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詩の授業ってどうするの:島崎藤村「小諸なる古城のほとり」

国語の教科書にちょくちょく載っていて、1年に1回くらいは扱うことになる「詩」の教材。受験ではめったに出ない分野ですが、全くやらないという選択肢もとりにくい。

国語の先生とはいえ、多くの人が小説を読む訓練は受けていても詩を読む練習はあまりしたことがないのではないでしょうか。詩の授業、なにを教えたらいいか困りませんか?「詩はわからなくていい。言葉を味わうだけでいいのだ!」なんて割り切れませんよね。

私は中高の国語の先生ではありませんが、近代詩を専門として研究しており、人より多少長く詩を読む修行を積んでいます。というわけでこの記事では授業案……とまではいかなくとも、詩の読解・教授に際して「このへんがポイントになるんじゃないか」というところを示してみたいと思います。

前回中学校1年生の教材を取り上げたので、今回は高校教材で行きましょう。島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」です。



◯まず前提知識をおさえたい

詩を授業する上で、最低限生徒に知ってほしい知識があります。「連」の概念と、口語詩/文語詩・自由詩/定型詩の区別です。

連分けについては中学校で習っているはずですが、詩の授業は少ないのでたぶん忘れています。授業中に「第一連から読もう」などと指示するためにも、「連」概念は最初に押さえておきたいです。

詩を読むなら、形式面も大切です。この詩は文語で書かれている定型詩、つまり文語定型詩。現代詩にはほとんどない型式ですが、百人一首などで和歌になじんでいる生徒たちには、実はおなじみの形かもしれません。ちなみに、明治の詩の主流は文語定型詩です(大正以降では口語自由詩)。

また、作者情報や詩集の情報も基本情報として大事です。中高で文学史の授業がなく、たぶん『破戒』がもう教科書に載らなさそうということを考えると、明治期の代表的作家島崎藤村を紹介できるのは詩の授業だけ!責任重大です。ちなみに「小諸なる古城のほとり」は藤村の有名な詩集『若菜集』(1897)ではなくて、第四詩集『落梅集』(1901)に載っています。

◯朗読しよう

詩を読むなら音の確認はやはり大事。まずは朗読しましょう。

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なすはこべは萌えず
若草も藉くによしなし
しろがねの衾の岡辺
日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど
野に満つる香も知らず
淺くのみ春は霞みて
麦の色わづかに青し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ

暮れ行けば淺間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む

「小諸なる古城のほとり」

読めばわかるように、五七調の詩です。数えたことないのでめっちゃ主観的なデータですが、たぶん七五調の詩の方が多いです。たとえばリズムのいいことで知られる中原中也の詩も、「サーカス」や「汚れつちまつた悲しみに……」「湖上」あたりの有名どころが七五調です。

詩を読むなら音韻にも注意しましょう。たとえば一行目は、「なる こじょのほとり」とO音がすごく多いです。ちょっと難易度は高いですが、ここは教員が言ってしまうよりも生徒に指摘してほしいポイントですね(自分で気づかないと面白くないので)。しかも五/七の切れ目で「こ」が出てくるので、一行目はすごくリズムがよくなっています。ひとつ気づければ、「他の行は?」「連ごとに違いはある?」など、さらなる問いにつなげていきやすいですね(ただし、実際に数えると詩中で一番多く登場する音はA音です)。

また、行数にも気を配っておきましょう。全18行のこの詩は、よく見ると各連に6行ずつ、6行✕3連で18行という綺麗な行の配分になっています。この◯行✕△連という形は多くの詩に見られるものです。詩を見たら行数と音数を数えるクセをつけていると、形式についていろいろ見えてくることがあるでしょう。

◯意味をとろう

詩を読む醍醐味は解釈の多様性、みたいな話もありますが、この詩の場合そもそも言葉遣いが難しいので、まずは文字通りの意味を追っていくところからスタートですね。辞書の使いどころなので、ここも教員があまり早く答えを示すべきではないと思います。

ただ、一般常識として知っていてほしい単語については、辞書を引く前に聞いてしまってもいいですね。たとえば「小諸」は地名でたぶん無理、「遊子」も漢語でたぶん無理ですが、三行目「萌える」あたりは知っておいてほしい単語です。また土地や草花については、ぜひ画像でも示してイメージの形成を助けたいところです。


はこべ

さて、意味調べをしつつ、まずは書いてある通りに詩の意味をとっていきます。注意しておきたいことは、ここがメインにならないようにすることです。もっと複雑な作品ならともかく、教科書に載っているような「小諸なる古城のほとり」とか「サーカス」とか「二十億光年の孤独」とかいった詩に「どういったことが書かれているか」といった話は、生徒からすればたぶん「ふーん」くらいのものなので、「発見」の喜びがない。詩の表面的な意味を押さえる作業はのちのちのより詳しい分析のための前提として、サクッと通り過ぎるとよいでしょう。もちろんこれは、クラスの国語力にもよりますが。

第一連では場所=「小諸なる古城のほとり」、人物=「遊子」(旅人)が一・二行目で登場します。わかりやすい構成の詩と言えますね。小諸にやって来たした旅人ですが、残念ながら春の緑はいまのところ見えません。まだ雪が残っているようで、淡雪が早春の日差しで溶けていく様子が見えるばかりです。

意味をとるだけの段階でそこまで触れるかは微妙ですが、「しろがね衾」という詩句は大切です。これはもちろん、一義的には「岡辺」にまだ雪が残っている様子を示したものですが、ここで「衾」という寝具が登場することは、緑やそれに象徴される春がまだ起き上がっていない=到来していないことをイメージさせるからです。雪が溶ける=寝具を払い除けることで、本当の春がやってくるのです。これは最終行の「草枕」とも対応した表現になっており、詩人の言葉選びの繊細さがうかがえます。

第二連でも、やはり春がやってきていないことが述べられています。一行目にあるように、「あたたかき光」はあります。それが「淡雪」を溶かしたのでしょうが、「野に満つる香も知らず」、麦がわずかに色づいているばかり。おそらくは麦が植えられている「畠」でしょうか、そこを他の旅人たちが通り過ぎていきます。

第三連でようやく時間が示されます。「暮れ行けば淺間も見えず」、薄暗くなってきているようです。ただし第二連で「あたたかき光」があったことを考えれば、第三連で時間の推移があったと解釈するのがよいでしょう(逆に言えば、旅人はそれなりに長い時間「小諸なる古城のほとり」にいたのでしょう)。事実、ここでは第一・二連であったような草花の色が描写されなくなり、代わりに「草笛」の音が登場します。視界がきかなくなってきているのです。

というわけで旅人は宿に帰り、酒を飲んで旅の疲れを癒やします。最終行にある「草枕」は、旅先での宿、休息のことを示す語。これも高校生なら知っておいてもいい言葉だと思います。夏目漱石の『草枕』が有名ですね。もちろん詩語としてもおなじみで、芭蕉や西行といった旅人詩人の歌にはしばしば登場しますね(芭蕉「いざともに穂麦喰はん草枕」とか)。

というわけで詩の内容を一言で言えば、「旅人が見た早春の風景」といったところでしょうか。こうした要約は文章の核をつかめていないとできませんから、ぜひ生徒に挑戦してもらいたいところです。詩は短いですから、一行での要約もしやすいですね。

◯問いをたてよう

ここから本格的に詩の解釈に入っていきたいところですが、このように風景を描いた場合、そのまま生徒に投げても「読みの多様性」のようなものは期待できそうにありません。「小諸の風景が書いてあるんですよね……?」としか言いようがないでしょう。

解釈と解釈をぶつけ合うようなディスカッションをするためには、なんらかの「問い」がほしい。自明なもの(に感じられるもの)に議論は起こりません。「『こころ』の先生はなぜ自殺したのか」「『山月記』の「尊大な羞恥心・臆病な自尊心」とはなにか」などなど、よくわからない部分を問いの形にして答えを考えていくプロセスの中で、「自分はこう思う」という議論の余地も生まれるわけです。

詩の読解が難しいのは、しばしば問いを立てるためのとっかかりがないからです。このとっかかりの部分は、教員が用意してあげたいところです。

詩の読解においてわかりやすいとっかかりは、「繰り返されている言葉・モチーフ・テーマを探すこと」です。生徒に問いかけてみましょう。「この詩の中で、どんな言葉やものごとが繰り返されていますか?」。

さまざまな答えが想定できますが、たぶん一番わかりやすい反復は「色」でしょう。第一連でいきなり、「雲白く遊子悲しむ/緑なすはこべは萌えず」と色が繰り返されるからです。このあとも、「しろがねの衾の岡辺」「麦の色わづかに青し」と色の描写が続きます。

さらにこの「色」は、大きく言ってふたつの属性にわかれています。わかりやすい方から行きましょう。「緑」「青」はなんの色か?これは植物の色ですよね。色が明示されていない箇所でも、「若草」「野」など緑を思わせるイメージが描かれています。そしてこの緑色は、これから来るはずの「春」の色でもあります。


AI生成の、野原に雪が積もった光景のイメージ。砂漠のように見えますね

一方「白」「しろがね」は、「淡雪」の銀色です。つまり春が未だ来ていないことを示す「冬」の色です。「雲白く~」は季節と関わりませんが、雲の白さが旅人を悲しませるという冒頭部は、旅人の寄る辺なさを示すというだけでなく、このあとの出てくる「雪」のイメージへの伏線として考えることができます。

これを図式化するとすれば、一方で冬のしろがね・白があり、一方で春の緑があります。そしてそのあいだに、来るべき春を予告する淡い緑、「青」があるのだと整理することができるでしょう。

あるいは、「旅」のイメージも頻出しますよね。「遊子」「旅人」「草枕」と、各連で「旅」が登場します。先に言ったように「雲」も空の旅人です。では、なぜこの詩のなかでは小諸の風景が旅のイメージとともに描かれるのでしょうか。これも答え甲斐のあるひとつの問いですから、教室で考えてみてもいいかと思います。

さて、ここまでの話がうまく運べば、生徒たちが議論ができる準備はひとまず整ったということにしてよいでしょう。あとは教員が解釈を示すというより、教材の本文=エビデンスをもとにして論理を構築するという作業自体の練習としてこの詩を使うのがよさそうです。

でも、「いろんな解釈があるよね」では生徒にとっても教員にとってもお腹が満たされない感じがあるでしょう。なにかごまかされたような気分になりそうです。オープン・クエスチョンと言えば聞こえはいいですが、それは「投げっぱなし」と表裏一体です。

ここからはもうちょっと踏み込んで、さらなる解釈に入っていきましょう。国語科の中でというよりも、ひとつの作品としてこの詩を分析するならば、どのような詩として読めるでしょうか。

◯「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」

先ほど示した「色」「旅」以外に、詩でわかりやすく繰り返されているものがあります。なにかわかりますか?

「否定」です。

・緑なすはこべは萌えず
・若草も藉くによしなし
・あたゝかき光はあれど
・野に満つる香も知らず
・暮れ行けば淺間も見えず

詩の三割ほどが、否定によって成り立っています。これはなにを意味するのでしょう。

この詩は、否定文を使うことで、まだ訪れていない春をイメージの水準で呼び出しているのです。「いまは冬だ」と言うのと、「まだ春が来ていない」と言うのとでは、情報としては同じでも、文の効果は大きく異なります。「緑なすはこべは萌えず」という文章を読んだ読者は、まず「緑なすはこべ」を思い浮かべ、「萌えず」でああそれはまだ無いんだ、といったんイメージしたものを消すことになります。それは、最初から「はこべ」がないのと全然違いますよね。だって「はこべが無い」と言われなければ、なにが無いのかイメージすることすらできないからです。

否定によってイメージ上で対象を浮かび上がらせるレトリックを、緩叙法と言います。ここで行われているのは、いわばレイヤーの重ね合わせです。旅人はまだ雪のつもった小諸の風景に、春の景色を期待し幻視しているのです。

この緩叙法を使ったポエムで有名なのは、藤原定家の次の和歌でしょう。

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

周知の通り、三夕の歌のひとつです。目の前にない「花」や「紅葉」を否定によって浮かび上がらせる、「小諸なる古城のほとり」と同じ効果を狙った修辞が使われています。

こうした表現を行うことが、映像では難しいことも覚えておきましょう。映画や絵画は、基本的にないものを映すことはできないからです。何もない「浦の苫屋の秋の夕暮れ」を映しても、花や紅葉がそこに「無い」ことを示すことはできませんよね。「無」を表象できることは文字表現の強みです。

でも、「なるほど定家の歌と藤村の詩は似ているのか」で終わってはいけませんよ。似ているものを見つけたら、比較して差異を見つけることです。そうすれば、「小諸なる古城のほとり」の特徴がよりよくわかるはずです。このふたつのポエムは、どのように異なっているでしょうか?

藤村の詩にあって定家の歌にないもの。それは季節のグラデーション性です。定家の和歌は秋なのに花や紅葉がない風景のさみしさを歌っています。一方藤村の詩は、冬から春へと季節が変わる、まさにその変わり目を描いているのです。

先ほど「色」について整理をしましたよね。白が冬、春が緑だとしても、この詩には「青」が描かれているわけです。「麦の色わづかに青し」。春はまだ完全には到来していないのですが、わづかに「青」という中間的な色として訪れています。他にも詩中には、「淡雪」「浅くのみ春は霞みて」など、グラデーション的に訪れている春が描かれています。

だとすれば、旅人のイメージが雲と結びつけられながら冒頭で示されることもよくわかりますね。ここで「旅」や「雲」は、「移ろいゆくもの」として登場しており、それが季節の移ろいと結びつけられているのです。季節は旅人。「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」といった発想が近いでしょうか。

詩中の旅人は、この季節の変わり目をじっくりと観察しています。彼あるいは彼女は、他の旅人が「畠中の道を急」いで通っていてもあせりません。このグラデーションの淡いにとどまることが、この詩における「遊子」の役割だからです

では、先に示した要約をこの理解に即して修正しましょう。この詩に描かれているのは、「旅人が見た冬から春へと移り変わる季節のグラデーション性」なのです。

◯まとめ

ながながと書いてきました。最後は端的にまとめましょう。詩の授業で大切だと僕が考えることは、以下の3つです。

①形式に注目すること
②問いにつながるヒントを提示すること、あるいは問いへのとっかかりへとうまく誘導すること
③「解釈の多様性」に逃げないこと

詩の授業でさまざまな読みが出てくることは当然ですし、歓迎すべきことです。でも、「いろいろな解釈が出てきて楽しかったね」では、生徒に「どのような読みが論理的に構築できるのか」という見本を示すことができません。

「学ぶ」は「まねぶ」という説もありますよね。教室で生徒にお手本を示すことが、教員の重要な役割のひとつではないでしょうか。

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