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<短編小説>恋はいつも記憶の中からやってくる


Kには不思議な癖があった。
いや、誰にでもあることなのかもしれない。
それは現実に起きていないことが記憶の中に鮮明に残るのだ。
今日は海に行き潮風にあたり連れの女と海辺を散歩して帰ってきて、風の心地よさも女との会話の内容もまた女の感触もはっきりと記憶の中に残っているのに、実際はどこにも出かけてなどいない。白日夢でも見ていたのか。
いや今日は一日仕事で外を歩き回っていたから昼寝などする時間はない。
夜、家に帰ってきて今日1日を振り返り、海辺で過ごしたあの女との楽しかった時間を反芻していても事実として海など行っていない、というわけだ。こんなことがたびたび起こる。
ひょっとしたら夢と現実の区別がつかない自分はおかしいんじゃないかと思う時もあるが、いつしかそんなことも忘れてしばらくたっているうちにまたそんなことが起こるというわけだ。
世の中には起きたまま夢を見る人はいるらしい。夢は横になって眠っている時だけに見るとは限らないのだ。
最近はこの空想癖のようなものを楽しむようになり、それが現実であろうと空想の世界であろうと今日あったであろう出来事を素直に楽しむようになった。
なにしろ全く予想もつかないことが突然記憶に刻まれるわけだが、それは悪いことではなく楽しいことの方が多いのでそのままにしている。
誰しも似たようなことはあるのかもしれないがKにとって秘密の楽しみなのだ。

フロイトの研究によれば人間には、自我を認識している「意識」と、普段はその存在を把握できない「無意識」が存在しているらしい。
そして、無意識が意識に比べて記憶を豊富に蓄積していると考え、無意識の働きを重要視し、無意識下で抑圧された感情が原因となり場合によってはヒステリーなど精神疾患を引き起こすこともあると言った。
人間には、自我を認識している「意識」と、普段はその存在を把握できない「無意識」が存在しているらしい。Kは「空想と現実の区別がつかない」で検索をかけてみた。


普段の生活の中で、現実と非現実の区別が曖昧になることは、「寝ぼけ」や「空耳」といった体験であれば、多くの人が経験していることと思います。本来そこにないはずのものが見えたり、聞こえないはずの声が聞こえるだけでは、病気とは言えませんが、これら状態が頻繁に起こったり、本当でない事を真実だと固く信じてしまう程であれば日常生活に何らかの支障が出てくると思われます。 このような症状が出る病気としては「統合失調症」がその代表です。「幻覚や幻聴が頻繁に起こり、『自宅に盗聴器がしかけられている』」などのような、被害妄想的な症状が出やすくなります。

「統合失調症」って、なに?

統合失調症?病気?
近年では何かと人を病気にしたがる傾向があるがそれは個性なんだよ。
そしてそれらは密かに楽しむものでもあるんだ。
ネットで調べるとだいたいその結果に失望することが多い。
Kは密かな楽しみを否定されるような気がしてやめた。

良く晴れた朝、大広間を横切って帰る。多分遊郭からの帰り。


Kは子供の頃、ある夢を何年も見続けた。
日差しが差し込む良く晴れたある日の朝、広い大広間を横切って玄関のほうにそそくさと歩いている自分がいる。どうやら昨夜この旅館に泊まってその帰りのようだ。
この大広間の向こうには割腹の良い番頭さんのような人がにこにこ笑いながらこちらを見て挨拶している。彼らにとってKはお客さんのような存在なのだろう。昨晩は6畳ほどの和室で着物姿の女と会話していたはずだ。話の内容は覚えていないが取り留めのない話をしたはずだ。
パッチリとした大きな瞳と肩までかかる美しい髪、女の着物の手触り、香りなどもはっきりと覚えている。少し勝気なところはあるが優しかった。
朝、夢から覚め現実の世界に戻ると、懐かしさとこの上ない幸福感が一緒になった不思議な気持ちに包まれた。
これはKがまだ小学生の頃の話だ。当然遊郭のことなど知らない。
この和室での出来事、そして朝、大広間を通って帰るという夢を何度もみたものだ。
あるスピリチュアル系の人(この類の人は大抵物事を筋道をたてて話すのが苦手だが感性はするどいようだ)は過去生の記憶だと言い遊郭で過ごした前世の記憶なのだろうと宣った。
あるカラオケが大好きだという元自然科学科学総合研究所の職員だという人は(この類の人は大抵頭が良いし論文のような筋道を立てて文章を書くのは上手いが音楽や映画、アートには関心がなく、普段は知的だが酒を飲むとやけに弾ける人が多い)、「あなたの先祖の記憶がDNAを伝ってそういう夢を見るのだ」と宣った。そうかもしれない。DNAについてそんなに詳しくはないが、その元職員の断定的な口ぶりになんとなく納得させられてしまった。納得はできるがストーリーとしては神秘性がなくあまり面白くないな、と思った。酒の席でこんなことを話しても誰も聞かないような話だ。
やがて月日が経ちいつしかそんな夢をみることもなくなった。

Sちゃんとの思い出

これもずいぶん昔の話、そう幼稚園の頃の話だからもう半世紀前のことだ。
Kはとても引っ込み思案だった。もっとも幼稚園生で自信満々なやつなどいないだろうが、とにかく内向的だったわけだ。
ある日クラスの席替えをすることになった。
「女の子が好きな男の子の隣の席を選ぶことにします!」
女の先生は微笑みながら声も高らかに言った。まるで子供たちの淡い恋愛、女の子がどの男の子が好きなのか見て楽しみたいのよ、と言うようにだ。
当時4〜5歳だったKは焦った。
「多分ぼくの席の隣に座りたい子なんているはずがない、ぼくの隣を選ぶ子なんていない、、、どうしよう」
俯きながら心の中で呟きながら下を向いていた。
すると誰かの気配がし少し顔を上げてみるとずっとかわいいと思っていたSちゃんが脇目も振らず真っ直ぐにぼくのもとに向かってきてこう言った。
「ここ坐るね」
ぼくの隣に座りたいと言って来てくれたのがSちゃんだとは、、、ほっとしたのと信じられない気持だった。だけどとても幸せだった。
この時のことは今でも忘れることができないほど嬉しかった。
Sちゃんは品の良いセミロングの髪とパッチリとした大きな瞳が可愛く、少し勝ち気だったが優しくて話していると楽しかった。二人は毎日たくさん話しお弁当を食べる時も昼休みも放課後もいつも一緒にいた。いつまでもいつまでもお喋りしていたいと思った。ずっと一緒にいたかった。
そのうちKの家の近くに新しい幼稚園ができてそちらに転園することになった。
「Sちゃん、ぼくは今度近くの幼稚園に転園することになったんだ。」と言ったかどうかは忘れたがそれに近いニュアンスで話したはずだ。とても悲しそうに。
そう、本当に悲しかったんだ。
「ふーん」Sちゃんは特に残念がる風でもなく言った。
そして二人は離れ離れになった。同じ市内だったから一緒に遊ぼうと思えば遊べたのかもしれないが、小学校に上がる前の男の子と女の子にとっては別の惑星に行くほどの距離がありもう二度と会って遊ぶこともなくなった。
Sちゃんとの思い出は記憶の中から遠ざかっていき、そして消えていった。

いつか見た記憶

Kは学校を卒業しある企業に就職した。
時代はバブル期の1980年代、世の中は好景気に沸き立ち日本の歴史上最も華やいだ時期だったのかもしれない。
連日夜遅くまで仕事をし夜は22時前に終わるということはなかった。
残業しない日などなかったし平日に遊びの予定を入れるなど考えられなかった時代だ。
日経平均株価が38,957円の史上最高値を記録しその上昇と比例するが如く当時の若い女の態度は大きくなり、ディスコ(今で言うクラブ)で連日夜遅くまで踊りまくった。
男友達を奴隷のように扱い電車がなくなっても車で送ってくれる下僕のような男がいたのだ。
ビジネス始めればすべてうまくいく嘘のような時代、昼は営業で外回り、夜は実務作業に没頭し先輩社員より先に帰ることなど考えられなかった。
クライアントとの接待も頻繁にあり華やかなキャバクラ、クラブに行く機会も多かった。
Kも社会の荒波に揉まれ24時間働ける立派な企業戦士になった。
このバブル時期は文字通り泡のように消えていきその痛すぎる代償としていくつもの大企業が潰れていったわけだが。

ある夜クライアントと銀座のクラブに連れていかれた時だ。
本来Kはこのような類の店は嫌いだった。何が楽しいんだか全くわからなかった。
以前連れていかれた外国人パブなどでは客の男は常にホステスのご機嫌をとりつつつまらないJokeを飛ばし(最悪な場合下ネタに走る奴もいる)最後はフリージャズのような超不協和音の音程で昭和の歌を歌いまくるのだ。そんなどうしようもない男をわざとらしい拍手で盛り上げる女。心の中では軽蔑しまくっているということを悟られないようなプロの技術を使いながら。ああ、これも仕事のうちなんだなと思った。
だがこの日行ったのはそんな所とは全く違う、いわゆる銀座の一流と呼ばれているクラブだった。
インテリアひとつをとっても上品でセンスの良さが伺え、ママもホステスも常に周りに気を使いその場が楽しくなるように振る舞う。
客も多分企業のトップとか、芸能界などその世界では名の知れた男たちなのだろうが、仕事のストレスを解消するための現実逃避をする酒でもなく、つまり綺麗に酒を飲む。
Kの横についてくれて一緒に話したホステスはパッチリとした瞳のやさしい人だった。聞き役に徹し余計なことは言わず、話が途切れてもそのスペースが気にならない。休符は終わりではないのだ。
「酒席では人間性が垣間見える」とは良く言ったものでその場にいる全ての人が楽しめるような気遣いがこの女性にはある。とりとめのない話ばかりだがこの人が話すと楽しい話になる。一流の演奏家のライブを聴いているようにだ。
当時20代だったKにとって身体の奥にずっと眠っていた記憶が呼び起こされる様な感覚だった。

再会

良い酒は翌日も全く残らない。
むしろ普段より調子がいい。
その日は朝から重要な会議があったがメンタルも体調も良かったせいかずいぶん早く会社に行き会議室に入ってコーヒーを飲みながら資料に目を通していた。
その時うららかな朝の日差しが差し込む会議室に誰かが静かに入って来た。
こんなに朝早く誰だろうと顔を上げてみると同期に入社したS美だった。
彼女は目がパッチリとしていて上品な服装とセミロングの髪の美人の部類にはいる女だ。
お互い良く話す仲でもなかったしKが遠くから見ていただけの同僚だったが不思議なことにこの時S美の顔に見ていると記憶の中から懐かしい、それでいて仄かで淡い思いが蘇ってきた。
S美は微笑みながらKの横に歩いてきて言った。
「ここ坐るね」


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