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危険な快感

 実に、それは嫌な快感であった。快感に嫌も何もあろうか、だって快感だろう?しかし、快感にもTPOがあることを誰もが知っている。だから、不感なんて言葉があるし、仮面の告白なんて小説がある。

 この嫌な快感…それは箱男のそれに限りなく近いもの…つまり、覗き覗かれない快感。それは思わぬ真面目な瞬間に訪れた。

 それはある種の消火訓練。僕は長い髪が挟まれないように気をつけて、その銀色の被り物に首を通した。僕だけが代表してそれを被ったのがいけなかった。一人だけ、顔の周りに不思議な空間を獲得して、黄色いシールドから見る世界は別にいつもと変わらないが、音が聞こえないから僕は小部屋に閉じ込められたような感覚に陥った。そして、次の瞬間には何やらあまりに不憫な思いがしてきた。一人だけこんな重いものを装着して…内側では緑色のランプが不気味に点滅していて、外の音も聞こえなくて、馬鹿みたいだ。僕は救いを求めるように、同席した者の顔を眺めた。ところが。
 誰もろくに反応してくれないのだ。少しの微笑みでも返してくれたら、僕はどれだけ救われただろう。ところが彼らは何とも間が悪いというような顔で、哀れみの一瞥を向けただけであった。僕はあまりに滑稽で、どうやらそれゆえに無視された。だが、君たちが僕を無視しようと、僕は君たちを見ている。そう思った瞬間に、むしろこちらが有利で彼らが不利にあるように思われた。すると、この内側の緑色の点滅すら、愉快に思えてきた。気づけば僕は微笑んでいた。この恐ろしい微笑み…それは禁断の微笑みであった。

 僕はここから安部公房みたいに天才的な長編を編み出すつもりはない。だが、問題は周囲とのこの圧倒的な差異がもたらした快感である。同質性が支配する関連においては、わずかな差異は誤りであるかの如く扱われ、矯正される宿命にあるだろう。だが、圧倒的な差異は?

 居酒屋で、隣のオヤジたちがこんな話をしていた。

「馬鹿が半ズボンで職場に来やがった。明日の朝礼でしめる」

 半ズボンか…惜しかったな青年よ。半ズボンでは、少し半端なんだよ。

 明日は..宇宙服で行くと良い。きっと誰も目を合わせてくれなくなる。小言もなしだ。自由気ままに、伸び伸び働けるさ。でもいいかい、宇宙服で働くからにはその差異を納得させる何かがなくちゃいけないんだ、それは詭弁でいい。だが、自己弁護の理論武装だけは忘れるなよ。そうしないと、明後日の朝礼でクビになるから。

 さあ、それでも君は宇宙服で出勤するか?
僕はする。その禁断の楽しさを知ってしまっているから。

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