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ちーちゃんとめい[2] 恋に返る


「おばあちゃん。こちら、ちーちゃん」
「初めまして。森千尋です」
「まあ、千尋さん。どうも」
 芽衣の祖母──蓉子(ようこ)は、にっこり笑って小首をかしげた。

 千尋は今日、蓉子の家に初めて来ている。芽衣は普段からちょくちょく顔を出しているのだが、先日訪れたとき、蓉子が「組み立て式の椅子を注文した」とふいに言ったのだそうで、あわてて千尋が男手として連れて来られたのだ。あまりそういうことに自信があるほうではないが、頼られるのは嬉しいものだった。
「これこれ。配送屋さんにね、庭から来てもらったの」
 手招きされて家の中に入ってみると、庭に面した掃き出し窓の手前に、まだ開けていない段ボール箱がそのまま置かれていた。
「わあ、結構大きいね。もうおばあちゃん、こんなの買って私たちが来られなかったらどうするつもりだったの」
「どうするって、どうにでもなるわよ」
 蓉子は鷹揚に笑いながら、家のどこかで鳴り出した電話を取りに行った。
「まあ、そうかもね。おばあちゃん、結構モテるから」
 持参のカッターを取り出しながら、芽衣がひとりごちる。
「モテるって」
「人好きのするっていうのかな。最近、特にそうなの。なんだか、かわいくなっちゃった感じ──おじいちゃんが亡くなってから」

 千尋は、椅子というので家の中で使う椅子だと思っていたが、蓉子が注文していたのは屋外用のラウンジチェアだった。わざわざ来たのが恥ずかしくなるほど簡単に組み上がったそれは、白い人工ラタンがいかにもリゾート風で、蓉子は「素敵」と喜び、芽衣は「女優さんが座るみたい」とほめた。
「これにお布団を敷いてね、庭で本を読みたかったの。ほら、おじいちゃんの植えた百日紅(さるすべり)が、夏になると咲くでしょ。その下でね」
 千尋は、高齢の人に向かってかわいいと言うようなことは好かない。しかし、小さな白い顔をほころばせて、心から嬉しげな蓉子の様子は、かわいらしいと思った。
「私、これからはこの椅子といちばん一緒にいると思うわ。ここでお花の匂いをかぎながら、貴晶(たかあき)さんの夢を見たいわ」

 後片付けを済ませた芽衣と千尋に、蓉子は馴染みの店のものだという桜餅を振る舞ってくれた。蓉子が、食器棚の前で少し逡巡してから、深緑のガラス皿を選び取って淡桃(うすもも)色の桜餅をのせるのを見て、千尋はその美意識にひそかに感動した。
「美味しい。私、こし餡好き」
 芽衣の言葉に、俺もと心の中で頷く。蓉子は、また嬉しげにうふふと笑った。
「よかった。おじいちゃんがね、つぶ餡よりこし餡のほうが好きだから、お饅頭でもなんでもみんなこし餡を買っちゃうの」
 見れば、壁際のサイドボードの写真立ての前にも、桜餅をのせたガラス皿があった。
 気に入りの菓子。片付けられ、掃除の行き届いた部屋。玄関や窓辺に飾られた花。細身の体を包む、こざっぱりとしたワンピース。すべてが、亡き人の名を呼んでいた。

「大丈夫なのかな」
「なにが」
 千尋と芽衣は、帰り道が混む前に蓉子の家を出て、途中で買ったコーヒーを飲みながら車を走らせているところだった。
「いや、あの後もずっとおじいちゃんの話ばかりしてたからさ。なんだか──」
「やだ、ちーちゃんもおばあちゃんのこと好きになっちゃったの」
 突然突っ込まれた千尋は、あせってコーヒーを吹き出しそうになった。
「たぶんね、今のおばあちゃん、恋してるんだと思う」
 千尋が否定するより先に、芽衣が言葉を継いだ。
「おじいちゃんがいた頃は、あんなにおじいちゃんおじいちゃんっていう感じじゃなかったの。本当に普通の夫婦で、自然に一緒にいた感じ。だけど、亡くなって会えなくなったでしょ。それで今は、両思いが片思いになって、愛が恋に戻ったんじゃないかなと思うの」
 通い合わぬ人を、独りで想う。それは確かに、恋かもしれなかった。ひたすらに想い寄せ、恋い慕い、心は彼(か)の人のことばかり──
「かわいそうなのかもしれないけど、かわいいなともよく思うの。なにかというと、おじいちゃん喜んでくれるかな、見ててくれるかなって、口癖みたいに。ほら、だからモテちゃうんじゃない? 恋する女はきれいだっていうから」
 そして、ああしてしょっちゅう電話をかけてくれる人たちもいるのだから、きっと大丈夫、ありがとうと笑った。

 その後家に着くまで、千尋と芽衣は無言だった。
 どれほど固く手を繋いでいても、いつかは独りになる。それはもう、確定した未来だというのに、なぜ俺たちは一緒にいようとするのだろう。
 千尋は、想像する。そのときの自分を。
 たぶん、独りにはなりきれないだろうと思う。忘れられずに、想い続けているかぎり、「その人の隣にいる自分」は続くのだ。待ち合わせをしている人が、相手を待っているかぎりは、独りだけれど独りではないように。
 戻らぬものを想うことが、どれほど切ないことかわからない。しかし、その切なさは、どこか甘さを帯びているような気がする。芽衣の言うように、恋に似ているからだろうか──カーラジオで、アイドルが歌っている。
「永遠なんてないなら この一瞬をつかまえ続けていたい
 消えそうな夏の虹 追いかけて走るみたいに」

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