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必然的帰結としての滝山病院

 東京都八王子市にある精神科病院、滝山病院の一連の報道及び特集番組のインプレッションについては別に記事にしてあり、本記事はその内容を踏まえてのものになる。主張の根幹を揺るがすほどではないとは思いつつ論理的な詰めが甘いのは重々承知だが、私の能力的な限界なのでご容赦願いたい。

問題提起

 本記事では、個々の支援機関が自己完結的な最適を志向するよう制度設計されており、組織のトップから個々の支援者までが概ねその制度内に留まり、ときに内面化している現状で、滝山病院の存在やその様態はある程度必然のものとしてたち現れる、というような所感を以下に述べる。
 また、本稿では、患者も家族も真っ当な支援を市場から調達するために必要な情報を全く持っておらず(情報の非対称性)、それ故に支援機関の言うことに全く無力で従順で、したがって善意且つ無過失であるということにしてある。もっとも、その前提が全面的に正しいとは、私は考えていないけれど…

貧弱な身体合併症治療環境

 報道によれば、滝山病院は精神科病院でありながら人工透析を行っており、関係機関から透析を受けている精神障害者の重要な受け入れ先として扱われていたようである。精神障害者の身体疾患治療が健常者と比べて非常に貧困であるという指摘は、いみじくも同じEテレがコロナ禍の旧都立松沢病院を取材した番組でも強調されていた点である。それでもまだ急性期であれば受け入れる総合病院があり、維持的な内科治療であれば精神科単科病院でも対応可能なことも多い。ただ、人工透析となると話は別で、おそらく都内で人工透析を受けている精神障害者の入院治療を受け入れているのはあと一箇所くらいしかないはずだ。しかもこれは急性期ではない。少し休息したいから、生活を建て直したいからといった急性期の入院治療のオプションはない。直ちに慢性期医療のみが選択肢になる。しかも、都内にほぼないオプションだ。あの病院はその一翼を担っていた。番組内で病院職員がインタビューに答えていたけれど、本当に選択肢がない。
 あの病院は、他の選択肢が潰えた人たちが自らを頼ってくると自覚していた。人工透析+精神障害の入院医療がブルーオーシャンであるにも関わらずどこも参入してこないと高をくくってきた。彼らにしか充足出来ないニーズがあることを自認していた。営業できなくなった場合の影響を考えて監査当局が忖度してくれることを学習していた。現に(番組の内容が事実であれば)患者を入院させるために行政当局が堂々たる不法行為をやってのけていたではないか。だから、あの病院はどこまでも増長できた。
 それと、入院患者の治療内容にコメントしていた医師たち、あなた達のところで受け入れましたか?断ってきた人たちはいませんでしたか?あなた達が受け入れを断ってきた人たちがその後どうなっているかに興味関心はおありですか?

入院しなくて済むのなら

 そもそも精神科の入院医療自体が間違い、という向きもあろう。実際にあの番組でも居宅に復帰した人がインタビューに答えてくれていた。実際にそういう活動はあり、例えば地域移行支援という障害者総合支援法上の事業として、精神科病院の長期入院患者を地域に送り出そうとしている。精神障害者が地域で生活し続けられるなら人工透析が必要になっても外来で受けられるから、あの病院固有のニーズはなくなる。これは個人的な感覚の話なのだけれど、人工透析のクリニックはほかの身体科の外来と比べても精神障害者の受け入れが良い気がする。実際にそれで地域生活が送れている人も多い。
 問題は、認知症や神経難病の進行、精神疾患の増悪などが起きて、地域生活が危うくなったときである。
 診療報酬で雁字搦めになっている医療機関を所与の前提にするのが好ましい論法とは思わないけれど、ともかく事実上は、透析患者が入院水準まで不調を来たしたとき、あの病院を避けようと思えば事実上居宅で生活してもらうしかないということになる。

 これは病との壮絶な闘いになる。透析が滞れば直ちに最悪の事態が近づくし、何しろ当人が困っていても必要なサービスが受けられない。それに、地域でなにかトラブルになればほぼ確実に役所に「なんとかしろ」と苦情が入る。その先は保健所、高齢者相談窓口、生活保護担当部署、障害福祉担当課、ケアマネなどに集まる。公的機関たる警察や消防からも「なんとかしろ」とお叱りを受ける。押し付けられた困りごとは、すぐさま押し付けられた人たちの間で押し付け合いが始まる。
 外来医療機関は「来ないと診れません」、訪問診療は「会えないと診れません」で終わり。誰かがオープンダイアローグしに来てくれることもない。あらゆる施設は状態が安定している当事者にしかその門戸を開かない。彼らは皆、制度設計上は何の責任もないが、それは彼らが特段怠慢だとかではない。この国には善きサマリア人の法はないからそれが最適な行動になるし、制度設計上の責務だけを全うする最適化は必然的にそういうアティチュードを導くからだ。こういうのは合成の誤謬と言い得るだろうか?
 しかし、現実には困っている人がいるわけで、そうして押し付け(られ)なかった支援者だけが徐々に社会からも組織からも孤立して、漏斗の内側を滑り落ちるように地域生活が少しずつ入院という選択肢に吸い寄せられていくのだ。それが都内の透析患者であればもう、そこにはもうあの病院しかない。

苦渋の決断が時を経て形骸化する

 今ひとつ指摘しておかなければならないことは、これまで書いたような処遇上の困難を突き詰めてたどり着いた苦渋の決断としてのあの病院が、代替わりや異動を繰り返すたびに形骸化し、いつの間にか困難を突き詰める膨大な過程だけが削ぎ落とされて一問一答式のように対応が決まることようになる、ということだ。
 当事者の人権侵害を最小化しつつQOLを最大化し、かつ制度的な整合性を確保するというのは一種のアクロバットで、制度間の調整はギリギリの綱渡りになりがちだ。それは確かに非効率かもしれないが、一方でマニュアル化にも限界がある。効率性を突き詰めると「あれもこれも試行してどれも潰えたのでやむなく」という話が「困ったら首長同意で医療保護入院」へと短絡する。ここでは担当者は非人間化されていて、目の前の当事者の来し方行く末や現在の困りごとへの関心、担当者としての実存的な責任感は抑圧されている。その結果が番組の放送と前後して行政機関相手に提起された訴訟だ。部外者には詳細な情報が入ってこないので実際的な当否については判断できないけれど、善意なら低レベル、悪意なら訴訟も不可避なやり方だとは思った。しかし現実には上等な支援と同じくらい低レベルな一問一答式ケースワークも跋扈しているように思う。

家族について

 家族についてはここには詳述しない。番組は"棄てる"側の主体に家族を含めていて、それはケースによって妥当なことはあり得るけれど、土曜の夜中にEテレなんて芋いチャンネルでやってる特集番組をわざわざ見てくれたであろう当事者家族たち相手のコミュニケーションとしては全く妥当ではないからだ。そして番組が指弾したかったであろう当事者家族があの番組を見ることはおそらくない。その点で番組には目的と手段の不一致がある。指弾とは基本的に、対象に対して個別に、問題のある箇所に限定して、具体的に、わかりやすく端的にする他ない。それ以外のやり方は常にデメリットが勝る。

帰結としての滝山病院

 ここまで述べてきたように、個々の支援機関や支援者が自己完結的な最適化を図り、自分たちと契約関係にない患者のニーズに対して責任を負わないというアティチュードが回り回って滝山病院の存在を確かたらしめていることがわかるかと思う。社会システムが特定のニーズを曖昧に棚上げするところに始まり、そのニーズを支援者が社会システム通りに無視しているという点で、私も含めた支援者とされる人たちは少しずつあの病院に連座していると言わねばならない。私の目には、支援者という人たちはひとたび自分が制度設計上の責任を負わないとみなした場所には無邪気に石を投げがちな存在のように、私には映る。
 しかし、支援者が全面的に無力で社会システムに無関心で政策に完全に従順であるという前提を立てない限り、これが棄民"政策"であるという主張は失当である。身もこころも忠実な政策執行者になった人ばかりでもないと私は実感する。形而上学の世界で生き長らえてきた人にはわからないことかもしれないけれど、上に書いてきたような最悪の支援にならないように必死に抗っている人たちがいることもまた、確かだ。社会問題を自分以外の誰かのところに最速で棚上げして全てを帰責するああいう性根こそ、あの病院の存在を裏書きしている。しかし、だからといってあの病院に無邪気に石を投げられるほどキレイな身上の人もそういるまい。私たち支援者という存在は、時に抗い、時に屈し、時に従う中で、あの病院のような度し難い行いに影響を与えているのだと、私は思う。

おわりに|本当に言いたかったこと

 あの番組に対する反応をリアルでもバーチャルでも見聞きし、そして早くも忘れ去られていく様を見たが、連座した存在としての私たち支援者は、自分以外の誰かに憤り、注文し、自ら論説を述べるその前に当事者に対して何か言うことがあるのではありませんか?と私は感じた(これが言いたいために4000字近く書いた)。だから、こんな大風呂敷を広げる前にわざわざ別の記事にしてあんな粗末なものを書いた。私が見聞きした人たち以外の中に、罪悪感、申し訳なさ、その他自分自身への名状しがたい感情を共有してくれる人がいれば、幸いというほかない。

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