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映画『水平線』と「あいまいな日本の私」

ピエール瀧主演の映画『水平線』を観ました。小さな映画館の殊の外小さなスクリーンながら、ぎっしり満席。希望の光も感じさせつつ、深く重い何かを観客に投げかける作品です。
感想を文字にしてみて、いつもの「です・ます」体だと違和感があるので、「である」体にしました。
以下、ネタばれあり、です。




<あらすじ>
主人公の井口真吾は、福島県の港町で娘の奈生と2人暮らし。妻のゆかりは東日本大震災で津波にさらわれ、遺体は見つかっていない。ゆかりの死が目に見える形で確定していないが故に、「喪失」というより「不在」を抱えて暮らしてきた親子。真吾は、生活困窮者や高齢者を相手に、格安で海への散骨を請け負っている。まるで見つからない妻の遺骨の代わりに他人の遺骨を撒くかのように。一方、娘の奈生は、母の死を消化できないまま、父との生活上の雑事と、水産加工会社での仕事を一見淡々とこなしている。
ある日、真吾は兄の遺骨を撒いてほしいという若い男の依頼を受ける。埋葬許可証も持ってきておらず、その兄弟には何やら事情がありそうに見受けられた。
くだんの遺骨は、10年余り前に起きた通り魔殺人の犯人のものだった。真吾のもとに東京からジャーナリスト・江田がやってくる。江田は、震災犠牲者が眠る海に殺人犯の骨を撒くつもりかと真吾に詰め寄る。更に事件の被害者遺族に無理矢理引き合わせ、センセーショナルに仕立てた動画をSNSに流す等、執拗につきまとう。奈生もこの散骨に強く反対していた。「お母さんの骨が欲しい。ほんのひとかけらだけでも…」と、心情を初めて吐露して家を出ていく。
真吾は散骨に踏み切るのか。奈生、そして風評被害等を気にして散骨に反対する漁業者たちとの関係はどうなるのか…。

小林且弥監督によると、本作の骨組みは「福島を舞台にした、不在を抱えた男の再生の物語」
主人公の真吾は娘への接し方が不器用で、酒が大好き。どちらかと言うと、色々だらしない。だが仕事には真摯に取り組んでいる。
そうした人物像を、ピエール瀧の達者なアドリブ(娘の友人との玄関先での軽妙なやり取りや、酔って帰宅し、上がりかまちに座り込んで足で引き戸を閉める仕草など)も生かしつつ、丁寧に映像を積み重ねて描写する。
散骨を巡る騒動と親子の葛藤を二本柱として物語は展開するが、最終的に、分かりやすい「答え」は提示されない。
「すっきり問題解決」、「ハッピーエンド」とはいかないのだ。現実と同じように。

真吾役のピエール瀧は、取材で次のように話している。
「不在のままのものとの決別、成長して離れていく娘との決別もある。さらに散骨は『ここに行けば骨(墓)があって会える』という因習との決別でもある。ここまで考えて腑に落ちた。(中略)小林監督と話すうちに、登場人物は、必ずしも前に進むわけではなくても、それぞれの状況と決別する。そこから感じたり見えてきたりするものがあると考えた」

もう少し、取材での監督とピエール瀧の言葉を紹介したい。
小林監督
「福島にいる人たちの中にもいろいろな考え方がある。それに対して、『福島って、こう』といったように一くくりにしようとするから、乖離が生まれる。これは福島だけの問題ではなく、SNSというツールを含めた現在の社会構造自体が関係していると思う」
ピエール瀧
「小林君がSNSのことに触れましたが、今は、何かすごく尖ったものとか、二極化したようなものにしか場所がないように(多くの人が)錯覚してますけれども、そうじゃないと思う。その中間というか、中間でもない別次元、別ベクトルにあるようなものが実は大事な気がする。(中略)『普通』の尊さのようなものが随所にちりばめられた映画なのかな、と思うんです」

実はこの映画を見終えたとき、私の頭に浮かんだキーワードが「あいまいな日本の私」だった。作家・大江健三郎のノーベル文学賞受賞時のスピーチのタイトルとして、有名になった言葉である。
近現代の日本人には、対人関係(対組織もそうかも)を支配関係で捉えがちな傾向があると、私は常々考えている。上下・優劣に始まって、貧富とか、敵か味方かとか、身内・仲間内か「あっちの人」かとか。
近年とみに、拙速で安易な分断と類型化が顕著だと感じる。
本作は、そんな日本社会に対するアンチ・テーゼとして
「上から目線で決めつけないことの大切さ」
「機微を掬い取ることのできる余白」
「『あいまい』とか『寄る辺なさ』に耐えうる、精神の強靭さ」

を提示しているのではないか。
そんなことを強く思った。


印象的だったセリフも記録しておこう。

これも取材時、監督とピエール瀧は「震災を描きたかったわけではない」と口を揃えている。
さらに監督はこう語る。
「(映画作りの過程で)福島に関わる中で、考えが変わっていった。『風化していい』と驚くほど多くの人が口にしていた。福島の人たちは、見えない線の上を歩かされてきたように思う。マスメディアも含め、日本全体が福島とそこに暮らす人たちをカテゴライズしてきた。もうやめてくれということではないか」
ピエール瀧も続ける。
「忘れてはいけない教訓は絶対にある」とした上で「震災直後からずっと、ニュース映像を見せられた人たちが『かわいそう』とか『助けられなくて、ごめんなさい』という意識を持って福島に行き人々と接した部分はあったと思う。哀れみや罪悪感ではなく、普通に交流することに繋がるのなら、風化すべきだと実感した」。

そんな二人の想いが結実したセリフがある。
「被災者の代弁をしている」と大上段に構え、正義漢ぶるジャーナリスト・江田に、真吾が言い放つ。
「あんたの言う風化だったら、風化しちまえばいい」

もう一つ、心に残ったセリフは、奈生の友人が彼女にかけた言葉。
「傷つけられてんのに、(自分で自分を)傷つけてどうすんの?(中略)
 もっと自分を大切にしなよ」


「ふらっと見に来てもらって、(作中のあれこれに思いを巡らせて)帰りの歩みの速度がちょっと遅くなるっていうのが、作った僕らとしては一番うれしい反応かもしれないです」
というピエール瀧の言葉をかみしめながら、映画鑑賞後の心持ちを言語化してみた。

最後に…
要所要所でカメラが捉える、ピエール瀧の「背中」の大きさが、『水平線』というタイトルに繋がっているのだろうな。


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