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アントレプレナーシップとはなにか

この4ヶ月ほどで、アントレプレナーシップという言葉と3回出会いました。

最初は教育関係の資格として耳にしました。日本ではまだあまりたくさんの人が持っているわけではない資格で、最悪これをとっとけば餓死はしなさそうだな、と思いました。

2回目は大学で。あるプロジェクトの奨学生として受けなければならない講義があったのですが、その講義のタイトルとしてこの言葉と再会しました。

そして、3回目はアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの共著『アセンブリ』で。3回も出会えば、それは運命です。

○アントレプレナーシップとはなにか

アントレプレナーシップ(entrepreneurship)は、「起業家精神」と訳されます。あくまで「精神」なので、実際に起業家である必要はありません。だいたいのニュアンスとしては、起業家のように世の中にイノベーションを起こし、価値を提供するように積極的な精神、というくらいで使われている印象です。

ビジネスの現場で重視されてきたことはもちろんですが、近年では大学でもよく聞く言葉です。たとえば武蔵野大学にはアントレプレナーシップ学部というものが存在します。HPの学科紹介から、どのような学部なのか引用してみましょう。

起業家精神(アントレプレナーシップ)をもって、新たな価値を創造できる実践的な能⼒を育成するため、1年次から武蔵野INITIALで教養、データAI/活⽤及びプログラミングの知識を育み、専⾨科⽬では、『マインド』『事業推進』『実践』をカリキュラムの3本柱として、『マインド科⽬』『事業推進科⽬』『実践科⽬』『ゼミナール科⽬』からなる授業科⽬区分により、事業推進スキル、領域別専⾨知識、アントレプレナーシップ(起業家精神)、思考⼒(論理的思考・創造的思考⼒)、意思決定⼒、課題解決⼒、PDCA⼒、コミュニケーション⼒/マネジメント⼒などで教育課程を編成する。また、授業の実施にあたっては専⾨科⽬では、座学だけの授業は⾏わず、グループ学習、事例研究、対話、ゲスト起業家との対話等、双⽅向に学ぶアクティブラーニングスタイルにより、新たな価値を創造できる実践的な能⼒という学位授与⽅針に定める能⼒・知識を養う。

https://www.musashino-u.ac.jp/academics/faculty/entrepreneurship/entrepreneurship/policy.html

実際に授業を受けたわけではありませんが、この紹介から従来の文学部や経済学部よりもより実践的な職業人を育てようという意図の学部であることがわかります。こうした流れは武蔵野大学だけではありません。早稲田大学や神戸大学にも「アントレプレナーシップセンター」が存在し、それぞれ教育プログラムの提供などを行っています。

産業界からの「即戦力」要請によって、大学がビジネスに直接つながるような講義を開講することの重要性は高まっています。そうした流れの中で、新しい学部ができたり機関ができたりしているというわけです。

こう書くと就活を見据えた大学生以上に関わる話のように聞こえますが、たとえば兵庫県では齋藤元彦知事肝いりで中高生向けのアントレプレナーシップ講座のようなものを開講しています。米国では幼少期から投資家精神・起業家精神を学ぶという話もありますが、日本でもそれに追いつけ追いこせでこうした教育が始まっているということでしょうか。

○アントレプレナーシップと新自由主義

このアントレプレナーシップですが、非常に新自由主義と相性がいいものです。ご飯と焼肉くらい合います。念のため、雑に説明しておけば、新自由主義=ネオリベラリズムとは弱肉強食の競争社会のことです。

起業家とはどのような人物か、会社に勤める人間と比較しながら想像してみましょう。サラリーマンは会社から命じられた仕事をこなすことで給料を得ます。一方起業家は、自分で事業内容を考え、自分で金銭を稼ぎます。また、サラリーマンは仕事で失敗しても会社から怒られるだけで失敗自体はなんだかんだ企業全体のやりくりのなかで精算されプラスマイナスが調整されるかと思うのですが、起業家なら自分の失敗は自分で処理しなくてはなりません。その代わり成功も大部分自分の成功になります。

つまりアントレプレナーシップ=起業家精神とは、「自分の力で生き抜いていく精神」とも言えるのです。要するに新自由主義=ネオリベ的な精神です。いやいや、ひとりではなくチームで起業することも多いですよ、とかそういう話ではありません。たとえ5人のチームで起業したとしても、結局あるコミュニティではなく、自分たちが立ち上げた企業という「個」で勝ち抜いていこうという精神自体がネオリベラリズム的なものなのです。

だからたとえば、こんな記事も一部では書かれています。

さらにこうした起業家精神は、権力にとって都合のいいものです。なぜならそれぞれの個人が自分の人生という起業を管理する起業家だという考え方が浸透するからです。たとえば健康状態の悪化は「私」という企業の業績悪化としてとらえられ、「私」によってその解決が目指されます。「私」という企業の業績を維持するために、人々は自分で自分を管理し、鍛え上げていきます。何も命令しなくても、勝手に。

要するにアントレプレナーシップとは自己啓発的な精神だということです。「自分への投資が一番の投資だ」という自己啓発本にありがちな文言は、「私」という企業の運営者も投資家も「私」であり、その「私」をうまく操縦することでいい人生を送りましょうという、新自由主義のお手本のような考え方を示しています。

木澤佐登志は『失われた未来を求めて』という書籍で、心理学者デイビット・スマイルが提唱する「魔術的自立主義」という概念を紹介しつつ、自己啓発的な思考について批判的に言及しています。

そう、ここにはエンハンスメントへの、自己の(可塑性の)強化への欲望と幻想が根を張っている。そして、魔術的自立主義のもうひとつの裏面である「自己啓発」がプレゼンスを高めてくれるのも、またここを措いて他にない。

224ページ

木澤のまとめるところによれば、「魔術的自立主義」とは「自分の力だけが自分を変え、なりたい自分になることができる」という神秘的な信念のことです。こうした考え方が、自分の道を切り開くために自己研鑽に励むという自己啓発的な思考と相性がいいことは言うまでもありません。

しかしそうした発想は、自分が成功できないのは(生まれた家や社会環境の格差によるものではなく)自分の力が足りないせいだという「再帰的無能感」にも結びつきます。したがって、自己啓発的な思想とうつ病は裏表の関係にあります。となれば、自己啓発的な精神と言えるアントレプレナーシップも、うつ病を招く発想法であるということになります。これがアントレプレナーシップの負の面です。

ここから木澤は自身の可塑性ではなく世界の可塑性について考えるという道を示していきます。『失われた未来を求めて』はいろいろと刺激的な著作で紹介したい議論が数多く含まれているのですが、木澤の書籍はまた別の機会にじっくり読むことにして、ここではアントレプレナーシップという主題に沿いつつ『アセンブリ』の話に移りましょう。

○アントレプレナーシップの簒奪

ネグリとハートの共著と言えばまず『〈帝国〉』が思い浮かびますが、2022年に『〈帝国〉』の問題意識を引き継いだ『アセンブリ』も邦訳されました。自分はジュディス・バトラーの『アセンブリ』について記事を書いたことがあるので、ちょい高いなと思いつつも(5000円くらい)ネグリ+ハートの『アセンブリ』を購入しました。

さて、このネグリ+ハートの『アセンブリ』では、アントレプレナーシップがひとつのキーワードとなっています。本書ではどのようにこの言葉を使っているのでしょうか。

実際、政治思想の中心的な任務の一つは概念をめぐって闘争すること、すなわち、概念の意味を明らかにしたり変容させたりすることだ。起業家活動は、社会的生産におけるマルチチュードの協働形態と、政治的な見地から見たマルチチュードの集会=合議体(アセンブリ)とをつなぐ蝶番としての役割を果たすのである。

p9

『アセンブリ』の中身については、また別の記事でじっくり考えることにして、ここではひとまず、『アセンブリ』における「アントレプレナーシップ」の役割にだけ注目します。

『アセンブリ』では新自由主義的な「帝国」(現代的な権力・暴力のシステムみたいなもの)に対する抵抗ということが言われているのですが、そこで掲げられるのがアントレプレナーシップという概念の簒奪なのです。敵の武器を使って敵を倒そう、ということですね。

なんでわざわざ相手の武器を使うんだというと、「帝国」という強いやつが使っている武器はその分強いからです(ホントはマルチチュードと「帝国」の相補性という点からも考えなくちゃいけませんが、割愛)。たとえば先述したように、アントレプレナーシップは中高生から教えられ始めています。ということは、人々が抵抗の道具としてアントレプレナーシップを使う場合、新しく勉強しなくてもそれをすんなり活用できる。強者の武器を奪うことには、こんなメリットがあるわけです。

先ほどは新自由主義とのつながりでアントレプレナーシップの、いわば負の面を見てきたわけですが、これも一つの道具。使いようによってさまざまな顔を見せるのです。

『アセンブリ』では、アントレプレナーシップを抵抗勢力の組織化に転用することが提案されています。「レジスタンス」という「企業」を設立・運営しようというイメージですね。

あるいは、研究にも使えるかもしれません。研究者ひとりひとりは独立した起業家のようなものとして考えることができます。事業の方針にそって、事業計画=研究計画を練り、外部資金を集める。そっくりではないでしょうか。だとすれば、アントレプレナーシップに関して言われていることは研究者もイイとこ取りできるわけです。

こういうところに、ある概念をめぐるさまざまな陣営の引っ張り合い、力学のようなものがある。そこをしっかり見ていきたいところです。

○ベタとアイロニーのあいだ

おそらくアントレプレナーシップという言葉は今後ますます、さまざまなところで聞くようになるでしょう。例に挙げた武蔵野大学や早稲田大学以外でもこの言葉を関した授業が増えてくるでしょうし、兵庫県以外でも中高の教育にアントレプレナーシップが入ってくるでしょう。

それに単純にノる前に、まずは一歩立ち止まりたいところです。木澤が指摘しているように、新自由主義の弊害は大きく、アントレプレナーシップの考え方が広まればその弊害はますます拡大するかもしれません。

しかし、単純に批判するのも考えものでしょう。先述したように、アントレプレナーシップには新自由主義的でない使い方も考えられるからです。

そこで改めてアントレプレナーシップに戻ってきましょう。ぴったりくっついてしまうのではなく、でもまったく離れてしまうのではなく。ちょっと離れたところから概念をなでまわしてみましょう。他者の言葉をそのまま受け取るのではなく、自分用に作り変えるのです。

案外そのようにして自分の力で言葉に立ち向かっていく精神が、アントレプレナーシップなのかもしれません。

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