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雨ニモマケズ~静かなる挑戦状

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫な体を持ち
欲はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四号と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
良く見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
ちいさな茅ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにデクノボーと呼ばれ
褒められもせず
苦もされず
そういうものに
わたしはなりたい

私が宮沢賢治のこの詩を知ったのは小学校の時の国語の授業だった。

クラスの、たしか全員がこの詩を暗唱するということが課題となった。母が普段から詩の朗読が好きで、それを聴いて育ったせいか私も詩を声に出して読むことが好きだった。この詩を張り切って一生懸命覚えたという記憶がある。
子供心にこの詩は衝撃的で、その後の人生でもふとした瞬間にこの詩の断片が思い出された。そしてその度にDNAに深く刻み込まれたいくつかのフレーズを暗唱しては、この詩の持つ率直で力強い魅力の前で雷に打たれたようになった。
そんな時は決まっていつも、どうしたら何年もの間この詩のことを忘れて暮らすことができたのだろうという驚きとも怒りともつかないような感情を覚えた。そのくらい自分がおそらくは一生かけてもたどり着けないであろう、この詩の中の静かで断固とした人物像に絶望にも似た憧れを抱いていたのかもしれない。

なによりもまず、この詩のリズムに心を打たれる。簡潔に音楽的な韻を踏みつつ、まっすぐ心の中に入ってくる。なので子供の私でも書かれている言葉そのものはちゃんと理解できたが、その時はどうも不思議な詩だと感じた。それはこの詩の【決定打】とも言える有名な最後のフレーズのためだった。

皆にデクノボーと呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず、そういうものに私はなりたい。

なぜデクノボーなどと呼ばれたいのだろうと子供の私は思った。病気の子供や死にそうな人を助けるのはわかる。でも、ホメラレモセズ、クニモサレズとは?このごく一般的な価値観と真逆の考え方に惹きつけられた。はっきりとその理由は分からずとも、この最後のフレーズには何か「偉大な」意味合いが込められているに違いないという確信を持った私は、クラスでの朗読の時もこのフレーズに情熱を込めて暗唱した。
その時の私の直感は正しく、大人になってからもこの最後のフレーズを口にするたびに、あの時の朗読の授業で感じたと同じ陶酔が蘇る(もちろん今はそこに書かれた内容の奥深さに驚嘆しながらではあるけれど)。

私は別に仙人みたいになりたいと思っているわけではないし、むしろ大人になった私はSNSで自ら「ここにいるよ」と言わんばかりに発信などしたり、時には怒りを爆発させたり、何かをひとのせいにしたりして愚かに生きている。そんな怒涛のような日常のなかでこの詩を思い出すことは、人生で最も大切にしたいものの再確認であり、同時に弱い自分に対する起爆剤でもある。なぜならこの詩はまさに、今の世の中に対しての「静かなる挑戦状」であるからだ。

話は少しそれるが、私は昔から「世間の同調圧力」や、誰かから価値観を押し付けられると言ったことに対しては断固物申す派である。生きる基準とか幸福は、決して人から与えられるのを待つのではなく自分自身の中で作り出すものだと思ってきたからだ。
それにしてもいつから世の中の人々は見知らぬ人たちからの「いいね」を求めてこの不毛な競争の中に身を投じるようになったのだろうか?
それはまるで、昨日まで平和に暮らしていた農家の人たちに向かって「今日から芸術家になって美しい写真をたくさん撮りなさい。その方が楽しいから」と言って、彼らの手から使い慣れた道具を静かに取り上げるように、それが正義だと言わんばかりの風潮である。始末の悪いことにこの風潮は世界的な流れだった。こうしてごく普通の人たちの「いいね集め」が激化していった。

元来、人間と言うのは誰かに認められたい生き物だ。特に有名でない人たちにとってその機会は(少し前まで)試験やコンテストなどの例外を除いて家族や友人、もしくは知り合いがもたらしてくれた。でも、あの[Facebook]が世界中に行き渡ってからは、自分の「何か」が自分の知らない人たちによって認められる可能性が大きく広がった。
そう、不特定多数の人たちに。誰にとってもこれほど愉快なことがあるだろうか?これに目を付けた企業は、次々に私たちの「自己承認欲求」を満たすべく、ドーパミンスイッチを自在に操るビジネスを展開していったのだ。

顔の見えない「他人」の群れに向かって、ひっきりなしに世界中から矢が放たれるようになった今日、私たちはいったい何に希望を託しているのか?

そうだ。矢を上手に飛ばした者は多くの「いいね」を得ることになる。おそらく何らかのビジネスチャンス、そしてお金を得ることにも繋がるだろう。だから今日も地球全体が「わたし、わたし」と叫び続ける。私たちは文明という見ず知らずの武器を与えられたブッシュマンさながらに、大喜びでこの終わりのない戦いの中に無防備に飛び込んでいった。そうして10年。私たちはいったい人間としての成熟を見ただろうか?

 幻滅を味わった者はうつ病になり、成功する(と感じた)者はさらなる成功を求めて自己承認欲求を満たす競争へとひた走る。世界中どこにいても同じビジネス本、同じ健康本を読み、同じアラーム音で目覚める。もっと言うなら同じ店、同じ洋服。こんな毎日が私たち人間の成熟だというのか?成熟したのは科学技術であって、決して人間ではない。それは残念ながら反比例していくようだ。だって、自分を含め現代の私たちはどんどん賢治の世界から遠ざかっているではないか?

シャワーヘッドから豊富にあふれ出すお湯の温度が適切ではないと言って気分を害したりしているのだから、蛇口をひねれば安心して飲める水やお湯が出てくるような国があることを知らない人々の存在に気づくはずもない。便利さの恩恵にあやかりながらまた少し怠惰になる予感と共に、せっかく長い人生で身に着けた人間的能力をアーカイブにしまい込むとき(例えば手作業なら3分もかからないようなことをスマホで処理することでむしろ延々と時間がかかるようなとき)、もうひとりの自分が「人間を馬鹿にするな!」と叫ぶ。

断っておけば、私は科学の発展には人一倍興味がある方だし、新しいものは片っ端から試したい方である。でも「怠惰で安楽なことだけ」を追求するようになると、それは人間にせっかく備わった能力を鈍らせていくことになる。例えばスマホの画面をせわしなく操作しているとき、私たちは少ししか息を吸っていない。脳は次々とやってくる大量の情報を処理することにやっとだからだ(紙に何かを書いているときのような自由な解放感は得られないのである)。それならば、息をたっぷりと吸い込むことの素晴らしさをもう一度思い出そうではないか!

A.Iが逆立ちしても取って代われない人間の能力を今こそ発揮しなければならないと私は思う。それは賢治の詩に書かれている通りのシンプルで本質的な、ただ生きることへの愛であり、そこに頭で考えだした「目的」などない。私たちに特権的に与えられた「五感」すなわち嗅覚、味覚、聴覚、視覚に心から感謝をしてフル活動させる。それらが愛や発見に結びついていくとき、深い喜びが生まれる。私たちは必ずしも何かを実現したり達成したりしなくても幸せを感じることができる。

例えば誰かが喜んでくれる顔を見たり、美しいものを観たり、時には健康であることを自覚するだけでも幸せな気持ちになれる。そのような内面の充実は、かりそめの成功哲学なんかよりもよっぽど自分を強く感じさせてくれるし、何よりも自分を信じさせてくれる。 
今日に至ってなお、この賢治の詩が激しく私たちの心を揺さぶるのは、人間がどれだけの時代を経たとしても、私たちの幸福の本質はこのようにいたって素朴であり、これほど力強いものであるという事を示してくれているからではないだろうか?




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