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キリスト教と私

 2022年04月17日に洗礼したばかりの私だが、洗礼を受けて以来、心身の調子がとてもよい。人生よい方向に向かっている気がする。
 洗礼の際に聖書(新改訳)が贈られた。それで毎日聖書を読む習慣がついた。1日「ルカの福音書」1章、「手紙」2章、時間があるときは「ピリピ人への手紙」を朗読している。これで40分かかる。
 機会があるごとに「ピリピ」を読むのは、洗礼を受ける直前に牧師さんから「ピリピ」に「喜びなさい、寛容でありなさい、祈りなさい」とあることに信仰はつきると、メッセージを受けたからである。
 幼い頃から聖書に親しんでいた(洗礼は受けていない)ものとして、信仰がその3つにつきるとは驚きであった。あんなに膨大で難解な聖書なのに。それが3つに集約されるとは。「ピリピ」の第4章4-7節にこうある。

  4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
  5 あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。
   主は近いのです。
  6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈り
   と願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
  7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と
   思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 この4節だけでも語りたいことはたくさんあるが、最も気に入っているのは6節の「何も思い煩わないで」と「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」の二箇所だ。
 私は躁うつ病なこともあり、とにかく「思い煩う」。それをしなくていいと言ってもらえて、本当にほっとした。そして神が願い事を聞きたいと思っていてくださるというのは、本当にありがたい。
 大学の講義でキリスト教について説明する機会があった。そこで事前に牧師さんにどう説明したらよいか、聞いた。牧師さんはまず、キリスト教は「ことばの宗教」であり「恵みの宗教」だと答えた。
 「ことばの宗教」とは神もイエスもパウロもみなよく語り、よく書くということ。「恵みの宗教」とは、私たちが修行して神のもとにたどり着くのではなく、神が私たちのもとに下りてきて、恵みをもたらしてくださる、ということ。この恵みという考え方は、神が願い事を聞きたいと思っているに通じるように思う。
 洗礼してから1ヶ月余り。これだけ自分のなかで変化があった。昨晩はヨブの会という聖書勉強会に参加し、たくさんの学びがあった。当分は、いや一生信仰に生きようと心に誓った。

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