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京都にはユダヤの痕跡が点在していた⁉︎

京都の祇園祭の山車のタペストリーには、ユダヤ教の経典『トラーの巻』の一節3.『いさくに水を供するリベカ』の絵が描かれているのをご存知でしょうか?(ベルギー製 1718年に寄贈)

このことを知ってから、京都とユダヤの間には何かしらつながりがあるのではないかと思っていました。

そもそも『ユダヤ人』とはとはどういった人なのでしょうか?

そんな中、古本屋さんで坂東誠さんの著書『ユダヤ人渡来伝説地図』に遭遇しました!!

著書では、3000年以上前に書かれた教典『タナフ』に登場する『イスラエル人』のことと書かれています。

『ユダヤ人』の祖国『古代イスラエル王国』は、紀元前1000年頃実在し『12部族』で構成されていました。

三代目の王の死後、『古代イスラエル王国』は分裂し、10部族の『北イスラエル王国』と、2部族の『南ユダ王国』に分かれてしまいました。

その後『北イスラエル王国』は、アッシリアに征服され、10部族の人々は捕虜として連れ去られた後、歴史から姿を消したと言われています。(『南ユダ王国』の2部族もローマ帝国により離散させられたとも...)

こうした『ユダヤ人』の一部が、シルクロードを経て、日本にやってきたと言われているのです。

5世紀の中頃、日本に渡来した人々の中に『秦氏(はたし)』と呼ばれる人がいました。

『秦氏』は、ユダヤ系景教徒(キリスト教のネストリウス派)と言われ、キリスト教とともに、養蚕技術を筆頭に、様々な技術や知識をもたらしたと言われています。

それらを示す痕跡が、京都の『太秦(うずまさ)』を中心に、日本各地で見ることが出来るというので、出向いてきました^^

まずは如来菩薩像がある『広隆寺』ですが、なんと『五芒星』が掲げられていました!!

「イエス・キリスト」の誕生を告げた、ベツレヘムの夜空に輝いた星は、
五角形であったとされていそうです。

やがて、この正五角形の内側の角を結んだ対角線が用いられるようになったとか。

五芒星の一つの角が上を向くように描かれた場合には「神」を表し、角を下にして描かれた場合には悪魔「サタン」を表すとされ、対照的な意味があるとも。。。。

広隆寺の五芒星

さらに、モーゼの十戒に似た『十善戒』というものもありました!!

『十善戒』

極めつけは、聖徳太子に強く影響を与えた人物とされる『秦河勝(はたのかわかつ)』夫妻の像が展示されていたことです!!

次は、『北イスラエル王国』の王を祀ったとされる『大酒神社』に出向きました。

『大酒神社』

こちらは『機織りと楽器の演奏、そして舞を舞う神様』と書かれているのですが、それは聖書に書かれている『古代ユダヤのダビデ王』を表していると言われています。

そして『木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社』

こちらは秦氏が、養蚕、織物、染色の守護神である萬機姫(よろずのはたひめ)を祀ったことから『蚕ノ社(かいこのやしろ)』とも呼ばれています。

境内には『三本柱の鳥居』があり、キリスト教の『三位一体』を表しているとも言われています。

『三本柱の鳥居』

その手前には、『元糺の池(もとただすのいけ)』と呼ばれる池があり、そこにはかつて清らかな水が湧き、沐浴(もくよく)をした場所なのだとか...(今は水すら入っていません...😢)

それはユダヤ教の清めの場所『ミクべ』に似ているとも言われています。(ミクべ=身を清めるための清水の風呂場。)

最後は、秦氏一族の首長を葬った墓と言われる『蛇塚古墳』です!!

『蛇塚古墳』

元は全長75メートルの前方後円墳だったそうですが、現在は巨大な横穴式石室のみが閑静な住宅街の中に残っています。

これらの痕跡だけでも秦氏一族が日本に渡来し、大きな力を持った一族であったことが容易に想像できます。

ちなみに、『ヤマト』『ヤサカ』『わっしょい』等、ヘブライ語が由来ではないかと言われる日本語が多いのも痕跡の一つではないでしょうか。

タルタリア時代の日本の国旗が、イスラエルのような『青白青』だったのも気になるところです^^

(イスラエルの国旗には六芒星...)

いずれにしましても『ユダヤ人渡来伝説地図』は情報がてんこ盛りでした。

京都のみならず、徳島の剣山など、全国のユダヤの痕跡をも訪れてみたくなりました^^

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