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カミュという作家 〜『幸福な死』を読んで〜


 僕は、またパリに行かなければならない。今度はサルトルではなく、カミュの墓参りをするために。そして、いつも降り注ぐあの容赦ない陽光と青すぎる空、煌めく海と褐色の美しい女性たちという得意にして甘美な舞台設定を可能にした彼の故郷であるアルジェ、この街を訪れるために僕は近いうちアフリカの土を踏むことになるだろう。

 サルトルの墓については散々僕が騒いでいるように、今日もひっきりなしにファンが足を運んでは落書きしたりメトロのチケットを置いたりしているものである。ところが、この悲しい小説家の墓は今どんな様子だろう。前者の墓がサン=ジェルマンデプレからほど近いモンパルナスにあるのに対し、後者の墓が郊外の美しい村にあるという点も興味深い。彼は、都会という場所で生きるには繊細すぎた。

 カミュの作品を幾つか読めば、彼が凡俗から距離を取り続けていることが伺える。その傾向は、この作品において顕著である。彼の描く光景はいつも、ありふれた日常ではない。そのように見えることがあっても、例えばこの小説の中の「世界をのぞむ家」だって、まさにその名の通り世俗の渦中にあるというよりは世界をのぞむべく一段高い丘の上にある。そして音やら煙やらで彼は都会に隣接している。街中で彼が起こした突飛な殺人、驚くほど淡々と描かれるこの殺人も、今度は舞台こそ世俗の中心のように思えるが事象としてはあくまで異常である。恋愛だって、彼はついにアパランス、つまりは外見の恋愛に終始し、ついには愛なんてものを否定する。彼は恋に永続的な何ものも期待しなかった。そうまでして彼が守ろうとしたのは自身の過敏すぎる神経であったか。大切な者の死という究極的なテーマも然り、彼が描こうとしたものはいつも極地にある。しかし、通底するテーマであるいかにして幸福に死ぬか、という点だけは今日の世俗を極めて凡庸に生きる多くの人間にとっても等しく関心のあることで、そのヒントは決して彼の立ち位置ゆえに褪色するものではあるまい。

 カミュの小説というのは特異である。多くの小説にある現実の観察結果としての”普通”が虚弱なのだ。これが異邦人の前に用意され、また本人の意図に反して世に通ずるところとなったという点も無視できないが、カミュは世俗というものへの強い関心を示しながらも、その中に入場して明確なポジションを表明することを苦手とし、ある日そんな態度を親友のサルトルから徹底的に批判され、ついに世間からの関心も薄れつつある中で交通事故死するというその一生は、彼がこの作品に書いてみせた幸福な最期を考えてもあまりに悲痛である。

 僭越ながらここで自分の話をすると、僕も最近また小説を書いたけれども、それはカミュの書くそれと似た香りがするように思うことがある。無論、筆力に差がありすぎるのでペストや異邦人を読んだときには全くそう思わなかったが、この作品がまだ小説の形態を取り切れていないという未熟さを抱えている点も含め、自分が書いたものと通ずる何かを見た。それは、無理やり小説に変形したエッセイとでも言おうか。いや、エッセイでもない。ここにはただ、複数の小説の書き出しみたいなものがなんとか整然と見えるように並べられている。それだけならまだしも、彼が世俗の外縁にいる感じこそ、僕が彼に対して覚えたシンパシーの強烈な拠り所である。

 僕にとって、サルトルは憧れである。しかし、どう改心しようにもあの人物ほど渦中を生きることはできない人間だと思い知らされることが多い。そして、自分の身体の中に何故か通っている貴族の血統。猥雑を極端に嫌い、調度の整ったホテルの一室で空間的なゆとりを持ちながらお茶を飲む時間、本を読む時間、あるいはワインを飲みながら大切な人とそこで語らう時間ほど有意義な時間はないと考える同年代に会うことはまずない。恥ずかしながら、大学生の頃は今以上にあらゆることに我慢ならなくて、新橋から出ているゆりかもめみたいな車体が細くてかつ私語で飽和した電車に乗るだけで機嫌を損ねていた。

 東海道新幹線に乗るとき、僕は出来ればグリーン車に乗りたいと思う。その理由の最たるは、普通車の照明と座席の色が明るすぎるように思えるという点にあるのだが、この態度は実に僕と世俗の関係をよく表している。世俗一般は、少々露骨すぎるのだ。そんなにはっきり見えなくていい。そういう場所で生きるには少々神経質ずぎるというこの虚弱な体質に、僕はこの偉大な作家との共通項を見出すのである。

 さて、解説に素敵な表現があった。

『幸福な死』の蛹のなかで『異邦人』の幼虫が形成されていったのだ。

 僕には今、書きたい”題材”だけがある。それを、何とか小説の形に拵えて練り続ける中で、こんなもの何にもならないだろうという諦めがあるのだが、その諦めはある意味正しいのかもしれない。それは羽化しない蛹なのだ。その中で、新たな命が確実に準備されているのなら、僕らの駄作の山も決して無駄ではないと思えた午前三時半。僕ら、としたのはきっとこれを読むだろう同志を思い浮かべてのこと。

 最後に、カミュという人間の核心に迫る、この小説の文中にあった素敵な名言を紹介。

“ぼくにとって大切なことは、幸福の或る種の質なんだ。ぼくが幸福を味わうことができるのは、その反対なものとのあいだにある、激しく根強い衝突のなかだけなんだ”

今夜も長くなりました。
それでは皆さん、おやすみなさい。

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