短編小説 親のない子と子のない女

親のない子と子のない女    森本 薫

 海辺のとある駅。一人の女が降りてきた。首にスカーフをまき、ウエストを絞ったおしゃれなスーツに身を包み、ハイヒールを履いていた。この辺では見かけないような女だ。
 改札を抜けると、木のベンチがいくつかある。駅の待合室に一人の少年がぽつんといる以外誰もいない。女は、少年に一瞬目をとめたが、声をかけることもなく、待合室のベンチに腰を下ろした。茶色の旅行カバンをわきに置くと、ふうとため息を一つついた。まるで重たい荷物を下ろしたみたいに。
 少年も、女に目を向けた。少年には、その女がまるで異次元から来た人のように見えた。そこだけ、光がさしているように見えた。思わず見つめてしまった。この辺の女たちとも自分の母親ともまるで違っていた。
 少年の視線に気づいた女は、少年に声をかけた。
「僕一人?」
 少年は黙ったまま頷いた。
「学校は?」
少年は、黙っている。少年は、周りを見回した。今ここにいるのは、少年と女だけだ。少年は、無造作に置かれた茶色の旅行カバンを掴むと、猛スピードで走りだした。
「ちょっと、何するの?」
 女は、立ち上がり叫んで、少年を追いかけようとしたが、すぐにベンチに腰を下ろした。自嘲気味に笑った。
「馬鹿ね。どうせ、もういらないんだもの。あの子にくれてやるわ」
 女は、ふらふらと立ち上がると、外に出た。
 少年は、一目散に走った。息が切れて心臓が痛くなるまで走った。後ろを振り返った。誰も追いかけてこないことを確認すると、立ち止まった。
少年は、不思議に思った。なぜ、追いかけてこないのだろう。少年は、カバンを開けて、金目の物を探した。少年は、もう三日間も何も食べていなかったのだ。カバンの中にお金が入っていれば、何か食べ物を買えると思った。
茶色の旅行カバンの中から白い封筒が出てきた。封筒の表がきには『遺書』と書かれていた。少年には『書』しか読めなった。封筒の中身を出して読んでみた。
 女が少年にカバンを盗まれても、追いかけてこなかった理由がわかった。
「大変だ。急がなくちゃ。止めなくちゃ」
 少年は、海に向かって走っていった。
 海辺では、女が流木に腰かけて、ぼんやりと海を見ていた。
少年は、息を切らして走ってきた。後ろから女の背中を抱きしめた。
「おばちゃん、死んじゃだめだ」
 いきなり少年から抱きつかれた女は、驚いて少年を見た。
「ああ、びっくりした。苦しいから、その手を放して」
 少年は、茶色いカバンを差し出した。
「ごめんなさい。これ返す。だから死なないで」
 女は、ふっと薄く笑った。少年からカバンを受け取った。
「ありがとう。カバン、返しに来てくれたのね」
 少年は、黙って頷いた。
「ねえ、ここに座って少しお話ししない?」
 少年は、黙って女の横に座った。
「よくここにいるってわかったわね」
「だって、死のうとする人は、海に入るでしょう」
「あなたも、海に入ろうと思ったことがあるのね」
「うん」
「あなたの話聞かせてくれる?」
 少年は、もじもじと足で砂浜に文字を書いていた。
「うん、いいよ。だけど、僕、おなかがすいているんだ。もう三日間何も食べていないんだ」
「だから、カバンを盗んだのね」
「うん」
「残念ながら、ここにはお店もないし。何も食べるものをもっていないの。あなたのお話を聞かせてくれたら、私とどこかでお腹いっぱい食べましょうか?」
 少年の名前は、上田聡。十歳。小学四年生だ。少年は、母親と狭い県営住宅で暮らしていた。つつましいながらも母親は、朝ごはんも夕ご飯も作ってくれていた。
 ある日、母親が男を連れて帰ってきた。男は、最初は聡とキャッチボールをしたり、トランプをしたりして、遊んでくれた。だが、次第に、男は機嫌が悪いと、聡を殴ったり、蹴ったりするようになった。母親は、男をとめることはなかった。聡が母親に助けを求めても、見て見ぬふりをしていた。
 次第に男と母親は、聡を置いて、どこかに出かけるようになった。母親は、だんだん聡の世話をしなくなっていった。聡に夕食の用意もしない。聡は、冷蔵庫の中にあるものを一人で食べていた。学校給食が、唯一まともに食べられる食事だった。
 何時もおなかをすかし、着るものも薄汚れていて、忘れ物もよくするようになった聡は、いつしかクラスのいじめの標的になった。学校に行けば、給食にありつくことができたが、クラス中の子に無視されたり、上履きや教科書を隠されたり、机に「死ね」「バイキン」「きたない」「くさい」などの落書きをされた。それを見ると、「自分には生きる価値がないんだ」「死んでしまいたい」と思うようになっていった。聡は学校にも家にも居場所がなくなった。そんなある日、母親と男がいなくなった。小学生の聡は、貯金箱のお金を使って、スーパーでパンを買って食べていたが、ついにその金もなくなり、この3日間なにも食べていなかったのだ。
 女は、少年を抱きしめた。
「聡君は、そんなにつらい思いをしてきたのね。さあ、ご飯を食べに行きましょう」
 女がバックからハンカチを出して、少年の涙で汚れた顔を拭いた。
「そんな顔の聡君を連れて行ったら、私があなたをいじめたみたいに思われちゃうでしょう」
 女は薄く笑った。少年もにっと笑った。
「僕は、一度海の中に入ったんだ。死んだら楽になると思って、肩がつかるところまで入ったら、怖くなった。怖くて怖くて。足が止まっちゃった。死んじゃいけないって、生きたいって、体の中の声が聞こえたんだ」
「私はね、子どもが欲しかったの。結婚して何年たっても子どもができなかったの。子どもができるように病院にも何年も通ったわ。そして、ようやく子どもが授かったと思ったら、子どもは流れてだめだったの。夫も子どもが欲しくてね。私以上にがっかりしたの。二人でがっかりして、『子どもは諦めて二人で仲良く生きていこう』と言ってくれたの。それなのに、その三か月後、夫は、『離婚してくれ』と切り出してきたの。『二人で仲良く生きていこう』と言ってたのに。夫に理由を問い詰めたら、『付き合っている女に子どもができた』っていうの。もう目の前が真っ暗になったの。それでここにきてしまったの。ごめんなさいね。子どもに話すべきことではなかったわね」
「だいじょうぶだよ。僕は平気だよ。お父さんがいなくなって、お母さんが男の人を連れてきて、僕に暴力をふるうようになって、お母さんもいなくなっちゃた。僕、親に捨てられちゃったんだ。それでも、生きているよ。生きていれば、きっと、いつかいいことがあるって思う。おばさんが、死なないでよかったよ」
 聡は、女の顔を見てにこりと笑った。
「僕、おなかがぺこぺこだよ」
「そうだったわね。何かおいしいものを食べに行きましょう」
 女は、立ち上がると、スカートをはたいた。
「ねえ、まだ、おばさんの名前を聞いていないよ」
「私は、佐々木久美子。東京に住んでいるの。まずは、何かおいしいものを食べに行きましょう。先のことはそのあと考えましょう。聡君と話していたら、なんだか元気になってきた」
 佐々木久美子と聡は、手をつないで歩きだした。
 聡は、ものすごい勢いで食べた。久美子は、聡の食べっぷりを楽しそうに眺めた。
「聡君、おいしい?」
「うん、こんなおいしいもの初めて食べた」
「豪快に食べるのね。ねえ、聡君、これからどうする?」
「東京に行きたくない? デズニィランドもあるわよ」
「デズニィランド、行ってみたいな。おばさんが連れて行ってくれるの?」「いいわよ。連れてってあげる。ねえ、おばさんの子どもにならない?」「えっ?」
「だって、おばさんには、子どもがいない。聡君には親がいない。おたがいにちょうどいいと思わない?」
「うん、ちょうどいいね。おばさんの子どもになってあげる。毎日ご飯が食べられるんだね」
「もちろん、毎日、食べさせてあげる。学校にも行かせてあげる。でもね、それにはいろいろな手続きをしなくてはならないから、少しだけ待っててね。これから児童相談所に行きましょう。聡君、今の状態、お母さんが君を置いてどこかに行っちゃたことちゃんと話せる?」
 久美子は聡をじっと見つめた。
「うん」
「学校も休んでいるのでしょう? 学校にも一緒に行くから、学校の先生にちゃんと話せる?」
 聡は、うつむいた。
「学校に行きたくないのね? 教室には行かなくていいの。職員室で君の担任に、いまの聡君の状況をちゃんと話しましょう。勇気を出して。生きていればいつかきっといいことがある、って聡君がおばさんに言った言葉よ。おばさんは、聡君のお母さんになるって決めたの。いい?」
 聡は、こくりと頷いた。
「おばさんも勇気を出して生きていくことに決めたの。だから聡くんも勇気を出して。二人で乗り越えていきましょう。会社辞めてきたから、しばらくこちらにいて、いろいろな手続きをするからね」
 食事が終わると、久美子は聡とともに児童相談所や学校に行き、聡の親がいなくなった事を話した。児童相談所では、訝しがられた。
「それにしても、あなたはもの好きな人だね。おせっかいというか。駅のベンチで知り合った子どものために、ここまでするなんて」
「三日もご飯も食べないで、学校にも行けずにいる子どもを大人が助けるのは、当たり前のことですよ」
「それにしてもねえ、東京から来た人がねえ」
「地域の人が守ってくれていたら、この子はつらい思いをしないで済んだんですよ」
 久美子の剣幕に児童相談所の人もたじたじになった。
聡は、児童相談所で一時預かりになった。
「ねえ、おばさん、絶対に迎えに来てよ」
「絶対に迎えに来る。本当はこのまま、東京に一緒に連れ帰りたいけど、そしたら、誘拐になっちゃうから。おばさんは、約束を守るから。一緒に生きていこうね。きっと、いつか、いいことあるから」
 久美子は手帳を破り、自分の連絡先を書いて渡した。
一年後、聡は東京の学校に転校した。久美子と聡は、晴れて親子として暮らしている。




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