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親切の押し売りはもうしない

今朝ふいに、私は自分がやってほしいことを相手に押し付けて、親切のつもりでいたことに気がついて寒気がした。親切の押し売りというやつで、ちょっとならいいけれど、断る側にもエネルギーを使わせてしまう迷惑極まりないやつだ。

理由なんてなく、そういう気分じゃないということってあると思う。
自分で対処できるから別にいいや、ってただ後回しにしているだけのこともある。

私自身、全然求めていないのに母から世話を焼かれて、素直に喜べずむしろ不快な気分になったことが何度もあった。
それなのに、そのやり方しか知らないからついつい自分も同じことをしてしまっていた。

勝手にやったこと、しかも押し付けたことに対して見返りがほしいというのはあまりにも傲慢で我がまなな考えだったなと恥ずかしくなる。
頼まれてやったらならまだしも、勝手にやっただけなのだ。
おせっかいといえばまだ可愛げがあるが、とにかくやりすぎていた。

裏を返せば、その方が自分に都合がよかったからだ。
何もしないとか、気が利かないことをコンプレックスに感じているからこそ、ちょっとしたことに気配りできる自分でいたかった、というのもある。
でも、私の場合方向性を大きく外していたようだ。

体力とかスピード感とか、そういうものが多分人よりもちょっとだけ多くて早い。だから自分の思う普通でやろうとすると、周囲とずれてしまうことが多々あった。もちろん世の中にはメリットとデメリットがあるので、センター試験で時間があまるとか、あれこれ詰め込んでギリギリのタイムスケジュールで生活しても間に合うとか、そういう良さはあった。

けれど、周囲にそれを求めるのは酷で、さらに私が全部請け負うからと相手のできることを奪ってしまうのはデメリットの部分だったなと思う。
できる人がやればいい、というのは出来たかもしれない人の機会を奪うことにもなる。分かっているのに、自分のペースで動こうとすると余計な手を出してしまっていた。根本はここが大きい。

私のペースと皆のペースは違う。
自分に合わせてもらう、というのはほぼ不可能であることも認めなければいけない。

付き合いの長い友人らと心地よく過ごせるのは、こういうところがお互いにわかり合っているからだろうと思う。それぞれ好きに過ごせるからこそ、変に気を遣う必要がなく、自然体で過ごせる。
こういう感じが、ちょうどいい距離感なんだなぁとご飯を食べながら実感した。身近な人ほど、その距離を維持するのは難しいかもしれないけれど、試してみる価値はあると思う。

少なくとも親切の押し売りをやめることくらいはすぐにできる。
意識して、本当にそれは相手が求めているのかということを自問自答してから、基本的に頼まれたこと以外はやらない、くらいでちょうどいいかもしれない。

おせっかいかつ都合の良い存在にならないために、ここは踏ん張りどころだ。

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