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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
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「ベニスに死す」と「世界で一番美しい少年」が教えてくれるもの

*この記事は、映画「ベニスに死す」と「世界で一番美しい少年」を観た後の思考の軌跡を徒然と綴ったものです。ネタバレもありますので了承した上でお読みください。

「ベニスに死す」から始まって

先日NHKのBSPで「ベニスに死す」が放送されていました。
最近は毎年?2年に一回ぐらい?は放送してるような気がする。
(あらすじや登場人物の説明は省略しますので、知らない方はご自分でお調べくださいませ)

名作と言われる「ベニスに死す」ですが、若い時に見た時は気味悪かったとか、美少年タッジオの美しさに圧倒された…的な感想が多いようです。私も初めて見た時は感動よりもアッシェンバッハの気味悪さの方が強かった&タッジオの美少年ぶりの説得力の凄さにビックリした記憶があります。

しかし老作曲家アッシェンバッハの年齢に近づくにつれ、この映画の素晴らしさの意味を理解し、涙したという意見もいくつか見ました。
私はさすがにまだ涙するまでの境地には達していないのですが、味わい深く楽しめるようにはなってきました。

たとえば、
芸術の街からツーリストの観光地に成り下がり、死の病コレラの蔓延で今にも死にそうなベニスを、かつての芸術性を失い批判を浴びるアッシェンバッハの作曲家人生とオーバーラップさせているとか…
タッジオの属するポーランド貴族という存在自体も、時代とともに滅亡する、まさに当時、死に面している存在だったとか、
ベニスのゴンドラは棺桶、アッシェンバッハの施される奇妙な化粧は死化粧、タジオが赤い棒の周りをくるくる回るのは性的なメタファーを持たせているとか、砂時計は人生のメタファーであったとか(最初は減っていっているのが分かりにくいが、最後の方になると一気に砂が落ちて行ってしまう様は人生における時間の流れ方に似ている)、
初見では気付かない部分も他の方のレビューやなんやかや読ませてもらって理解できるようになってきました。

ただラストシーン、タッジオが海に入って腰に手を当て、一瞬アッシェンバッハを振り返り、その後片手を挙げて空を指さすシーン、アレはどういう意味なんだろう?と、いつも余韻と共に考えてしまいます。

単純に考えるなら、死にゆくアッシェンバッハに天国を指さし、さあ天に召しなさいと告げているっていうことなんでしょう。確かヴィスコンティだかがタッジオを「死の天使」と称していたから、死の天使の最後の役割=引導 を渡した瞬間の描写ではあるのでしょう。でもそれ以上の何かが含まれているような気がして、その奥にある何かについて、毎度考えつつも未だに答えが出ない。単純に何もないのかもしれないけど…。


タッジオに似てる!?

で、「ベニスに死す」を見ていたら、タッジオの顔、この前見た元ジャニーズで性被害を告発したカウアン岡本君と似てる気がするな…とふと思ったのでした。

目元が似てませんかね?もうちょっと線が細かったら凄く似てそう。
ちょっとキツイ感じのある寂し気な目元。
ただカウアン君の方は瞳の中にmaliciousな色を帯びてる気がして、私的にはちょい苦手ですが…。

このカウアン君の記者会見を観ているときに、彼の中にタッキー味が少しあるなと思ったり、トシちゃんの若い時の動画とかも最近観ていたんですけど、その中にもタッキーやカウアン君との共通点と言うか、そういうのを感じて、もしかしてジャニーさんって彼自身のタッジオを探していたんじゃないか?という疑念がムクムクと湧いてきたのでした。ジャニーさんが好きだったであろう年齢層も15歳前後みたいだし、まさしくタッジオ世代。

ちょっと話逸れるけど、BBCのジャニーズ性被害告発番組についての記事を書いてから↓

一応その行く末を見守っています。ウェブ記事では随分取り上げられていますが、テレビではNHKで一瞬言及があったらしいですけど見事に全社ともスルーしてるのは本当に驚愕ですよね。SNSを中心にメディアに対する批判が噴出している状況で、それでもジャニーズ側はほぼ無視。タレントたちも一切触れずに相変わらず全ての局でいろんな番組に出ずっぱり。ただただ気味の悪い状況、日本の闇を感じています。

でもヤフコメとか見ていると、被害者だったかもしれないタレントの方を今までと同じ目で見れないとか、気持ち悪いとかいう意見があるのが物凄く違和感というか、その意見が気持ち悪い。
女性のレイプ被害者の方に気持ち悪いとか思います?可哀想とか、どう癒してあげればいいのかわからない、いたたまれない…みたいな感情は出るけど気持ち悪いなんて思いますか?私はそんな気持ちは全く出ない。気持ち悪いのは加害者の方ですよね。ここに性被害に対する歪んだ認識がまだまだあるんだなぁ~と愕然とさせられました。被害受ける方も悪いとかいまだに言う人もいますもんね。

それと過去のことを掘り返したくないだろうし…というタレント保護の観点から擁護してる意見も多々ある。でも性被害のトラウマからの回復には無かったことにするんではなくて事実を認識していくことが必要なんですよね。それに結局自分たちが有耶無耶に受け入れてきたから次世代の子供達にも被害が拡大していたわけで、ある程度の社会的責任を感じる30代以上の大人なんだったら、その部分も考慮してとるべき行動というのがあると思う。

そしてファンは本当にそのタレントを愛し、応援しているなら全て受け止めてあげるべきなのではないかな?自分の理想像とかけ離れたからもう気持ち悪いと棄てるなら、それは単に彼らを消耗品として消費していただけで”人間”としての彼らを愛してなんかいなかったということ。ここにファンダムの闇を凄く感じます。

”美(少年)を消費する”…それは「ベニスに死す」のビョルン・アンドレセンの時代から全く変わっていない。


「世界で一番美しい少年」は本当に呪いだったのか?

そういう流れで、タッジオ役を演じたビョルン・アンドレセンのドキュメンタリー映画「The most beautiful boy in the world (世界で一番美しい少年)
を観ました。

気にはなっていたけど機会を逃していた映画。今こそ観るべき時なんだと思って。
北欧のホラー映画「ミッドサマー」で老人姿になったビョルン・アンドレセンの姿は話題になっていたし、それもあって「ミッドサマー」は観ていたので彼の現在の姿は知っていました。なので「世界で一番美しい少年」の中に出てくる現在のアンドレセンを見ても驚きはしなかった。

この映画で私が一番興味があったのは、果たしてヴィスコンティはこの美少年時代のアンドレセンに何かしらの性的虐待のようなことを行ったのか?…ということ。
そういうのが克明に語られて、その結果、彼は精神を病み、若かりし時の面影を微かに残しつつも仙人のような年齢以上に老けて見える爺さんになったんだと思ったし、映画の予告もそんな風にミスリードさせる感じだったから。

しかし映画を観てみると、なんかちょっと違うんですよね。
1回目、アレ?壮絶な性虐待はあったのか?なかったのか?ようわからん。
2回目、絶妙にぼやかしてるんだな、このドキュメンタリー…
と、2回も観直しましたが、そんな感じでした。

確かにヴィスコンィの罪はあると思う。
それは彼に「世界で一番美しい少年」というレッテルを貼って呪いをかけたこと。

アンドレセンがこのレッテル、イメージに苦しんだ部分はあるんだと思う。でもその詳細は映画の中で全然語られないし、深堀りされない。

映画の中でヴィスコンティがしたことで引っ掛かる点は、

1:オーデイション中に有無を言わさず半裸になるよう指示して写真を撮ったりしていること。
2:カンヌでの映画上映後の記者会見で、もう旬が過ぎて美しくないというジョーク、リップサービスをアンドレセンの真横で記者たちに言っていたこと。
3:その後スタッフ達に連れられてゲイクラブに連れていかれたこと。そこにヴィスコンティがいたらしい。

この3つが現在の児童虐待に関する視点から見ると気になります。

ということで、ひとつずつ私の思ったことを書いてみます。


オーディションでの半裸撮影

まずは1番について、
これはもの凄くうまく切り取られてるなぁ~と思いましたね。
まさしくヴィスコンティが捕食者アンドレセンが獲物って感じで描かれている。ヴィスコンティが舌なめずりする映像がわざわざ使われてるのとか、ソレ、わざとここに挿入してるよね?とちょっと笑っちゃうぐらい。
そしてアンドレセンが「シャツ脱いで上半身裸になって」と言われ戸惑う表情とかも、こっちはそういう前提で見てるからものすごく恥ずかしいことを強要してる風に思えてしまう。でも実際のその羞恥の度合いはよくわからない。それに対してコレと言って本人もコメントしてないし。

映画の中のオーデイションをする場面は、イタリアの「タッジオを求めて」という番組のアンドレセン出演部分の切り抜きです。

コチラが「タッジオを求めて」という番組の動画。

これ見てると、ヴィスコンティはエロスとか性的なものの無い男の子を探しているんですよね。そういうのが漏れ出す前の少年。原作ではもっと若い設定だったはず。そんな小説のタッジオのイメージを体現できる存在、「死の天使」とも言っていたから性的要素は極力ない天使のような美しさを求めていたんだと思う。
だからアンドレセンを性的な捕食者目線で見てなかった…とは言わないけど、その部分は極めて少なかったような気がします。

ヴィスコンティはヘルムト・バーガーと付き合っていたという噂があったり、アラン・ドロンとかもそうだけど、好みの男は若くて美しい男だろうけどアンドレセンほど若い子供は対象外じゃないかな~と思うんですよね。もっと性的な魅力がある方が好きな感じがする。アラン・ドロンなんて性的魅力ダダ洩れって感じだし。

だからこのタッジオについては純粋にこの役に見合う人物として、彼の審美眼に従ってオーデイションをした結果、アンドレセンが気に入った。彼の出現に目が輝いたのも捕食者だからではなく、そりゃ役のイメージにピッタリの人物が現れたら目が輝くだろうし、半裸にしたのも、多くの水着での撮影があることを考えると、美のイメージを損なう体のラインとか、妙に毛深いとか、アソコが大きすぎるとか、イメージにそぐわない部分がないか?確認するのは監督としては必要な部分だったというしかない。あくまでタッジオは少年じゃないといけないんだから。

現在の基準で考えると、事前に役の内容を伝えて了承した上でオーデイションに参加するというのが求められるだろうけど、50年前ですから。時代がそこまで児童福祉に対して意識も知識もなかった時代。それをヴィスコンティだけゲイで権力者だった捕食者だなんだと責めるのは、何か違和感があるんですよね。それが正しいとは言ってませんよ。でも明らかに時代による感覚のズレがあるのは明白。今なら少年を半裸にして撮影することは児童ポルノに抵触する行為だと言われるかもしれませんが、当時はそんな感覚、たぶん皆無だったと思うし、ヴィスコンティも性的な意味でそれを消費するためにしたとは言い難い。彼を責めて終わるんじゃなくて、当時からある製作者と役者との間の気持ちのズレ。それをこういう過去の事例から学んで現在への改善にまで意識を巡らすこと、それが今現在必要とされることではないのかなと。

たとえば最近では性的シーンの撮影に関してインティマシ―・コーディネーターが注目されています。

映画やドラマでインティマシー(親密な)シーンを撮影する際、監督が目指す表現を理解した上で、俳優側の「同意できる・できないこと」を確認し、精神的・身体的安全を確保するのが役割です。

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コレと同じような、子役、未成年俳優を使う上でのコーディネーター兼カウンセラーのような立場の人間を作る必要があると思うわけです。

子役と監督、制作サイドとの間で、ヌーディティ、性表現、暴力表現などに関しての齟齬がないか、慎重に双方の意見の擦りよせ、確認、了承を得る。
(少し前にも子役を何度も殴る場面を撮った映画が問題になっていましたし)

そしていくら事前に了承を得ていたとしても、実際に体験したらダメージがあることもある。そういう場合に備えて、問題のありそうなシーン撮影の後のカウンセリング等のアフターケアも実施する。

撮影以前の問題で、毒親によって過剰な労働を強制されて参加していないか?等、児童福祉の観点から子役、未成年俳優の家庭環境等もチェックする必要があるようにも思う。勝手なイメージだけど子役の親は問題のあるケースが多い気がするし。ジャニーズの問題も親がもっと高い意識持って事務所に子供を供給することを断固拒否していたら、ここまで長く続かなかった可能性はあるわけで…。

昔から、芸能界だから、好きでやってるんだから、そんな感じでこの部分がものすごくないがしろにされてる違和感は見てる側だけど感じていました。

モーニング娘とかの時もドンドン低年齢化して、加護ちゃんとか辻ちゃんとか、まだまだ子供なのにこんな働かせてイイのかな…と思っていたし、そして結局タバコ吸ったり、暴言吐いたり、おかしな世界で狂わされた子供に逸脱した行為なんかが見え出すと一斉に大人が叩く。残酷過ぎますよね。さんざん彼らを搾取、消費しておいて、必要なものは与えて来なかったのに。

映画の中ではビョルン・アンドレセンが大人に搾取されたと言っている。日本は当時も、そしていまだに子供、未成年の芸能人を大人の都合で搾取しまくってる。そして大人になってからの彼らが苦しむ事例は後を絶たない。若さと才能を吸うだけ吸って、大人になったらハイッとポイ捨て。結局才能が無かったんだねと。

昭和のアイドルなんかは上手く出来たもので、15、16歳でデビューさせ、人気のピークが20歳過ぎ頃まで、若くて何もわからない時期に散々搾取して、たぶんギャラも安く使って、大人としての、タレントとしての自我が芽生えだす20歳頃には人気のピークも落ち着いて、商品価値が下がってきたタイミングで独立したいと言い出したら、シメシメと放り出す。そして事務所の力でテレビ局に圧力かけてそっちは活動の場を無くして、自社の新しいタレントを売り出し、また搾取…。

子役上がりの俳優さん達もどこか壊れた感じになったり、反対に物凄く腰が低く、周りの目や評価を異常に気にしてる風な大人になったりしてるパターンが多い気がする。芦田愛菜ちゃんぐらいじゃない?自分を持ちつつ、大人に搾取され過ぎないようにバランスとれてそうなのは。みんな大体周りの顔色を異常に気にしてるのがわかるイジケタ大人になっていく。(まあこれは芸能界に関わらず、いまどきの子供は社会の抑圧でイジケタ感じになりがちだけど…)

なので芸能界は早くこういうのを制度化、そしてそこで活躍する人材を育成すべきだと思いますね。

*****
話をアンドレセンに戻して(;^_^A

実際、撮影中に性的被害があったみたいなこともなかったようだし、夏休みに知らない土地に遊びに来て楽しんでいたみたいな感想をアンドレセン自身述べていた。スナップ写真も楽しそうにはしゃいでる写真が結構あった。

スタッフが全員ゲイだったというのはビックリでしたけど、でもだからと言ってそれが悪なのか?という疑問が残る。まるでそれが悪い環境だったかのようにこの映画の中では扱われてる感じだし、そのキメツケに同調してるレビューも見たけど、実際に悪影響があったのかはわからない。何かにつけて股間触ってきたとかがあったなら悪影響だろうけど、ゲイの人たちばかりだったというだけで悪影響とは言い切れない。優しいオネエタイプの人が色々と細かい気遣いで面倒見てくれていたかもしれないしねぇ。

また話がちょっと逸れるけど、
なにより凄いなと思ったのは、そのゲイスタッフたちのタッジオ像への努力というか、美意識の高さですね。
アンドレセンは確かに美しい男の子なんですよ。オーディションでも彼がひとり輝いているのはハッキリわかるぐらいに。でもヨーロッパとかを旅行してるとハッと目を引く美少年は割と見かけることってあるんですよね。

アンドレセンも、もっと幼い時の写真とかは割とどこにでも居そうな感じでした。それが15歳のオーディション時には急に大人び始め、目元に憂いを漂い始めて、まさに美少年~美青年の間の絶妙なバランスの美を体現している時期。そこに運よく出会えたヴィスコンティとそのスタッフたちは、その美を最大限に高める努力をしてるのが映像からハッキリわかる。衣装、髪型にもこだわり、映す角度、表情、しぐさの指示、とにかく美に対しての感度が高いと言われるゲイの人たち総出でタッジオ像を作り上げ、フィルムに焼き付けたQueer EyeFab Fiveがクライアントに魅惑の変身を施すかのように、その辺にいた原石の男の子を「世界で一番美しい少年」というGem宝石へと作り上げたというのがよくわかる。

だってオーディションの映像だけでアンドレセンを「世界一美しい少年」とタイトルついていても、うんまあキレイな子ね、とは思うけど強烈に記憶に残るほどではないと思う。「ベニスに死す」の前に出演したドラマ「純愛日記」の映像はコチラ

そこにあのスタイリングと設定、映し方で映画全編通して彼の美しさにフィーチャーして、これでもかと「世界で一番美しい少年」に説得力を持たせ、観客の脳裏に焼き付けた。あぁ~「ベニスに死す」は絵画と同じように芸術作品なんだなと改めて思う。

結果として、それがアンドレセンの呪いになったけど、当時のスタッフたちはこの子を輝かせようと一生懸命、それが呪いになるなんて誰にも分らなかったと思う。


記者会見での貶し発言

ここで2番のカンヌでの記者会見の話に繋がる。

ヴィスコンティが会見でアンドレセンを「世界で一番美しい少年」と称したのは、監督として「世界で一番美しい少年」をスタッフ総出で作り上げた自負があるし、そしてそのインパクトのあるキャッチフレーズは自分の映画を宣伝するための最大のコピーライティングだったわけです。
結果的にそれがアンドレセンを苦しめることになったかもしれないが、これをヴィスコンティのせいにするのもなんかかわいそうというか、クリエイター、アーティスト兼映画プロデューサーとしては当たり前のことをしただけのように思える。あの時点でそこまで今後のアンドレセンの人生のことまで考慮して発言できた人が実際どれだけいたか…。

会見でアンドレセンのことをもう若くないとか、もう美しくないと言っていたのも、確かにヒドイこと言ってるとは思うけど、ある意味真実だとは思う。”少年”としての”美”の期間はヴィスコンティの美意識からするともう映画撮影時でギリギリで、もうこの会見時には過ぎてしまっていたんでしょう。「美しい青年になるかもわからないけどね」的なことも言っている。だから少年の美と青年の美はまた別物なんですよね。ヴィスコンティ的には。

ちょっと毒のある感じで言うのはゲイの人にはよくあることだし(それがイイかは別問題だけど、いまだにマツコの毒舌楽しんでる大衆がいるのも事実)、会見でリップサービス的に言ってる感じもある。そしてフランス語で話してる。アンドレセンはたぶん理解できない言語で。それが気遣いだったとは言わないけど、わざわざ傷つけるつもりで言ってるのではないのはわかる。数年後パリで暮らしフランス語を習得した現在のアンドレセンがあの会見映像を観たら酷いこと言ってるなと思うだろうけど、当時の彼にどこまで理解できたのか?ヴィスコンティにしてもそんな未来のことまで考えて話してるわけないし(だからイイとは言いませんけど)。

またアンドレセン自身、自分の美に対して割と無頓着に見える。そこが彼の美しさの一要素だと私は思う。ナルシシズムな嫌らしさが目に宿ってないんですよね。それが15歳の時も、66歳になった現在も変わってない。自分の美を意識している人の目にはどうしても俗物感が漂う。それが無いところが、あのやせ衰えた老境の姿でさえ、目元辺りに美しさを感じてしまうところだなと。
そんな彼が、ヴィスコンティに多少外見のことをこき下ろされたところで、そんなに傷つくのか?という疑問があるんですよね。何言ってんだこのクソオヤジ!ぐらいにムカつくだろうけど、トラウマになるほどの美に対する執着があるようにはどうしても見えない。


ゲイクラブで何があったのか?

そして3番のゲイクラブへ連れて行かれた話。

これはスタッフ達に連れていかれたら、そこにヴィスコンティが居たと言っていた。
それが彼の指示だったのかどうかは言及されていない。
そしてそこで舐めるようにゲイ達に見つめられたと。それは不快だったと思う。まるでblow job(フェラ)されてるみたいだったと言っていた。

これ、ゲイクラブって、どういうところなんですかね?ゲイ達が集まる踊るクラブ、当時ならディスコのことなのか?それともセックス・クラブみたいな、あちこちで男同士でセックスしまくってるようなハッテンサウナみたいなところなのか?後者なら問題ありまくりだけど、前者ならそこまで虐待になるのかな?と思ったり。

Pet Shop Boys「New York City Boy」のMVみたいなのを想像しちゃうと、楽しそうって思っちゃうんだけど(;^_^A

アンドレセンも友達とバンド組んでたらしいし、クラブシーンとかに興味もありそうな年代だったろうし、本当に無理やり連れて行かれたんだろうか?嫌ならホテルで祖母と一緒にいるという選択肢はなかったのか?

結局お酒を飲みまくって記憶が殆どなく、どうやってホテルに戻ったのかもわからなかったと。これは大人たちがお酒を飲ましてイタズラとかしたのだろうか?バンビみたいに震えてる子を連れて行って酒を飲まして寄ってたかってイタズラしたとかなら集団レイプ事件だけど、好奇心旺盛な16歳ぐらいの男の子が大人の誘いについていって、お酒やもしかしたら薬とかやって、勝手に意識不明になったのを無事送り返してくれた…とかなら全然印象が違ってくる。その辺の詳細は全然語られないから微妙にモヤモヤするんですよね。

もちろん本当に性被害に遭っていたら、それを無理矢理話させるのはセカンドレイプだろうから彼に無理強いはしなくてもいい。でももし当時の関係者、一緒にゲイクラブに行ったであろう人が生き残っていたら、客観的な状況の説明をして貰って、実際のところはどうだったのか、映画の観客にも冷静に判断する材料を提示して欲しかったなとは思う。

なんだかあまりにもフワッとしたアンドレセン側だけの印象だけで語られていて、必要以上にバイアスがかかってる可能性はないのかな?と思ってしまうんですよね。自分の不幸はすべてここから始まっていると思いたい他責思考というか…。


生い立ちと降りかかった災厄


そして映画はアンドレセンの「世界で一番美しい少年」以外の側面も紹介していく。

それは生い立ち。
母親がボヘミアン。当時で言ったらヒッピーでしょうか?

北欧のデンマークとスウェーデンを旅した時に、どっちの国だったか忘れましたが、首都の一角にヒッピー村みたいな地区があって、そこは自治権あるって言っていたかな?ヘエ~、北欧ってこんな強いヒッピー文化があったりするんだ~と感心したのを憶えています。

アンドレセンの母もそんな感じでいろいろな国に放浪したり、仕事もディオールのモデルをしたこともあったり、ジャーナリストと言ったり、自由に生きていた模様。
アンドレセンの父親も不明。彼が1月に生まれ、父親違いの妹を同じ年の12月に産んでるという。フリーセックスって感じだったんですかね?
幼稚園に入る前に幼子を連れて一年旅行したりと、本当に自由人だったみたい。どれほど母親と過ごしていたのか分らないけど、この時代にしては写真とか映像とか残していて、それらを見る限りは割と一緒に過ごしていたかのような錯覚を覚えるものばかり。でも殆ど面倒見ず、祖父母に預けていたのかもしれません。(この辺も詳細は語られない)

そんな母親は彼らが10歳頃に生き辛さが理由?で失踪。
結局森の中で自殺していたことが分かる。

その後、養護施設から祖父母の家で暮らすようになり、「ベニスに死す」のオーデイションの15歳より前にもドラマに出演なんかをしてる(先述の「純愛日記」ですね)。

ここで祖母がステージママで彼を扱き使った、みたいな報道、記事もよく見た。
私はてっきり貧困から稼ぎ頭として孫を搾取していたんだと思ったんだけど、これまたちょっと印象が違った。

アンドレセンの母親も彼らの映像を残していたり、音声を残していたり、なにより小さい時から音楽、ピアノとかを習っていた様子が窺える。
そんなヒッピーみたいなシングルマザーに育てられたにしては裕福そうに見えるんですよね。60年代半ば頃でカメラやレコーダー持ってた人ってそんなに居なかったと思うから。そして祖父母の元でもバンド活動をはじめたりしてたようだし、生活に困っていた様子はほぼ感じられなかった。

「ベニスに死す」の撮影に祖母が付いてきて端役を貰って喜んでいたとか、日本でアイドルのように扱われて荒稼ぎさせていたとかも、毒親、毒ステージママエピソードとして紹介されていた。

確かに毒だなと思う部分はあるんだけど、スウェーデンというヨーロッパの中心からは外れたところ出身の自分の孫が、当時はヨーロッパの文化の中心といっていいフランスやイタリアの芸能界の中心でもてはやされ、さらには日本なんていう海外でも人気なんて聞いたら、それは鼻高々、自慢もしたいだろうし、そのキャリアで行けるなら頑張って欲しいと思うだろう。児童労働なんて当たり前だった戦前世代の女性がマトモに子供の福祉を第一に考えることが出来たかと言うと…難しかっただろうとは想像できる。

もし母親が生きていたらアンドレセンを守れただろうか?これも何とも言えない。母親もモデルの仕事をしたこともあったということだから、自分の夢を託してもっともっとと酷い毒親になっていたかもしれないし、あんな狂った世界に関わってはダメ!と遠ざけたかもしれない。

祖父母がアンドレセンの稼いだお金で贅沢しまくっていたエピソードなんかがあれば、もうちょっと同情的になれたんですけどそれも無かったので、そんなに悪いお祖母さんだったのかな?という疑念が残った。

これもまた現在の視点で見れば孫を利用しての搾取をしてると捉えられますが、繰り返しになるけど、現在でもこの問題はほぼ放置されてる。日本でもそうだし、海外だってブリトニー・スピアーズが父親と揉めてたりも結局似たような問題なんだろうし。もっと芸能に関わる子供の福祉と心の健康に関して法整備をしっかりしないといけないと思う。ステージママが悪いだなんだとスケープゴートにして終わりじゃなくて、どうすれば同じような子供を産まないかを考えて制度化していくべき。

*****

追記:この映画に関するGardianの記事を読みました。
それによると、そもそもアンドレセンは演技がしたいわけでもなかったようですね。アッシェンバッハを演じたボガードの話では、撮影現場にいるのが最もしたくないことの様に見えたらしい。
ということで、したくないことを無理矢理ステージ婆さんにさせられていた。うん、それは可哀想。そしてその結果、日本で薬飲まされてまで労働させられる羽目になるわけだし…。
私は多少なりとも演技とかに興味はあったのかと思っていた。だって結局その後一応俳優としてキャリアを歩んできたらしいし(IMDBの出演作一覧を見ても、ズ~っとなんやかんやと続けている)。せめてあのチャンスを生かして、彼が興味あった音楽業界に方向性変えて活躍出来ていたらまたちょっと違ったのかな?
”やりたくないことをやらされた”これが一番の元凶ですかね?それで言えば祖母が一番悪いということになって憎らし気に語ってるのも理解できる。

あと「ベニスに死す」の撮影時はヴィスコンティがスタッフ達にアンドレセンに手を出したりしないように指示は出していたらしい。そこはちゃんと守っていたんですね。一方で日焼けとか汚染された海水に浸からないようにとかなり厳しく行動も制限されていたそうな。うん、まあ赤ら顔で皮がボロボロになったタッジオは困るし、汚染水で健康被害あっても困るから、これは致し方ないかなぁ。

20歳頃にパリでパトロン(映画に出させてあげると言われて)にお小遣い貰って一年ほど過ごした話。監督たちも深くは聞けなかったけど、そこだけは後悔してると言っていたらしい。映画の中でもナイーヴだったと本人が言っていたし、やはり肉体的な関係を見返りとして要求されて、それから逃げられなかった出来事があったということでしょうか。

*****

そしてこの映画で私的に一番ショックだったのは、
31歳で詩人の女性と結婚したアンドレセン。長女をもうけ、その後長男も。
幸せの絶頂。

しかし長男が8カ月の時、
妻が長女を幼稚園に送っている間、アンドレセンは前夜から外で深酒をし、帰宅後ベッドで泥酔して横になっていたらしい。その同じベッドに長男を寝かせていたそうで、帰宅した妻の悲鳴で目が覚める。

SIDS:Sudden Infant Death Syndrome(乳幼児突然死症候群)だったと。

ココで疑うのは酷だけど、ベビーベッドで寝かせていたわけでもなく、そんな酔っ払いの横に寝かせて…変に圧迫したとかが原因だったりはしないのか?と疑ってしまった。(ここもまた細かい状況説明はない。しかしSIDSなら、たとえ彼が正気だったとしても死んでいたわけで、彼がそこまで自分を責めてることに少し違和感があるんですよね)

そしてこれが原因で彼は鬱状態に陥り、アルコール中毒にもなり、妻にも去られ、娘とも滅多に連絡も取らず、現在、汚部屋に住む老人へとなっていくわけです。

ずーっと息子の死に苦しんで生きてきたんだろうなとは思う。自分を責め続けてきたんでしょう。
彼の年齢以上に老けた皺の刻まれた顔も、長年の喫煙、アルコール、そして精神的苦悩がもたらした産物なんだと腑に落ちた。


感想

映画の中でアンドレセンは日本を再訪して過去に関わった人たちと会う。
その中でレコード製作で関わった有名プロデューサーの酒井政利が、大物監督に認められた後に苦しんでしまう場合がある。それも「運命」なんですかねぇ…と仕方なかったことのように言う。

これがアンドレセンが日本語で歌った楽曲。

https://www.youtube.com/watch?v=BH06ujntxNk

外国人特有の巻き舌感もなく、たぶん練習時間も大してなかっただろうことを考えると結構上手い!!でも全く感情もなにも訴えるものがない”無の境地”感が凄いけど(;^_^A

ベルばらの池田理代子先生とも対面する。
昔は彼の表面上の美しか見てなかった気がしていたけど、その奥の悲しみ、影の部分も見ていたんだとわかって良かった…と仰る。


その横で無表情に佇むアンドレセン。

なんか彼の美を消費した側の人間の勝手に完結してる感じと、特に何の感情も湧いてきていないようなアンドレセンとの対比が痛かった。

まあ池田先生はインスピレーションを貰っただけだし、悲しそうなのを感じていたとしても周りの大人たちを諫めて辞めさせる立場にいた訳じゃないから、単にファンとしてキャピってるのも分かる。

でも元マネージャーと酒井さんとかは、薬飲ませてまでも働かせていた側の人間なんだから、仕方なかった、運命だったで済ますんじゃなくて、一言「済まなかった」ぐらいは言って欲しかった。

*****

”大人による搾取に苦しめられた美少年”という映画。表層的にはそう捉えられがちなんだと思う。私が読んだいくつかのレビューでもほぼそういうトーンだった。

でも私は何かちょっとそんなので括れる映画じゃなかったなと思うんです。

IMBDのレビューの中に、実際にアンドレセンに会ったことがあるという人物の評があった。これが興味深かった。

This unflattering aspect of his character was never explored, in case sympathy was lost I suppose. Although for some reason the row with his much younger girlfriend on the phone did give a glimpse of it!
彼の性格の悪印象のある面は決して深堀されない。よって共感は得にくかった。しかし彼の本質は、年の若い恋人との電話での口論の中で垣間見せてくれたけれども。
(中略)
Death in Venice experience as it were paved the way to a later unsatisfactory life, via exploitation etc. It played its part by raising expectations, but any unsatisfactoriness in later life must be mainly attributed to the kind of person Bjorn is.
「ベニスに死す」の経験が、その後の人生の期待を高める役割を果たしつつも、大人による搾取なんかがあったので、まるでその後の不幸な人生に導いた敷石のようではある。しかしその後の人生の不満に溢れる事柄は、ビョルン・アンドレセンという人物自身に起因するものであるに違いない。

私はこの人ほどバッサリとアンドレセン自身にも原因があると切り捨てることはできない。しかしそれでも、子供の死に関しては無責任極まりないと思うし、「父親がいなかったからどう父親をすればいいかわからなくて怖かった…」なんて言っていたのだから、過去のトラウマに引きずられることなく子供達の誕生を機会に人生を立て直して欲しかった。ここに彼自身の本来の性分も幾分か責任があるのではないかという思いもある。

彼の状態は「パーソナリティ障害」の部分があるんだと思う。
汚部屋に住んだり、大家に注意されるようなガスつけっぱなしをしていたり、娘とも殆ど関われず、恋人にも部屋の暗証番号を教えず、そのくせ彼女の電話を長々と使ったりと、人との距離感がおかしくなっている。
若い時に散々利用されたことで、簡単に人を信じられなくなってる部分もあるんでしょう。

それは「ベニスに死す」の経験で発生した部分もあるだろうし、本来持って生まれたものかも知れないし、父性の不在、母親の自殺が起因なのかもしれない。こればっかりはわからない。

なので、
彼を大人たちの搾取による犠牲者として憐みの対象として観る映画、そんな大人たちの罪を責め糾弾する映画…そういう風にしてしまいがちだけど、そうではなくて、
”美”というものを入り口に、ビョルン・アンドレセンという人物を見つめる映画なんだと思う。
それこそ彼の人生を、生い立ち、育った環境、出会い、巡り合わせ、不幸な出来事、虚無感、本来の性分…Fate…生まれた時に定まっている運命、そういう不可知なものの連続が現在のビョルン・アンドレセンという人物を象った、彼と一緒にその人生という奇妙で残酷なものの深淵を見つめる映画…なのかな?と思うのです。

そしてそこから色々なものを考え、感じてもらうことがたぶん監督たちの意図なのではないかと。だからこそ無理に深堀はしないし、全体的にボヤ~っとはっきりさせない感じのトーンなんだろうなと。

「世界で一番美しい少年」という呪いで本来の自分を見て貰えなくなったと。そこに苦しんだと。しかし人間、大なり小なり中々本来の自分で見てもらえることは少なくて(そもそも本来の自分って何?って人も多い気もする)、そこに多くの人が苦悩している。アンドレセンの母親もそうだった。

彼が15歳の少年らしい快活ではしゃいでる青春の一コマを切り取った様な映画に出演し人気者になり、周りの大人からもちゃんと保護されていたとして、その後絶対に幸せになれたかどうかはわからない。
20代頃の映画かの映像も見たけど、やはりただ佇んでるだけ。「ミッドサマー」もセリフ多く演技をするというよりもやはり佇んでる存在感だけの役柄。演じることのパッションはあまり感じられない。歌も与えられた楽曲とはいえ、やはりパッションはあまり感じられなかった。あったかもしれないけど彼の美貌以上に世界を魅了するものがあったかどうかは疑わしい。
そうなると、結局いくつかのチャンスを与えられた後に壁にぶつかり挫折し、同じようにアルコールや薬物依存にハマり、転落の人生を歩んだ可能性も十分考えられる。その時彼は何のせいだというのだろう?

もちろん児童、未成年は守らなければいけない。しかしいくら守られた子供時代を過ごせたとしても、皆が皆、幸せな人生を送れるかどうかはまた別の話。

*****

”美”という強烈な力
”美”は人を惹き付けるし、映画に出てきた池田先生のように日本の多くの少女漫画家に影響を与えたり、ミューズと言われるような存在が芸術家たちに創作の力を与えてきた。そんなインスピレーションや活力を与える力でもある。

一方でその美に群がり、利益を得ようとしたり、単に消費し搾取しようとする存在もいて、人々を狂わせる力でもある。本人も周りの人間も、飲み込むこともある。

ルッキズムは外見至上主義で、才能無くても見た目で便宜を図ったりすることでしたっけ?容姿を理由に差別や偏見、不当な評価をするのは間違ってると思うけど、”美”を正当に評価するのは別に悪いことじゃないと思う。”美”も力だから。しかしその扱い方をまだまだ人間は御しきれないんですよね。

お金と凄く似てる
美があるから、お金があるからその人物が偉いとは限らない。
いつまでもあるとも限らない。
人を狂わせることもあるし、翻弄されることもある。魅力に取りつかれることもある。
お金の賢い使い方、扱い方は色々考えられているのに、”美”に関してはいかに美を得るか、美を保つかということばかりで、どうすれば”美”に振り回されないか、どうすればうまく付き合っていけるか、そういうことを論じられることは少ないように思う。
美でお金を得ることもできるし、お金で美を得ることも出来る。
この業の深い二つの事柄との付き合い方が大事なんでしょうね。それをないがしろにしてる家庭とか、教えられなかった子供たちほどそれに苦労している気がするし。

そして「ベニスに死す」の時代から現在に至って、ますます”美”を消費する傾向が強くなってきている気がする。それもより軽く、使い捨てな感じで。

俳優や歌手はあんまり宣伝とかの為にパブリックに出て来ないのが一種のプロテクションになるんじゃないかな。あくまで作品の中でのみ消費されるように徹底する。ああいう私生活を切り売りするようなセレブリティ・ビジネスは食い物にされることに喜びを感じる人だけにしないとダメでしょうね。


最後に

「ベニスに死す」に戻って、
ラストシーン、光り輝く海の中に立ち、眩しい空を指さす、この世で一番美しい神の創造物(だと信じた)少年を見ながらアッシェンバッハは亡くなっていく。

昔の私は、化粧もドロドロに流れ落ち、恋焦がれる美少年に手を伸ばし、なんて惨めな最期なんだろうと思った。

しかし今はわかる。こんな幸せな死に方はなかったんじゃないかと。
神の光に包まれるかの如く景色の中で、狂おしいほどに美しいと思えるものを目の前にしながら死んで行ける。苦しみに歪む表情の合間に見せる喜びと恍惚の表情がそれを物語っている。

それは、「世界で一番美しい少年」の最後、暗雲立ち込める同じベニスの海岸を、皺が刻まれた老いたアンドレセンが歩いているシーン。それを見ることで、その対比がより一層強くそう思わせてくれる。

人生の中に”美”を見つけられた男と、見つけられなかった男

是非、両作品を観て、人生に想いを馳せていただきたい。

*追記の気付き。
「ベニスに死す」のアッシェンバッハのラストシーン、胸元に黄色いバラが刺さってる。

調べてみると、故人との強い絆の象徴、故人への永続的な愛辛い別れ、ギリシャ神話では愛と美の女神アフロディーテと関連付けられるそう。
まさにあのシーンにふさわしいバラなんだなと、巨匠のディテールへのこだわりにも感服するばかり。

*追記2:アンドレセンと郷ひろみが同じ年齢なんですよね。
たまたま郷ひろみのデビュー当時の動画とかをこの間観ていたんだけど、彼の美少年ぶりも日本人にとっては「こんな美しい男の子がいるのか!」というくらい衝撃的なものだったらしい。郷ひろみがデビューしたのがまさしく「ベニスに死す」の公開された1971年。当時の日本は国内、海外、全方位で美少年ブームだったということですね。

郷ひろみもジャニーさんの被害に遭ったとかどうとかという噂もあるし、薄っすら共通点がある。しかしヒロミGO(急に欧米読みw)はそこから逞しく華々しく芸能界で生きてきた。

ヒロミGO凄い!素晴らしい!とは思うんですけど、それで今現在のヒロミGOの歌ってる動画も見た。すると、なんだか頬辺りが引っ張られた感じで歌いにくそうにも見える…皆まで言いませんが、にしたんクリニックのCMやってるしねぇ…。
ヒロミGOもヒロミGOでそのイメージを維持するために、そんなことまでし続けなくてはならない人生、それもまた呪いではないのか?ふとアンドレセンのほうが「世界で一番美しい少年」の呪いからはとっくに解き放たれて、幸せなんじゃないだろうか?と思う自分がいた。

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