?」

 由紀が、女子たちに聞いた。

「うちもやってもええわ。やるからには勝ちたいねえ」

 幸恵が言うと、美鈴を除いた女子たちは口々に賛成した。

「寺田さんは、どうなん?」

「……別に興味ないし」

 美鈴がやる気なさげに答えると、中西は立ち上がり、美鈴の前に来た。クラスのみんなは、何が起こるか不安げに見ている。

「頼む。一緒に参加してくれや。陣地の中で立っとるだけでええから」

 中西は、美鈴に頭を下げた。美鈴は黙ったままだ。クラスのみんなは二人の様子をじっと見ている。三浦先生が立ち上がり言った。

「まあ、勝ち負けはともかく、みんなでやったら、六年生のええ思い出になるなあ。中西くん、ええところに目をつけたなあ」

「先生、そやろう。クラス団結や。みんなで仲ようやろうや」

「寺田さん、どうや、みんなと一緒にやってみんか?」

 三浦先生がそう言うと、クラスのみんなが美鈴をじっと見ている。

「……仲よくとか、団結とか、大嫌い」

 美鈴は小さな声でつぶやいた。

「なんだって!」

 中西の目が吊り上がった。危ない。勉は、中西から美鈴を守らなきゃと、立ち上がった。

「なんだよ、藤本」

 中西が、低い声で言った。そのとき、美鈴が小さな声だが、はっきりと言った。

「……立っているだけでいいなら……いいよ」

「それでええよ。ありがとう」

 中西は、美鈴の手を取り、ギュッと握り締める。美鈴は、びっくりして、中西の顔を見る。クラスのみんなも二人を見ている。

「よっしゃ。早速、今日の放課後からドッジの練習や」

「おいおい、中西くん。あんまり暴走するなよ。練習の無理強いはいかんぞ」

 三浦先生が言った。

「はーい。わかってまーす」

「女子は真砂さんがまとめてくれるか?」

「はい。まかせてください」

 美鈴は、小さなため息をついた。勉と目が合うと、少しだけ微笑んだ。

 その日の放課後。勉と笹原と川田は、三角形のポジションを取り、ボールの投げ合いをしている。三木と田中は二人でボールを投げ合っている。女子も千穂と幸恵、真奈美と基子が二人ずつペアになっている。由紀と中西は、二人でなにやら相談している。美鈴は一人離れて、みんなを見ていたが、帰ろうとする。由紀が美鈴を呼び止めた。

「寺田さん、少しでもええから一緒にやらん?」

「帰る」

 美鈴はぶっきらぼうに言うと、帰っていった。真奈美、千穂、基子、幸恵が、由紀の周りに集まってくる。

「何あの態度。むかつく」

「真奈美、やめや。寺田は陣地に立っとるだけでええって約束やから」

 中西が口をはさんだ。

「あら、暴れん坊の中西くんらしくないこと言うんやね。もしかして、あれですか?」

 真奈美が、からかう口調で言う。

「あれって?」

「つまり、寺田さんにほれちゃっているってこと?」

 千穂が言うと、女子たちが中西をはやし立てた。

「アホ言うなや。そんなんと違うわ。俺が好きなのは……」

「誰や? はよ、いい」

 由紀も中西を急き立てる。

「それは、……おっと、、そんなのどうでもいいやろう。寺田も入れてぎりぎり十二人なんやから。やつがやる言わんかったら参加できんのやからしょうがないやろう。おまえら、寺田をいじめるなや」

「いじめっ子もかたなしやね。そんなにドッジの試合に出たいんや」

 由紀が呆れて言った。

「出たい。そして、勝ちたい。まあ、寺田は立っとるだけでええ。川田はボールに当たらんようによけてくれればええ。逃げ専門でええよ。あとは俺たちが頑張ればええんや」

 由紀は中西の顔をじっと見る。

「ふうん、怪しいなあ」

「怪しくない。おまえ、にぶいなあ。おれは、お……」

 そのとき、三浦先生が走って来た。

「先生も入れてくれるか?」

「ええよ。みんな、集まってくれ。二つのチームに別れて試合しよ」

 みんなは、丸くなって、グーパーじゃんけんをする。勉、中西、笹原、真奈美、基子、幸恵が同じチームになり、三木、田中、川田、由紀、千穂、三浦先生が同じチームになった。勉、中西、笹原は、しっかり相手チームのボールをキャッチし、相手チームに力いっぱいぶつけている。川田は当てられないように由紀たちと逃げ回っている。ボールが両チームの間を激しく行き来している。笹原がボールをキャッチし、三浦先生にボールを投げつけた。ボールを当てられた三浦先生は場外に出て行く。

「坊さんのくせにやるやん」

「坊さんのくせにはよけいや。それにまだ、坊さんじゃないし」

「中西くん、親の職業でからかうのはよくないよ。そんなこと言っていると試合には勝てないよ。チームワークが大事だから」

 勉が言った。

「そうか、そうやな。俺たちはひとつのチームになったんやから。笹原、ごめん。その、ええ球投げるゆうことや」

 中西が笹原に謝った。

「中西君、えらい素直で気持ち悪いわ」

 そのとき、由紀が投げたボールが中西の背中に当たる。

「いて」

「やったあ」

 由紀は向こう側の陣地ではしゃいでいる。

「おい、由紀。後ろから狙うなんて卑怯やないか」

「卑怯やあらへん。試合中にぺちゃくちゃ話をしている方がわるいんや。油断大敵とはこのことや。まじめにやりなさい」

「そうや、そうや」

 女子たちが、由紀に加勢する。

「中西くんは、真砂さんに弱いんだね」

 勉が、つぶやいた。

「まあな、由紀に勝てる男子はこのクラスにはおらん。あいつは、いいやつやしな」

三浦先生は、みんなの様子をうれしそうに見ている。

 

 おばあちゃんが庭いじりをしていると、勉が帰ってきた。クロがうれしそうに尻尾を振って勉にじゃれついてくる。

「おばあちゃん、ただいま」

「あんれまあ。ずいぶん服が汚れとるねえ。けんかでもした? どうしたん?」

「みんなでドッジボールやってた」

 おばあちゃんは、にっこり微笑む。

「そりゃよかったね。勉ちゃんは明るいからすぐに友だちができる思うとった」

「今度、クラスみんなで、ドッジボールの大会に出るんだよ。だから、放課後はみんなでドッジボールの練習さ。ぼく、クロの散歩に行ってくるよ」

 勉は庭先からカバンを放り投げると、クロの首輪にリードをつけた。

「クロ、おいで」

 勉はクロを連れて、海辺の道を歩いて行く。


 美鈴が誰もいない砂浜で夕陽を浴びて踊っている。勉は、岩陰に身を潜めて、美鈴の踊る姿を見ていると、クロが小さく吠えた。

「こら、しぃ」

 美鈴は踊るのを止めて、岩の方を見た。

「誰?」

勉は、ばつが悪そうに岩陰から出てきた。

「やあ、犬の散歩していたんだ」

 美鈴は、はだしの砂を払うとサンダルをはいた。勉のそばに近づいてくると、しゃがんでクロの頭を優しく撫でた。クロはうれしそうに尻尾を振った。

「かわいいね」

「クロって言うんだ」

 美鈴が、立ち上がる。

「見られちゃったね」

「見るつもりはなかったんだけど」

 勉と美鈴は、砂浜を並んで歩き出した。

「今まで誰にも見つからなかったんだけどな」

「ごめん、邪魔するつもりはなかったんだ」

「別に藤本くんが謝ることじゃないでしょう。あたし、東京にいたときは、バレエを習っていたの。体が忘れないように自分で毎日おさらいしているの」

「へえー、偉いんだね。将来はバレリーナになりたいとか?」

「バレエの先生が、練習を一生懸命、毎日続けていれば、夢は必ずかなうって言ったの」

「そっか。ねえ、どうして学校では誰とも話さないの?」

「どうしてかな? ただ、つっぱっているだけかも。自分でもわからない。藤本くんは、最初の日、みんなのこと馬鹿にしていたでしょう。田舎者って」

「えっ?」

「だって、転校して来た日、口パクでサルって言ったもの」

「気がついたの、きっと、寺田さんだけだと思うよ」

「ふふ、私と同じこと思ったってうれしかったけど」

「けど、なに?」

「そのあと、自分の力をひけらかしたでしょう。ああいうの、嫌いよ」

「あれはひとつの自己防衛だよ」

「自己防衛?」

「攻撃されないためのね。男はサル山のサルなんだ。いつでも力比べするんだ。相手に自分の力を認めさせるためにね。自分より力のあるものを認める。力のないものはいじめる」

「私は自分の力をひけらかしたくない」

「カラに閉じこもるのもよくないと思うよ。みんないいやつみたいだよ。中西くんも」

「かもね。今日は驚いた。いきなり手を強くにぎりしめるんだもん」

「ああ、ぼくも驚いた。怖い顔しているから君に殴りかかるかと思ったよ」

「私もそう思って怖かった。藤本君が立ち上がってかばってくれたでしょう。ありがとう」

「放課後のドッジボール楽しかったよ」

「ねえ、見て。真っ赤な夕日。この時間が一番好き」

 勉と美鈴は、山並みに沈もうとしている夕日を見ていた。勉は、夕日を見ている美鈴の横顔を盗み見た。美しい横顔にどきりとする。心臓の鼓動が鳴り響く。美鈴に聞こえやしないかとひやひやした。

「毅然としていないと、自分自身が崩れてしまいそうな気がするんだ」

「だいじょうぶだよ。寺田さんは何があっても崩れない。だいじょうぶ」

 美鈴は、勉を見つめた。

「私のこと何にも知らないくせに、簡単に言ってくれるよね」

「じゃあ、教えてよ。寺田さんのこと」

「……さっき、ひとつ教えた。将来の夢。二つ目、親が離婚してここに戻ってきた。同情されたくなくて突っ張っているのかも」

「親のことなんて関係ないよ。ドッジボール、明日は一緒にやろうよ」

「……考えとく。じゃあね」

 美鈴は手を振り帰っていく。立ち止まり、振り返った。

「だいじょうぶって言葉、好きよ。もうひとつ教えてあげる。私、ドッジボール強いのよ」

 美鈴は、笑顔で言った。美鈴の笑顔に勉の心はとろけそうになる。

美鈴は再び前を向いて、背筋を伸ばして歩いていく。勉はいつまでも美鈴の後ろ姿を見

ていた。もう一度振り返ってと、勉は願ったが、美鈴は振り返ることはなかった。


 美鈴は、二階建ての古びた木造アパートの二階に住んでいる。玄関を開けると、台所と二部屋しかない。寺田玲子が食事の支度をしている。

「ただいま」

「お帰り。また、ひとりで海辺で踊っていたの?」

「うん、家の中で踊りまわることはできないでしょう」

「そんなことしたら下から苦情がくるわ。でも、夕方の海辺は、人目がないから気をつけてよ。ご飯の支度ができたから、食べましょう」

 テーブルには質素なおかずが並んでいる。

「ごめんね。簡単なもので」

「ううん、バレリーナは太っちゃいけないから、これで十分。野菜がいっぱいあるもの」

「美鈴、友だちできたの?」

「ひとりできたかも。今度、クラスでドッジボール大会に参加するらしい」

「らしいって? 他人事みたいね」

「ドッジボールなんて興味ないもの。中西って子が熱くなっているんだ。なにかと真砂さんって学級委員に付きまとわれている」

「面倒見がいい子がいるのね。安心した。美鈴の笑顔、こっちに来て初めて見た」

 玲子が立ち上がり、食器を流しに運ぶ。

「美鈴、食器は洗っといてね。それから戸締り、火の元だけは気をつけてね。宿題はちゃんとするのよ」

「うん。ママも飲み過ぎないようにね」

「わかっている。ちゃんと寝ているのよ」

 玲子は鏡に向かい、口紅を引くと、出かけていった。美鈴は食器を洗い終わると、小さな箱からトウシューズを出し、愛おしそうに抱きしめる。

 放課後、六年一組の生徒たちは、ドッジボールをやっていた。美鈴は、校庭の隅にあるジャングルジムに寄りかかって見ている。中西が、川田に何回もボールを当てている。

「川田、ちゃんとボール取れや。取れんのなら、素早く逃げや。ボールをちゃんと見いや」

 突然、笹原は陣地から飛び出し、中西につかみかかった。

「おまえ、川田をいじめない言うたやろう」

 勉が、止めに入った。

「笹原くん、落ち着け」

「そやけど、こいつ、小さいころから、川田のことをいじめているんや」

由紀や、クラスのみんなも集まって来た。美鈴は、動かずにただみんなを見ている。

「今は違うよ。俺は試合に勝ちたいだけや。川田がウィークポイントになっとる」

「どんくさくてごめん。俺やめるよ。迷惑かけるから」

 川田は、ふてくされて帰ろうとする。

「待てや。それは困る」

中西は川田の腕を掴んだ。

「ごめん、謝るよ。でも、試合に勝ちたいんだ。川田、ちゃんとボールをみろよ」

「俺、つい、強いボールが来ると、目をつぶっちゃうんだ」

 川田が言った。

「俺、いいこと思いついた。ボールと友だちになればいいんだよ」

 勉が言うと、みんなが首をかしげた。

「ボールと友だち?」

「そう、ボールと友だちになるんだ。まずはボールに慣れること。いつもボールに触っていてボールの大きさに慣れるんだ。サッカーの練習でも、ずっとコーチに言われてた。ボールと友だちになれって。朝起きると、毎日、ご飯の前にリフティングしてたからね」

「だから、あんなにリフティングができるんだ」

 川田が感心したような声をだした。

「誰だって、練習すればできるようになるよ。速く動くためには、毎日、反復横跳びの練習をやればいいんだよ」

 勉が地面に傍線を二本書き、反復横跳びをやって見せた。

「なるほど。俺、やるよ」と川田が言った。

「俺もつき合ってやるよ」と笹原が言った。

 勉と川田と笹原で、しばらく反復横跳びを続けた。川田が一番先に音を上げた。

「ひえ、結構きついなあ」

「ねえ、それ、私たち、全員やったほうがいいんじゃない。ボールをよける練習になる」

由紀が言うと、「そやね」と女子たちがうなずいた。「俺たちもやりたい」と三木も田中も言った。

「じゃあ、まずは、軽く校庭を走ってから反復横跳びを二十回くらいして、二人一組でボールの投げっこをしてから、二チームに分かれて試合するのはどうかな?」

 勉が言った。

「おう、いいね。それでいこう。みんなもいいよね」

中西がみんなの顔を見回した。みんなは、うなずいた。

「藤本君ってコーチみたいやね」と由紀が言った。

「そっかなあ」

 勉は、照れくさそうに頭をかいた。

「藤本コーチ、みんな、練習頑張ろうぜ。川田、練習せいよ。弱音を吐くな」

 中西が言った。

「川田くんはボ―ルを取る練習も必要だね。まずは弱めの球から始めればいいよ。体の真ん中、お腹で取るようにしてみて。投げるよ。ちゃんと目を開けてボールを見るんだよ」

 勉がわざとひょろひょろ球を投げた。川田は、何とかボールを取れた。

「ほら、緩い球なら取れるじゃん」

「うん、取れた」

 川田は笑顔で答えた。

「緩い球を何度も取る練習をして、すこしずつ強い球を取る練習をすればいいんんだよ」

「俺が手伝ってやるよ」

「笹原くん、頼むね。俺もときどき仲間に入るけど」

「おう、まかせとき」

 なんとなくいい雰囲気になってきた。

「ねえ、はじめよう」

 由紀が言うと、みんなそれぞれの場所に戻っていく。美鈴がみんなのところに来た。

「私も入れてくれる?」

 クラスのみんなは一瞬驚いて美鈴を見つめた。由紀は、笑顔で答えた。

「内野でも外野でも好きなところ入って」

 美鈴は内野に入った。ボールが当たらないように逃げまくっていたが、中西がボールを投げた瞬間、前に進み出てボールを受け止めた。相手チームに狙いをつけて、思い切り投げつけた。三木に当たった。

「いて。可愛い顔しとるのに、球は鬼のように強いわ」

 三木が場外に出る。

「寺田さん、やるやん」

「まあね」

 女子たちは、敵も味方も歓声をあげた。男子たちは驚いた。

「寺田、その調子や」

 中西は喜んだ。勉もうれしかったが、中西のように素直に声には出せなかった。美鈴は、由紀に笑顔を向けた。

「私も仲間に入れてね。寺田さんじゃなくて、美鈴って呼んで」

「もちろんや、美鈴ちゃん」

 笹原は川田に小声で囁いた。

「おまえ、少しは頑張らんと、寺田さんにも負けてるぞ」

「うん」

 川田は、情けなさそうに答えた。


 川田病院は、土庄港から歩いて数分のところにある。住居は病院の横にある。庭が広い。川田の部屋は、こぎれいに整頓されている。壁には本がぎっしりと詰まった本棚がある。

「川田くんの部屋には本がいっぱいだね。これ全部読んだの?」

「まあ、だいたいね。うちの親は子どもに本を買うのが趣味なんや」

「図書館みたいやろ。おれも秀雄の恩恵受けているんや」

「二人とも読書家なんだね。おれは『怪盗二十面相』とか『ズッコケシリーズ』くらいしか読んでないや。そろそろドッジの練習やろうか」

 笹原、川田たちは、広い庭で反復横跳びの練習を始めた。二人の横で、勉はサッカーボールでリフティングしている。

「それにしても、藤本くんは上手にボールを扱うやね。まるで体の一部みたいや」

 川田が感心して言った。

「ボールは友だち、そう思っているよ。川田くんもちょっとやってみる?」

 川田は、勉からサッカーボールを受け取り、リフティングをしてみる。何度やっても一回しかできない。

「俺にもやらせて」

 川田が、笹原にボールを渡した。笹原も十回ほどしかできない。

「藤本くんは、うまいもんやなあ。なんか秘訣あるんかい?」

笹原が聞いた。

「秘訣はないよ。おれも最初は十回くらいしかできなかったんだ。チームのエースストライカーが百回以上できてさあ、悔しくて、毎日やっているうちに、リフティングが楽しくなって大好きになったら、どんどんできるようになったんだ。秘訣は好きになること。楽しむことかな。俺が所属していたサッカーチームは、強くていつも地域で優勝していたんだ。夢はプロのサッカー選手になることだったけど。ここでは、サッカーができない」

 勉の声がだんだん小さくなっていく。

「諦めることないよ。小学校は十二人だけど、中学はもっといるし、たぶんサッカーできるよ。藤本は足も速いし大丈夫だよ。大きくなったら東京に戻ればいいじゃないか」

 笹原が言った。

「そうだね。先のことはわからない。でも、今は、ドッジボールの大会で勝つことだね」

「ドッジボール大会で勝つって、中西君が乗り移ったみたいだね」

 笹原が笑った。

「秘訣は、ボールは友だち。毎日、ボールに触ることなんだね。そして、楽しむこと」

「川田、燃えてきたやん」

「そりゃあ、俺だって、女の子に負けられんよ。寺田さんがいきなり『やる』言うたら、中西君の強いボールを取って、剛速球で三木君をヒットするやろ。驚いたわ。俺だって、ただ、逃げ回っているだけではかっこ悪いわ」

「川田秀雄、男に目覚めたわけや」

 笹原が言った。


 放課後、戸形小学校の校庭では、今日も六年一組の子どもたちがドッジボールをしている。川田は相変わらずボールから逃げ回っていたが、中西がボールを投げた瞬間、心の中で「ボールは友だち」とつぶやき、目を大きく見開き、体をボールが飛んでくる方に動かした。気がついたら、川田の手の中にボールがあった。勉、笹原は、川田の肩を叩いた。

「取れたやん」

「取れたね」

「ボールは友だちだね」 

 川田は、満面の笑顔だ。ボールを取れたことがうれしくてたまらない。

「なにやっとんのや。早く投げろや」

 中西は、叫んだ。川田は、美鈴めがけてボールを投げた。美鈴も、川田のボールを取り、投げ返す。その時、校庭の外に一台の車が停った。車の横にはナカニシホテルと書かれている。中西は、車の方へ走っていった。車から降りた父親から大きな袋を受け取り、校庭に戻ってきた。

「おーい、今日はおしまいにしようや。父ちゃんが差し入れ持ってきてくれた。みんな好きなもん取ってや」

三木、田中、由紀、千穂、幸恵、真奈美、基子は、中西のところに走っていった。勉、笹原、川田はそのままそこに突っ立っていた。由紀は、飲み物を二本持って、美鈴のそばに来る。

「美鈴ちゃん、サイダーでもいい?」

「ありがとう」

 中西は、胸に四本抱えて、勉たちのところに来た。中西は、勉たちに飲み物を渡した。

「川田、よう頑張ったなや。俺のボール、取れるようになるなんてすごいぞ」

「うん。自分でもびっくりした。藤本くんや笹原のおかげや」

「あれ、もうひとり忘れとるぞ」

 笹原が言う。

「誰や?」

 笹原は、中西を指差す。

「中西や。中西がおまえにきついこと言わなんだら、おまえ、やる気にならなかったやろ」

「そっか。そうだね。中西くんのおかげやね」

 中西は、照れた。

「そんなこと川田や笹原から言われるなんて思いもせえへんかった。やっぱり、坊さんはえらいこと言うなあ」

「あんなあ、坊さん、言わん約束やったぞ。今度は俺が抜けるぞ」

 笹原は、わざと怒ったように言う。

「今のは、ほめ言葉や。俺、おまえのこと好きになったかもしれん」

 中西が笹原の肩に手をまわした。

「かんべいせいや。俺にはそんな 趣味はないよ」

 勉、川田、笹原、中西、楽しそうに笑っている。

「川田くんがやっとボール取れるようになったし、試合、勝てるかも」

 勉の言葉に、中西もうなずいた。

「そやなあ。あとはみんな、まあまあいけるしな。川田、ただし、ボールを取ったらすぐ投げる。ボールを持ったら五秒以内に投げないとアウトになる」

「そうなんだ。中西くんは、ルールにも詳しいんだね」

川田が言った。

「小豆島ドッジボール大会に出ることが俺の夢やった。六年最後のチャンスにやっとその夢が叶うんだ」

 中西がうれしそうに言った。

「美鈴ちゃんも最強やしね」

 由紀の言葉に美鈴は、恥ずかしそうに笑った。

「そやね。寺田が秘密兵器とは知らなんだ」

 勉は、中西の言葉がうれしかった。美鈴がやっとみんなの仲間に入ることができて、自分のことのようにうれしかった。


七月の第二日曜日。土庄町民体育館で小学生ドッジボール大会が行われる。

土庄市民体育館前に大会の始まる三十分前に集合することにしてあった。勉、中西、笹原は、一番乗りだった。三人は、ボールの投げっこをしてみんなを待った。三浦先生がバイクに乗ってきた。田中、三木が走ってきた。女子たちも真砂由紀と一緒に五人が揃ってきた。まだ来ないのは美鈴と川田だ。

「遅いなあ。寺田と川田は。何しとんじゃ」

 中西が鋭い声で言う。その時、一台の車がすっと市民体育館前で停まった。青白い顔した川田が下りてきた。

「どうしたん? 顔真っ青や」

笹原が心配げに尋ねた。

「あんな、下痢や。朝からお腹が痛い」

「そっか。じゃあ、これを飲め」

 笹原が自分のリュックから薬を取り出した。

「なんや、これ」

「下痢止めの薬。即効、効くやつだ。飲んでみ」

 笹原に勧められて川田は素直に薬を飲んだ。三浦先生が腕時計を見る。

「先生がここで寺田さんを待っているから、みんなは体育館の中に入りなさい。開会式に間に合わなくても、試合の時間に全員そろえば、失格にならない。さあ、行きなさい」

「先生、寺田来るかなあ?」

 中西が心配そうに言った。

「大丈夫、来るよ。みんなで練習してきたんじゃないか」

 三浦先生が、中西の肩をポンとたたいた。

「大丈夫や。美鈴ちゃんは、ちゃんとくるよ」

 由紀も中西の肩をポンとたたいた。

「中西君、中に入ろう。おれも寺田は必ず来ると思う。信じよう」

 勉は、美鈴が間に合うことを心の中で祈った。

 

体育館の中では、すでに十チームが並んでいる。そこに勉たち、戸形小学校のメンバー十一人が並んだ。よそのチームは、二十人いるチームもある。戸形小学校と同じギリギリ十二人のチームは、二チームだけだった。

「なんか、みんな強そうに見えるな」

 中西がボソッとつぶやいた。

「大丈夫だよ。川田くんも動けるようになったし、笹原くんも中西くんもそして、俺も、最強メンバーがいるじゃない」

 勉が中西を励ます。

「でも、まだ、寺田が来ない」

「大丈夫、試合が始まる前に来るよ」

そうは言ったが、勉も気が気ではなかった。開会式が終わった。まだ、美鈴は来ない。開会式が終わり、試合が始まる。戸形小学校と苗羽小学校が第一試合だ。

チーム名が呼ばれた。まだ、美鈴は来ていない。コートに整列しなければならない。勉たちは、十一人で並んだ。相手チームは十二人そろっている。

「戸形小学校チーム、並んでください。十一人しかいないけど。人数が揃わないなら、失格となり、苗羽小学校チームの勝ちになります」

 その時、体育館の扉が開いた。三浦先生と美鈴が息を切らして体育館の中に入ってきた。

「みんな遅くなってごめんなさい」

「よかった。間に合って。みんな、美鈴ちゃんが必ず来るって信じて待っていたよ」

 由紀と美鈴は抱きしめあった。

「はよ並べ。待ってたぞ。秘密兵器。気をもますな」

 中西が言った。

「ごめんなさい。秘密兵器でなくなった」

 美鈴の人差し指には、包帯がまかれていた。

「人差し指、どうしたの?」

 勉が、心配そうに聞いた。

「遅れた理由はこれ。食器を洗っていて、コップを落として、それで指を切っちゃった」

「大丈夫?」

「大丈夫じゃないかも。だから、内野で逃げ回る」

「うん、それでいいよ。無理するな。逃げるが勝ちだね」

 両チームは整列して、お辞儀すると、各陣地に戻った。勉たちはエンジンを組み、「ファイト! おう!」と掛け声をかけた。

「中西くん、ごめん。私、指切っちゃった。だから、ボール取れないかもしれない。その分、内野で逃げ回るから」

「わかった。内野頑張れ。当たるなよ。逃げるが勝ちでいけ」

 笹原、中西、三木、由紀と木下真奈美は外野になった。内野は美鈴を含む残りの女子四人、川田、田中、勉が内野になった。

「藤本、田中、内野はまかせた」

「中西君、笹原君、外野は頼んだ」

「川田、腹は治ったか?」

「うん、大丈夫みたい。笹原の薬が効いたよ」

「川田、逃げ切れよ」

 中西が、げきを飛ばす。

「うん、頑張るよ」

 審判のホイッスルとともに、試合が開始された。審判がボールを空中に上げ、中西と相手チームの代表がジャンプした。体の大きな中西がボールをはたき、外野の笹原がそのボールをキャッチ。敵チームに投げた。そのボールは相手チームの内野の子がキャッチし、勉たちめがけて投げつける。勉たち内野チームは横一列になってボールをよける。外野の中西、笹原は狙いをつけてボールを投げているが、相手もなかなか逃げるのがうまく当たらない。川田も反復横跳びの練習の成果がでて、うまく逃げ回っている。
相手チームのボールが美鈴めがけてきた。美鈴は、ボールに当たった。が、そのボールが地面に落ちる寸前にボールを取り、外野の中西にボールを投げた。中西は、相手チームに思いきり強い球を投げつけヒットした。美鈴の指の包帯が血でにじんでいる。美鈴は、苦痛で顔をゆがめた。

「痛む?」

 勉が小声で聞く。

「傷が開いちゃったかも。あとで川田医院に行くから大丈夫」

 勉は、美鈴の前に立った。美鈴をガードしてボールを取っていたが、背中にボールを当てられてしまった。勉は、外野に出るとき、美鈴に言った。

「無理するなよ。ボールを取らないで逃げ切ればいいんだから」

 勉に代わって、中西が内野に入ってきた。美鈴は、ボールを取ろうとせず、ひらりひら

りと、ボールから身をかわして逃げまくっている。川田も逃げまくっていたが、目の前に

ボールが近づいてきた。川田はじっと目を見開きボールを見た。一瞬、ボールが止まって

いるように見えた。気が付くと、ボールは川田の手の中にあった。

「やった! ボールを取ったよ」

「早く投げろ。五秒ルールだぞ」

 中西が叫んだ。川田は慌てて外野の勉にボールを投げる。勉がボールをキャッチし、相

手チームに投げつけ、ヒットした。勉が、再び内野に戻った。

 審判が試合終了のホイッスルを吹いた。一試合目は戸形小学校が勝った。


戸形小学校の六年一組のメンバーは、順調に勝ち進み、決勝戦までいったが、決勝戦で敗れてしまった。その日の夜、海の見える戸形小学校の校庭では、六年一組の親たちが総出でバーベキューの用意をしていた。三浦先生も親たちを手伝っている。

真砂教頭先生は、六年一組の生徒を前にねぎらいの言葉を述べていた。

「みんな、お疲れさんでした。よう頑張ったな。小豆島で二位、、おめでとう。今日はみんなの健闘をねぎらって、みんなの親御さんがバーベキューの用意をしてくれとる。みんな、腹いっぱい食べて、楽しんでください」

真砂教頭の話が終わると、子どもたちは、バーベキューに群がった。真砂教頭先生、笹原、藤本、川田の父親たちが、ビールを片手に思い出話で盛り上がっている。彼らはこの小学校の同窓生だった。

勉、笹原、川田の三人で喋っていると、中西が三木と田中を連れ立って近づいて来た。手に持った皿には、肉がこんもり盛られている。

「川田、よう頑張ったなあ」

「それほどでもないよ」

 中西にほめられ、川田は照れているが、うれしそうに顔はニヤついている。

 女子は由紀を中心にお喋りしながら食べている。美鈴は、みんなからひとり離れたところで海を見ている。由紀はひとりぽつんといる美鈴に気づくと、バーベキューを二人分皿に取り、美鈴のそばに行った。

「美鈴ちゃんの分も取ってきた」

「ありがとう」

「指、まだ痛む?」

「ううん、大丈夫。当日の朝、ケガするなんて、ドジだよね。活躍できないでごめんね」

「そんなこと、気にせんといいよ」

 美鈴は、肉を口に入れると、「おいしい」と言った。

「うん、おいしいね」

 美鈴と由紀は、顔を見合わせて微笑む。

「ねえ、砂浜にあんな大きな石あったかしら?」

「うん、どれ? あれ石やないよ。動いとる。ウミガメや。行ってみよう」

 由紀と美鈴は、音を立てないようにそろりと砂浜に降りていく。砂浜では、大きなウミガメが白いピンポン玉くらいの卵を産み落としている。

「(小声で)すごい。初めて見た」

「(小声で)うちだって初めて見た。みんなを呼んでこよう」

 由紀は校庭に戻ると、みんなに伝えた。

「大変や、ウミガメが卵を産んでいるよ」

「由紀、ほんまかいな。すごいことや。みんな、静かに音を立てないようにいきましょう」

「(小声で)すげえ。おれ、初めて見た」

 勉は感激の声をあげた。

「おれやって」

 笹原が言うと、笹原の父親が答えるように言った。

「お父さんも初めて見たよ。私のじいさんの時代には、この辺にもウミガメが産卵しにたくさん来てたそうやけどな。この数十年は、ウミガメが来なかった。今夜はいいものが見られたな」

 亀は目に涙を流しながら産卵している。ときどき「フー」と荒い息を吐く。大人も子どもも息を殺してそっと見守っている。

「ウミガメって、涙を流しながら、卵を産むのね」

 美鈴がつぶやくと、寺田玲子が美鈴の肩を抱きしめた。

「きっと、子どもがいとおしくて涙を流すのよ」

「ああ、びっくりした。お母さん、いつ来たの?」

「しぃ、大きな声出しちゃだめよ。ウミガメが驚いちゃうでしょう。お店抜けてきたの」

「だいじょうぶなの?」

「たまには構わないわよ」

 美鈴は玲子の体に身を寄せた。ウミガメは、卵の上に砂をかけている。砂で卵を隠し終わると、ゆっくりと海を目指して進み始めるが、途中で止まる。

「卵との別れを惜しんでいるみたいね」

 玲子が美鈴に囁いた。ウミガメは、再び、ゆっくりと海へ向かって進み、やがて海の中へ消えていった。


 六年一組の教室では、三浦先生が教壇で話をしている。クラスの雰囲気がいつもと違っていた。教室の中は、ひとつのことを成し遂げたあとの明るさに満たされていた。

「昨日はお疲れさんでした。みんな心をあわせてよう頑張ったからやね。ひとりの力は小さくても、みんなが団結すると大きな力を生み出します。小豆島二位おめでとう」

「戦力外だと思っていた寺田さんや川田がよう頑張ったんや」

「そうやね。中西くんも、人のいいところを認めてほめられるようになったんやね。先生はうれしい」

 クラスのみんなが拍手する。

「おれ、そんなこと言われると照れるなあ」

 笑いが広がった。中西は、つけ足すように言った。

「藤本が転校してこなかったら、チームとして参加できなかった。藤本はみんなのコーチにもなった。藤本はは六年一組へのおくりものや」

「俺がおくりものだって」

 笑いが弾けた。ひとつになった心は何を聞いてもおかしい。

「昨夜はウミガメの産卵まで見ることができました。先生も初めて見ました。調べてみたけど、小豆島でのウミガメの産卵は九十年ぶりだそうや。頑張ったみんなへウミガメからのおくりものやね」

 子どもたちは、歓声をあげた。


 誰もいない夕暮れの浜辺で、美鈴はアイポットで音楽を流しながらバレエを踊っている。曲目はチャイコフスキーの『白鳥の湖』。勉が、クロを連れてきた。美鈴は、目の端に勉の姿が見えたが、構わずに踊っている。勉も、岩陰には隠れずに美鈴の踊る姿を見ている。

 音楽が終わり、美鈴は、勉に向かってバレリーナのお辞儀をした。勉は拍手をした。

「すごいや。本物のバレリーナみたいだね」

「藤本くん、バレエの舞台を見たことあるの?」

「ううん、ないけど。そんな気がした」

 クロがリードを引っ張る。勉と美鈴は、自然に並んで歩き出す。

「ドッジボール終わっちゃったね」

「うん、二ヶ月があっという間だった。あたし、東京にいるときは、みんなと仲良くやっていたのよ。こっちに来てから、馴染めなくて。でも、藤本くんが、勇気が出る魔法の言葉をくれたから、みんなの中に飛び込もうって思った」

「魔法の言葉って、何?」

「あのとき、だいじょうぶって言ってくれた」

 二人は、しばらく黙って歩いて行く。

「ウミガメの卵、ちゃんと産まれるといいね」

「そうだね」

「あたしにも偶然のおくりものが届いたの」

「偶然のおくりものって?」

「男の子って鈍いのね。愛は偶然のおくりものなのよ。じゃあね、バイバイ」

 美鈴が駆けていく。勉は美鈴の後ろ姿を見ていた。

 愛は偶然のおくりもの。なんじゃそれは? 勉はひとりで何度も繰り返していた。それって、もしかして、美鈴ちゃんは俺のことが好きってことなのか。

「ヤッホー!」

 勉は、飛び上がって喜んだ。

「おれだって、美鈴ちゃんのこと大好きだよ」

 勉は、海に向かって叫んだ。


 今朝は珍しくお母さんが早起きして、朝食の支度をしている。ちゃぶ台の上にはおかずやご飯にお味噌汁と、食事の用意が整った。お父さんも勉もちゃぶ台の前に座っている。

「珍しいな。母ちゃんが起きてこないなんて。昨日の蛍見に行ったのが、疲れとるんかな」

「勉、おばあちゃん、起こしてきてくれる?」

「いいよ」

 勉は立ち上がり、おばあちゃんの部屋に行く。おばあちゃんは、布団の中で横になっている。勉が部屋に入っていく。

「おばあちゃん、起きて。ご飯だよ」

 返事がない。おばあちゃんは目を閉じたまま、ピクリとも動かない。勉は、おばあちゃんのそばに屈み込んでその顔を覗き込んだ。

おばあちゃんは安らかな顔で眠っている。その頬に触れると、冷たかった。

「おばあちゃん」

 勉は、尻餅をついた。

「大変だよ。おばあちゃん、動かない。息をしていない」

 勉の声で、お父さん、お母さんが部屋の中に入ってきた。

「お母ちゃん」

 お父さんが、おばあちゃんの肩を揺すっている。目には大粒の涙がこぼれていた。


 勉の家の前には黒白の幕が張られていた。多くの弔問客が来ている。三浦先生に連れられて六年一組の生徒たちも来た。祭壇にはおばあちゃんがにこやかに笑っている遺影が掲げられている。柩の中でおばあちゃんが静かに眠っていた。その傍らにはお父さん、お母さん、勉が並んで座っている。笹原の父親が僧侶の衣をまとってお経を上げている。

 笹原は、父親の後ろ姿をじっと見ていた。 弔問客がだれもいなくなり、勉、お父さん、お母さんだけになった。

「おばあちゃん、死んじゃったね」

「人は産まれたら、いつかは死ぬもんや。俺はお母ちゃんの子どもに生まれて幸せだった」

「あなた、ごめんなさいね。お母さんに何もしてあげられなかった。まさか、こんなに早く逝くなんて思いもしなかった」

 お母さんが涙ぐむと、お父さんはお母さんを抱き寄せた。

 三浦先生、真砂教頭が、懐中電灯を手に砂浜を歩いていると、小さなウミガメが砂の中から這い出してくるのが見えた。

「教頭先生、大変や。ウミガメの赤ちゃんが産まれたんです。みんなに連絡しなくちゃ」

「そやね。手分けして連絡しよう」

 三浦先生、真砂教頭先生は、ポケットから携帯を出し、電話をかけている。

 藤本一家が一番最初に砂浜に着いた。笹原親子も、中西親子も来た。続々と六年一組の子どもと親たちが集まってきた。勉はぐるりと見て、美鈴がいないのに気がついた。

「ちょっと行ってくる」

 お父さんに断りを入れると、勉は自転車に乗り走り去っていく。

「あの子、どこ行ったの?」

「さあね。友だちでも呼びにいくんやろ。すぐもどるよ」

 美鈴の家は、古ぼけたアパートの二階だ。勉は自転車を放りだし、階段を駆け上がった。美鈴の家のドアを激しく叩いた。

「美鈴ちゃん、藤本だけど。産まれたんだ。ウミガメの赤ちゃん。みんな来ている。早く行こう」

 勉は自転車の後ろに美鈴を乗せると、スピードをだして走った。

 夜の戸形の砂浜には、六年一組の子どもたち、三浦先生、教頭先生、校長先生、親たちが砂から顔を出すウミガメをそっと見守っていた。月明かりに導かれるように、ウミガメの赤ちゃんは、次々と、砂の中から這い出てくる。勉は校庭の横で自転車から降りると、美鈴と砂浜まで駆け出した。

「よかった。間に合った」

勉と美鈴は、ウミガメの赤ちゃんをじっと見ていた。ウミガメは小さな手足をバタバタと一生懸命動かして、海の方へ移動している。その歩みは、ゆっくりだ。笹原が、勉のそばに来た。美鈴は、そっとその場を離れた。

「藤本のおばあちゃんのお葬式、うちの父ちゃんがやったやろう。あんとき、お父ちゃん、めちゃかっこう良く見えたんや。産まれる命も死ぬ命も、どちらも同じく尊い。命をあの世に送ってあげるのも立派な仕事やと思うんや」

「そうだよ」

 勉の言葉に、笹原はニッコリとする。

 ウミガメの赤ちゃんは、次々と海の中へ入って行く。やがて、すべて海の中に消えていった。


 夏休みはあっという間に過ぎ、とうとう最後の日を迎えた。勉と美鈴は、手をつないでエンジェルロードを歩いている。一日の中で引き潮のときだけ、陸地が見えて、そこを歩けるようになっている。普段は海だ。エンジェルロードを歩いた恋人たちは、結ばれるという伝説がある。

「あのね、私、明日、東京に帰ることになった。お父さんと暮らすことになったの」

「美鈴ちゃんは、それでいいのか?」

「裁判で決まったんだ。お父さん、再婚したから、親権はお父さんだって。実はちょっとうれしいんだ。だって、お父さんはお金持ちだし、東京に戻ればバレエを続けられるから」

「バレリーナになるのが夢だもんな。俺は自分の夢をしっかり持っている美鈴ちゃんをかっこいいと思うよ」

「学校の休みには、必ずここに帰ってくる。お父さんがいいって言ったの。あたしのこと、待っててくれる?」

「待っているよ。俺、お父さんのようにネイチャーガイドの仕事しながら、自然を守る活動をしようと思んだ。そして、俺は、大人になったら美鈴ちゃんをお嫁さんにする」

「あたしは、大人になったら勉くんのお嫁さんになる」

勉と美鈴は、見つめあう。


二学期の始業式の朝。

六年一組の教室では、三浦先生の横に美鈴が立っている。美鈴は長い髪をシニョンに結って、リボンをつけている。クラスがざわざわしている。

「今日から始業式や。みんな気持ちを入れ替えて、新たな気持ちで頑張って欲しい。そして、みんなにお知らせがある。寺田さんが、東京の学校に転校することになった」

「急に決まったの。これから東京にいる父親と暮らすことになったの。今まで仲良くしてくれてありがとう。一生忘れない思い出ができました。だから、あたしからみんなにおくりものがしたいの。先生、支度してきます」

「みんなに見せたいものがあるそうや。机と椅子は掃除の時みたいに後ろに下げてや」

 みんなは、訳も分からず、わいわい言いながら机と椅子を後ろに下げた。由紀は涙ぐんでいた。勉だけは、これから美鈴がしようとしていることを知っていた。

 みんなが机や椅子を下げ終わった頃、美鈴は真っ白いロマンチックチュチュにピンクのトウシューズを履いて戻ってきた。みんなは、美鈴の姿に目をみはった。

「私からみんなにささやかなおくりものです。バレエを踊ります。先生、お願いします」

 三浦先生は、ラジカセのスイッチを押した。『白鳥の湖』の音楽が流れ出す。美鈴は、曲にあわせて白鳥になりきって踊る。

 音楽が終わると、美鈴は膝を曲げて、バレリーナのお辞儀をした。みんなは拍手をした。

「私の将来の夢はバレリーナになることです。今までありがとう」

 美鈴は、教室を出て行った。

「じゃあ、机と椅子を戻して授業を始めるぞ」

 勉は、窓の外をぼおっと見ている。美鈴は、父親と一緒に校舎の外を歩いて行く。美鈴の姿は見えなくなった。

「先生、俺、港まで見送りに行く」

 勉は言うと同時に、教室を出て駆け出していく。クラスのみんなも教室を飛び出した。

「誰もいなくなっちゃった」

 三浦先生がつぶやいた。

 勉たち六年一組の生徒たちは、港までの道を走っている。

 土庄港では、船が停っていた。美鈴と父親は、船のデッキに並んで立っている。

 勉たちが走ってくる姿が見えた。

「藤本くん、由紀ちゃん、六年一組のみんな、さよなら」

 美鈴は、大きな声で叫んだ。出発の合図の鐘が鳴り、船は港を離れていく。

 勉たちは、走りながら手を振る。美鈴も手を振った。(完)

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