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友はその階段をついに上れなかった

先日、中3の息子が訊いてきた。
「ひげ剃ったほうがえぇ?」

見てみると産毛のような口ひげがうっすらと。
あぁもうそんな歳なんや。
目をこらさなくてはよく見えないくらいだが、そやな剃ろかと言った。
身だしなみを整えるのは、モテるための第一歩。

息子は初めてシェーバーを当て、恐るおそるひげを剃った。
「大丈夫やで、横に動かさん限りドバーッと血が出たりはせんから」
よけいなひとことで息子の手はさらに慎重になる。

僕も確か同じ頃に初めてひげを剃った。
モテたかどうか…は今日の本題ではない。

そして息子のひげは、時間をかけてきれいになくなった。

…と突然、35年ほども前の情景がまぶたの裏に浮かんだ。

***

あれは高校受験を目前に控えた中3の冬。

毎年恒例の冬の学校行事として、マラソン大会があった。
明石公園の大きな池を周回するコース。

大会に向けて、3学期が始まるとすぐに早朝耐寒訓練があった。
始業前に30分ほど、全校生で校内のグラウンドを延々と走るのだ。
学校としては、大会そのものよりこの耐寒訓練がメインなのだろう。

ところが、大会まであと数日のところでとんでもないことが起きた。

いつものように走っていると、グラウンドの隅に人だかりができている。
何だろうと走りつづけたが、近づくと級友が倒れているのが見えた。
教師が人工呼吸や心臓マッサージをしている。
救急搬送された彼はしかし、あっけなく逝ってしまった。

くりくりの丸坊主に愛くるしい笑顔を浮かべる人気の少年だった。
彼はうっすらと産毛のような口ひげを生やしていた。
周囲が次々とひげ剃りを始める中、彼だけは頑なに剃らなかった。

「なんで剃らへんの?」
「剃ったら濃くなるからアカンて親に言われてて」

それが彼が亡くなる前日に彼と交わした最後の会話だ。

***

初めてのひげ剃り。
それは男子にとって大きな大人の階段の一つ。
もう後戻りできない一段、のような。

35年前の友は、その階段をついに上れなかった。
親に止められていなければ、彼もひげを剃っただろうか。

「ひげ剃ったほうがえぇ?」
息子がそう訊いてきた時、まだいいかとも一瞬思った。
「そやな剃ろか」と答えたのは、心の中の35年前の友かもしれない。

本人が剃りたいと思うようになった時が、階段の上り時――

(2022/1/20記)

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