見出し画像

富への渇望

一刻も早く抜け出したかった。

友人達の話は幸せそうだった。

週末の家族での外食や旅行、誕生日の高価なプレゼント。


それらが特別な事ではなく、ごく普通の家庭のごく普通の幸せだと知っていたので、

自分の貧しさを恨んでいた。

父はいない。

私が幼い頃に借金だけ残し、どこかに消えたそうだ。

母は貧しかった。

懸命に働き、私を育ててくれた。

どんなに体調が悪かろうが、自分の事では仕事は休まなかった。

それでも母と私は抜け出せない。貧困の奈落からは。

そんな家庭でもささやかな幸せはあったのだ。

幼稚園の帰りだろうか、夕暮れの雲を母と眺めながら、動物の形をした雲を探した。

数回しか行った事がない、遊園地は本当に楽しかった。

あの時の母の笑顔が最高だった。その笑顔を見るのが最高に幸せだった。


私が懸命に勉強して志望していた難関大学に合格した時の母の涙も忘れられない。

母は私を大学に入れるために、私を育てるために、どれだけ自分の欲望を押さえ込んできたのだろうか...。


誰もが羨む高級車に乗り、仕事帰りの人々でごった返す街を、颯爽と走り抜ける。

ハンドルを握る左腕には、それほど主張は強くないが、見る人が見ればわかるような高価な時計がある。

私は貧困から抜け出し富を得た。

薄汚く、嘘と虚飾にまみれた世界に踏み込み、人間の愚かさを知ると同時に、

母の偉大さを痛感している。

こんな愚かしく下らない世界でも、母は実直に貧困に耐えながら、私を育ててくれたのだ。

世の中の富を得た人々は何か勘違いしているようにも思える。

あなた方は何も偉くなんかない。

世界は私の母のような、実直に愛する人のために懸命に生きている人々の労働の上に成り立っている。

私は富を得た。

でも、帰りの車窓に入り込む夕陽を浴びながら、私の心は晴れない。むしろいつも重い。

あんなに抜け出したかった貧困から抜け出し、富を得たのにもかかわらず。


どれだけ富を得ようと、どれだけ金を積もうと、いつも優しく明るかった最愛の人は戻らない。

私が抜け出したかったのではなかった。母を貧しさから救ってあげたかった。

信号待ち。

幼い子供の手を引きながら、何か歌でも口ずさみながら親子が楽しそうに歩いている。

母に対して救ってあげたいなんて表現は似つかわしくないなと思った。

どれだけ高価なものを買ってあげると言っても、母は、あんたが良いならそれでいい、私はそんな高いもの要らないって言うだろうから。


強く実直に大切な人の為に、生きることしか母に報いる方法はないだろう。

そんな事を考えながら、夕暮れの空に動物に似た雲を探していた。

#短編小説

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?