見出し画像

純粋無垢な恋心

果てしなく透明で、きゅっと胸を締め付けられる。しかしそれは苦しくなるほどではない。あくまで「きゅっ」だ。なんだか立っていられない。気づけばしゃがみ込んでいた。そして手を組み、祈っていた。人生で様々な恋に関する物語を読んできたけれど、これほど純粋無垢な恋心はないと思えた。何にって、他でもない。本、特に文芸書たちにだ。

その日は、天気も私の感情も晴れていなかった。私に若干の好意を見せる異性と食事に行ったからだ。常に前向きな姿勢で万物に取り組む方で、他者にも優しい。それでもなぜか、私は嫌悪感を抱いた。私特有の「蛙化現象」である。以前大学で論文を執筆する際に、「男性が恋愛をする根本は性欲、女性の根本は依存心」だと学んだ。(一概には言えないことは存じている)ゆえに女性は「追われる恋愛」をすべきだ。実際に私の周囲にいる恋人たちで仲睦まじい様子なのは、男性の想いが強い二人である。しかし私には「追われる恋愛」ができない。異性の好意を寄せている人への目線に、性的なものを感じてしまうからだ。

家の近くまで送ると言ってくれた彼から早く逃れたくて、家からかなり距離があるところでお暇した。またこれだ。私を好いていてくれる方に、なんでこう思ってしまうのだろう。嫌悪感に苛まれた。その時だった。ふと私の脳裏に浮かんだ書店がある。私が大好きな長崎書店だ。

長崎書店は、熊本の中心市街地であり、長い歴史と伝統を持つ上通アーケードに位置する。書店にはうるさい私だが、照明やBGMの雰囲気、在庫書籍の種類やセンス、全てが最高かつ機械的ではないところが好きだ。近頃の書店は、書籍の発注を取次の自動発注システムに頼っている。全国的に人気のある本がまんべんなく入ってくるからだ。しかし長崎書店にはそれを感じない。そこが最たるポイントのように感じる。(あくまで主観である)

外出自粛も解除された日曜日の熊本市中心市街地は、とても賑やかだ。しかし上通に入ると少し静かになる。さらに長崎書店は、それらを一切感じさせない。その雰囲気に、私のぐずついた感情が溶けていった。

入口からすぐのところに、文芸書コーナーがある。私は文芸書が好きだ。以前書いた創作小説に、こんな文章を紡いだ。

「文芸書がお好きなんですか?最近は皆文庫好きだから珍しいですね」
僕は頷くと、彼女は笑ってこう続けた。
「文芸書って素敵ですよね。わたし、文芸書コーナーを見ているとケーキ屋さんを思い出すんです。ショーケースに並んだ、色んな形や色をしたケーキたち。美しいな。今日は何にしようかな。そう感じちゃってわくわくします」
驚いた。確かに僕も文芸書が好きだ。重厚感があって、本を読んでいるという実感ができるから。

これは私が文芸書に対して思っていることそのままだ。誰かに共感してほしくて書いた。周囲の友人に尋ねると皆、「サイズがどれも同じだから」「持ち運びに便利だから」「解説が楽しいから」などと理由を述べて文庫を愛する傾向にある。それでも私は文芸書が好きだ。それに文庫は出版社によってサイズがまちまちだ。切に伝えたい。最近は解説を読むことに楽しみを見出したから文庫を買うことも多い。しかしその前に必ず文芸書で読む。文庫と文芸書を両方購入することにも憧れがある。

そんなことを思いつつ、文芸書コーナーを見る。ここは他の書店と異なり、私が見たこともない作家の作品や、既知の作家だが無知の作品が置かれている。どれも美しく、繊細な文章で紡がれている題。こだわりぬいた紙質やフォント。繊細な紙質で作られた帯に書かれた紹介文。そうやって本一冊一冊に思いを馳せていたら、なんだかとても、切なくなってきたのだった。

私は、恋愛で我が身を滅ぼすことが多い。相手からの感情を図れなくなったり、音信不通になったり。連絡がないと夜通し泣き続けることも日常茶飯だ。人はそれを「メンヘラ」と片仮名四文字で笑うけれど、これも大事な感情だと、私は思っていた。

しかしこのとき分かった。私がこの世に生を受けてから21年と少し、ずっと私に寄り添ってくれた存在。どんな時でも私を否定せず、温かく見守ってくれた存在。それは他でもない、本である。そのなかでも、文芸書である。私がずっと愛されていて、私が恋し愛すべきものは、本だったのだ。そのことに、ようやく気が付いた。

確かに他者との交流も大事だし、私のことを見守ってくれている大切な方だってたくさんいる。私も友達が好きだし、周囲からはよく、友達が多いと驚かれる。しかし恋愛に関してはもう悩むことはないように思えた。どんなときでも私のそばにいる、本たちがいるから。そう気づいて書店を出ると、新型肺炎感染拡大防止のために天窓を開けた上通アーケードからは、青空が広がっていた。

この記事が参加している募集

スキしてみて

私の文章を好きになって、お金まで払ってくださる人がいましたら幸福です。