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嵐の夜に送電線が切れた話



 嵐の夜に送電線が切れて、しばらくの間、暗闇の中で過ごしたことがありました。
 その時私は、ある人と、偶然に同じ部屋にいたのです。

 その人は、同じ学生寮に住む青年でした。当時の私は、或る国の音楽学校に留学したピアノ科の学生で、彼は指揮科に在籍していました。私たちは、その学校に二人しかいない日本人だったのです。
 お互いの存在に気づいたのは、入学してしばらく経った或る日でした。
 その日は朝から、ラジオの気象予報が嵐の接近を告げていました。むっと温い空気があたりを満たし、空はいかにもこれから荒れ狂わんとするように、灰色の渦を巻き始めていました。午後の授業を終えた学生たちは、手んでに楽譜や教科書を抱え、帰路を急ごうとしていました。校門はまるで、火事の起きた建物のようにごった返していたことをよく覚えております。
 その人ごみの中で、私は彼に出会ったのです。
   いよいよ降り出した雨に備え、私はおろおろと傘を広げておりました。そのとき、うつむいた私の肩を、先を急ぐ人の波が押し、私は前にいる誰かの背に頭をぶつけました。
 「失礼!」
 額を押さえて顔を上げた私が見たものは、まぎれもなく、懐かしい同郷人の顔でした。何より、とっさに出た日本語の謝罪に、彼は振り向いたのでした。
 それまでずっと心の中に溜め込み、決して表へ出すまいと堪えてきた、慣れない国での孤独と緊張──それが、お互いの顔を見るなりいっぺんにほぐれ、私たちは堰を切ったように母国語の挨拶を交わし合ったものでした。
 その最初の出会いの日、彼は私の部屋を訪れたのです。

 太い絹のリボンのかかった函を持って、彼は私の部屋の戸を叩きました。
 「同郷の人に会えて、本当に嬉しいのです。これはおととい、母が送ってきたものだけれど、君は女の子だからお菓子が好きだろうと思って」
 そういって函を差し出す彼を、私は部屋に招き入れました。
 夕方から降り出した雨は、夜になってますます勢いを増してきたところでした。おびえる人間をさらに威嚇するような風の音が、絶えず部屋に響いていましたが、私たちはそんなことにはまるで気をとめず、熱い紅茶を飲み、彼の母君が送ってきたという上等のお菓子を間にはさんで、酔ったように勢いよく言葉を交わしました。お互いの身の上から、音楽論、そして理想、夢──そうです。私にも、夢がありました。彼にも同じく、根拠もない、途方もない、道筋さえ容易には見当たりそうにない夢がありました。そんな私たちは、境遇を同じくした学生同士であると同時に、革命を夢見る同志そのものだったといえましょう。肩を組み、握手を交わし、歌をうたわんばかりに、若い二人の心は燃え上がったのです。
 「■■の演奏は──」
 彼が、紅潮した顔を輝かせて口を開きかけたときでした。
 ぱっと室内の明かりが消えたのです。
 真っ暗闇でしたが、お互いに、あ、と口を開けたのがわかりました。
 「停電だ」
 彼が、口火を切りました。
 「ああ。学生寮全部が停電なのかしら」
 私は手探りで窓に寄りました。学生寮はコの字型になっており、窓からは向かいの様子をうかがうことができました。果たして、外には恐ろしいような暗闇が広がっていました。いつもは、向かいの棟にいくつか、未明まで光を放っている窓を見つけることができるのに、今見えるのは暗闇の中で強風に身をくねらせる、木々の影だけでした。
 「きっとこの嵐で送電線が切れたのだ。けれどもすぐ元に戻るだろう」
 同じく窓に歩み寄って来た彼が、そう応えました。
 やがて、扉の向こうから、人の話し声やばたばたいう足音が聞こえ始めました。私たちと同じように、夜更かしをしていた学生たちが、停電のことで廊下に出て騒いでいるのでしょう。その様子は、陽気で楽しげでした。ひとりであれば、私も廊下に出たかも知れません。ですが、窓際に立ったまま騒ぎもしない彼の様子に、何となく気圧されたのでした。出るな、ここにいよう、と言われているような気がしたのです。にぎやかな廊下とは扉一枚を隔てているだけなのに、この部屋には不思議な緊張感が張りつめていて、私はそれを壊すのを遠慮したのでした。まったくおかしな話です。

 闇はひととき、視覚を奪いましたが、間もなく私たちの目は室内に慣れました。雨粒を窓硝子に打ちつける強風は静まる気配もなく、その音は小太鼓の連打のように、ひっきりなしに鳴り響きました。
 どれくらい、私たちは無言でいたでしょうか──
 「こう暗くては足下もおぼつかない。蝋燭か何かないだろうか」
 不意に声を発したのは彼の方でした。
 「そうね。明かりをつけなくては」
 かすれた声で応え、私はそろそろと、すり足で戸棚へ近寄りました──暗いと、なぜ音を立ててはいけないと思ってしまうのでしょう。話し声はささやきになり、動きは神妙になります。暗闇は太陽と同じく神聖なものなのかも知れない、などと私はその時考えました。
 戸棚へ近づく時、彼の横をすり抜けるように通ったのですが、闇の中で彼の視線と体温は、先刻よりずっと強く感じられました。彼は私に、じっと注意をそそいでおりました。そのことに私は、胸が高鳴るのを感じました。それを気取られてはならないと、戸棚にたどりついた私は勢いよく、蝋燭ね蝋燭はどこだったかしら──と、ことさら明るい声を出しました。
 去年のクリスマスバザーで、町の子どもたちがドライフラワーだの光る釦だので飾った手づくりの蝋燭を、少し買ったのが残っていました。それを取り出して適当なところへ据え付け、私はマッチをすりました。
 黄色い、あたたかな光──一瞬にしてもたらされたぬくもりに、私たち二人は思わず歓声をあげました。蝋燭を中心に丸く広がる光は、先刻まで私たちが飲んでいた紅茶のカップや、お菓子の函、ほどいたリボン、散らばった本──それらを、このうえなく優しく、美しいものとして照らし出していました。
 「座りましょうよ」
 彼は声を出すかわりに微笑んで、それに従いました。私は、夢見るような気持ちで床に座り込みました。
 またしばらく、沈黙がありました──蝋燭の光はあまりに美しく、また魔力があって、私たちはそれに魅せられていたのでしょう。無言で、揺れる炎を眺めていました。廊下の騒ぎも、いつの間にかおさまったようです。それぞれの部屋に引き上げたのか、またはひとつ部屋に集まって、この夜をしのぐことにしたのかも知れません。
 ふと私は、先刻の暗闇の中で感じた、彼の視線について思い出しました。自分の胸の高鳴りも──ちらりと彼を見ると、彼は私のすぐ横に座って、私の顔を見ていました。
 「なあに?」
 微笑んで尋ねると、彼は膝の上で組んだ自分の手に目を落とし、こう応えました。
 「いや。こんな夜は、いいね」

 本当にそうでした。嵐の夜に、停電で、ひとつ部屋に身を寄せ合い、蝋燭の光のもとで語り合う──こんな夜を、私はきっとどこかで夢見ていたのです。明るい電灯がついていた時、夢中で語り合った興奮とは違う、静かに満ち足りた空気が私たちを包んでおりました。
 「君の手を見せて」
 彼が、その空気と同じくらい静かな声で語りかけ、私の手を取りました。
 「ピアノを弾く人の手って、みんなこんなに細いものかな」
 「さあ。わからないわ」
 「こうして触れているだけで、指先からピアノの音が聞こえてくるような気がするよ。水が流れるみたいに」
 彼はそう言いながら、私の指先を少し強く握りました。
 私はもう、何だか小さな少女のような気分になって、論理的思考は消え失せ、感覚と感情だけの素直な生き物になったようでした。私は、握られた指先を動かして彼の手に触れました。
 「あなたの手は、あったかいわ」
 「僕に触れるなら、胸だ。僕はいつも、空気を吸うみたいに、音が胸に広がる感じがするんだ。聴いた音は吸気になって、僕の腕や足を動かす。そんな気がする」
 そう言って彼は、私の片手を自分の胸の上に導きました。固く平らな、あたたかい胸でした。
 「動いてるわ。呼吸してる」
 「今、君の指から流れる音を聴いてるんだ。胸で」
 「嘘」
 私は笑いました。
 「本当だよ。手を触れたまま、僕の胸に耳を近づけてごらん。君の演奏が聴こえるから」
 彼を見上げると、その瞳は蝋燭の光に横から照らされて、きらきらと輝いていました。そしてじっと、私の目をとらえています。美しい光──私は、吸い寄せられるようにそちらへ身を寄せかけました。

 その時でした。
 私には一瞬、彼の背から白い光が発せられたと見えました。
 目をしばたたいてもう一度よく見ると、電灯がついていたのでした。
 天井から吊り下げられた、乳白色の丸い硝子灯は、真昼の月のごとく白々と嘘寒いような光を投げ、先ほどの闇はあとかたもなく消え去っていました。
 「ついた」
 「ついたわ」
 私たちは、間の抜けた声をほぼ同時に発し、ぼんやりと天井を見上げました。そして、お互いの顔を見合わせました。
 彼の顔──先ほどと寸分違わぬはずの彼の顔が、そのとき、妙に平坦でつまらぬものに見えました。私は、何を見ていたのだろう。何か思い違いをしたのだろうか──体中からじわりと、水のような汗が湧いて出ました。
 そしておそらく、彼も私と同じようなことを思ったに違いないのでした。彼の表情が、それを物語っておりました。そして、乾いた唇を開いて言いました。
 「電灯もついたし、僕はもう帰ろう。朝になる」
 その通り、窓の向こうをよく見ると、闇の色は少し淡くなり、紫色に変じていくところでした。
 そしてドアを静かに開け、彼は廊下の向こうへ歩み去っていきました。
 部屋を振り返ると、飲みかけのカップや空函やらが、床にみすぼらしく散らばっていました。しかし、もっとみすぼらしいのは、明るい部屋の中でほそぼそと炎を立てている蝋燭でした。つい先刻まで、それは暗闇に君臨する神秘の太陽であったのに。私は歩み寄り、そっと炎を吹き消しました。
 それが、この夜の終わりでした。

 あれから時は過ぎ、私も彼も音楽学校を卒業し、それぞれに旅立ちました。その後の彼の行方を私は知りません。
 私は今、日本で結婚し、幼い娘の母として日々を送っております。あの音楽学校で過ごした青春時代は、すでに遠いものになりました。
 それでも、娘を寝かしつけ、夫の帰りを待つひとりの夜に、時々思い返すことがあるのです。
 あの嵐の夜、もうほんの数秒、電灯がつくのが遅かったら、私たちはどうなっていたのだろう。それとも、初めから停電が起こらなかったら──

 今となっては、もう、それを確かめるすべもありません。



初稿 2015年12月2日
改訂 2020年3月12日

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