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こころと脳機能障害

障害福祉における精神医学的心理学的知見

 障害福祉分野、特に精神障害に関連する分野におりますと、精神医学/心理学の知見は必要不可欠というか、少なくとも精神保健福祉士の養成課程で学ぶそれだけでは全く太刀打ちできないような困りごとに遭遇します。クライエント自身、クライエントを取り巻く人間関係、支援者同士や組織の考え方を理解しなくては全く仕事が成り立ちません。他人のことですからもちろん理解し尽くせるものではありませんが、自分なりに仮説を立てて検証を繰り返しながら事態が改善するかどうかをチェックし続けていくには、精神医学/心理学の知見というのはとても心強い味方、というかなくてはならないバディだと思っています。
 さらに言えば、その知見が自分自身のこころの動きや心理発達の経験に照らして理解したものかどうかも重要な点です。わたしたちのクライエントがしばしば誤解されていますが、人間には「理屈はわかっているのにこころが追いつかないので合理的な行動が取れない」ということがあるからです。インプットではなくアウトプットの問題であるというのも一部は心理学の知見ですね。わたしたちのクライエントは多くの場合、守るべきルールや社会規範など(たとえ表面的にはそう見えなくても)とっくに知ってはいるのです。確信的意図を持って反目するつもりもないのにそれに沿えないことが実社会と精神内界の両面でその人を苛んでいることを、わたしたちは見失いがちです。それと同じことが知識として理解する理論と"受肉した"知見という違いを以て支援者にも表れます。理屈ではわかっていても冷静になれない、穏やかな態度でクライエントに接することが出来ないということが心ならずも現実に起きています(ここまで書いてみると、そもそもこころの動きとして理解しようとしないのは論外ですね)。
 その中でも、支援者の実質的な理解が妨げられている典型的な例が脳機能障害に基礎付けられる現象ではないかと、わたしは感じています。

脳機能障害に基礎付けられる現象

 脳機能障害と一口に言っても色々な病気があり、その亜型や派生も含めれば膨大な数になり、重複はあれど現象も多彩です。わたしもそのすべてを網羅しているわけでは全然ありません。ですが、精神保健福祉に身を置く人間としては最低限、統合失調症と知的能力障害(場合により認知症、望ましくは高次脳機能障害)のアウトラインくらいは把握している必要があると思います。特に知的能力障害については、対人援助に携わる人であれば誰でも、その要点を掴んでいる個別的社会的利益は小さくありません。
 それらの障害は思考様式や対人関係のパターンに影響を与えます。それらは個々に了解可能なエピソードがあれど、俯瞰的に見れば非線形、特異的な状態にあります。だからこそ障害として位置付けられる訳です。目の前のクライアントが何らかの脳機能障害の影響を受けているという予断を持たずに(すなわちあるものをないとして)関われば、その対人関係は五里霧中となるでしょう。思路障害や抽象思考の障害についての推論を働かせなければ何が起きているかを支援者が掴むことは難しいでしょう。反対に、例えば統合失調症の「とんでもないめんどくささ(計見一雄)」を理解すれば、それが怠けではなく緩慢に進んでいる過程だとわかり、それが後出しではなく気持ちが言葉になるまでに時間が掛かるゆえのことだと了解できるわけです。障害を理解することは適切な対応や関わりに貢献します。わたしが医者でもないのに精神医学をかじっているのはそういう認識があってのことです。

障害福祉から見える脳機能障害

 障害福祉の領域で仕事をしていると、障害はしばしば高い壁として、クライエントと支援者の前に立ちはだかります。それをどう解釈するかは人それぞれですが、わたしにはときに乗り越えがたい能力の限界として認識せざるを得ない現象があります。障害は不条理なものです。だからでしょうか。にわかには乗り越えがたいクライエントの不条理を前にして、それをこころという文脈ではなく症状の枠組に押し込めてしまう向きがあります。まるでそこにこころなど初めから存在しないかのようです。わたしにはそれがどうにも看過しがたい対応に思われて、歯がゆい思いをすることがよくあります。ですがそういう対応の裏には、単なる無理解を論外にして支援者自身の絶望と諦めの顔をした我慢とが混沌と漂っている例が少なくないこともまた、わたしは見てきたつもりです。
 最近になって未診断の知的能力障害の存在が一部で持て囃されつつありますが、その言及はやはり自身の我慢と怒りを当事者に転嫁したものというニュアンスを強く感じます。そこに受肉した理解はありません。彼らには障害を理解して自分の側の対応を変化させる個別のインセンティブがないのでそれはそれでしょうがないところはあるのですが、プロの支援者の中にも同じ論調の方がいるのには呆れます。ともかく、知的能力障害に限らず障害の影響を受けていてもある言動をこころの動きとして了解することは十分に可能だということを、わたしは精神医学/心理学の知見から学びました。

心理援助者にとっての障害

 翻って、わたしの観測範囲における心理士の方のうち少なくない人たちが、障害が人間のこころの動きに与える影響に極めてnaiveである一方で、脳機能障害を持つ方の心理支援に対して冷淡な態度を取るように見えていました(精神科医とは別の傾向を認めます)。わたし達障害福祉の支援者がお付き合いしているクライエントの多くが構造的心理療法のクライエントとして見出されないことを、わたしは知っています。
 わたしは長らくそういう態度が面白くなくて、障害というものをわかってほしくて怒りをぶつけていました。恥ずかしながら公開済みのnoteにも怒りの残骸があります。ですが、ソーシャルワーカーとしてクライエントのこころに接するうちにわかってきたこともあります。

心理支援の適用範囲

  脳機能障害を持つ方の不適応や症状のように見える言動には、実際には心理的に了解可能なものが多くあることに、比較的早期から気付くようになりました。そして、了解の過程で用いる理路は心理学的なそれに依拠していました。今になって考えると、きっと心理士の方たちも同じように脳機能障害があっても適用できる考え方として心理学を用いているのかもしれない、と思うようになりました。障害があるからといって考え方そのものを変えたりはしないのだろうな、と。これはわたしなりの納得の仕方です。

ハイブリッドな理解を目指して

 高名な山中先生の言葉を引きます。

道太の「症状」や乱暴の原因を「頭に傷ができているから」といった次元で捉えている限り、おそらく道太の問題は解決されなかったでしょう。無論、だからと言って、私はそれらのいわゆる器質的(脳に実質的な原因をもとめるもの)な問題を無視したり、薬物療法が無意味だ、などと言おうとしているのではありません。器質的なものが、やはり第一義的な病気ももちろんありますし、その場合、薬物その他バックアップが必須であることは言うまでもないことです。むしろ、そうした援助があってはじめて、私がここで問題とする次元に立つことのできるケースも随分と多いのです。しかし、いつもそうした器質的な目でばかり見ていますと、いきおい、ことの本質を見誤ることもあるのです。道太の場合、なぜあのような「症状」が出ているのか、という「意味」が全く問われていないことが問題だったのです。

山中康裕『少年期の心 精神療法を通してみた影』(中公新書, 1978)

 かつてのわたしはこの記述が受け入れられなくて、名著と名高い本書を途中までしか読んでいません。改めて読み返してみると昔よりは受け入れやすくはあるのですが、わたしは(不遜にも!)この論理を転回して用います。すなわち、器質的な問題があっても心理的アプローチが有効であることは論を待たないが、心理的アプローチが有効であることを以て脳機能障害の影響を軽視/無視してはならない、ということです。
 心理学の本を読んでおりますと、そのフォーカスはあくまで「治す/良くする」ことに置かれていると感じます。これは精神医学とは明らかに趣を異にします。特定の脳機能障害にスポットライトを当てた論考においても同様です。少なくとも個人かグループくらいまでを対象範囲とした心理学は「治す/良くする」ことの価値と理論の体系とさえ感じます。だから「統合失調症は治る」みたいな言説が出てくるのではないか、と思います。
 少し脇道に逸れますが、脳器質的な慢性疾患である統合失調症と多様な背景から生じる精神病体験はきちんと区別しないといけないのですよ。精神病を体験した人が回復したことは統合失調症が治癒し得ることとイコールにはなりません。最近書店に行きましたら『サイコーシスのためのオープンダイアローグ』なんて本が出ておりました。オープンダイアローグ界隈は統合失調症と精神病体験を恣意的に使い分けている、というのが出始めの頃に訳書を読んだわたしの評価でしたが、サイコーシスなどと言っているのできっと今も同じでしょう。これをわたしは脳とこころに関する代表的な誤謬とみなしています。技法そのものは非常に優れたものだと思うだけに残念です。
 同様に知的能力障害の診断を受けてきた人の類まれなる思索の開花は、知的能力障害の限界突破より前に診断の妥当性を疑う話になります。脳機能障害を理解するとはそういう事です。精神疾患(障害)と脳器質的な問題との関連に科学的な曖昧さが残ればこそ、なおのこと目の前のクライエントに対して自分の持っている理論体系や志向がそのまま適用され得るのかどうか、検討が必要です。そこに支援者の祈りを投影すると難しい話が余計に難しくなってしまいます。

心理支援のハイブリッドなニーズ

記銘力障害や見当識障害は、たしかに「アルツハイマー型認知症」の脳の異常によって起こる障害なのですが、それ以外の「物盗られ妄想」や「作話」は脳の変化のあとに生じたふつうの人間の心理です。それらはすごく人間らしい心の動きであって、認知症は人間らしい心の動きが一番出てくる病気だといえると思います。(強調は引用者)

松本卓也『心の病気ってなんだろう? (中学生の質問箱)』(平凡社, 2019)

 わたしはこの考えを広く脳機能障害を抱えた人に敷衍して捉えています。先天的な障害においても当てはまるところの多い考え方です。 
 さて、ここまでに器質的な問題と心理的な問題は二者択一ではないということを申し上げてきました。今一つ、誤解のないように申し上げておきますが、わたしは脳機能障害を抱える人に対して一律に「治る/良くなる」発想を退けよと言いたいわけではないのです。心理的アプローチの志向性は常にハイブリッドであるべきです。それもまた二者択一ではあり得ないものです。あくまで脳機能障害の影響を強調するのが本稿の意図であって、「治す/良くする」志向以外にも心理支援のニーズはあるとわたしは申し上げたい。
 そもそも、福祉の人間が手弁当でやっているこころの支援のほとんどはそういうものです。障害を抱えて日々を生きるその人のこころを聴くことでその人が自分の存在を確認する。その要点はわたしたち支援者が障害を受容する、ということです。クライエントが、ではないですよ。支援者の「治す/良くする」ことに対する信念はクライエントを際限のない徒労に誘います。そのコストは決して安くない。わたし達自身がそこから半歩降りなくてはなりません。寛解という言葉に込められた意味に至らなくてはなりません。完治しない、治らない、障害を持たない人よりも手前に能力的な限界点があるという不条理を支援者が受容する。そうして初めて、障害と生活史やこころのあり方に裏付けられたクライエントという固有の存在を受容する可能性が生まれるとわたしは思います。
 不条理を抱える人たちが日々を佳く生きるためにその知見を用いることもまた、「治す/良くする」ことに引けを取らない大事な仕事ではないでしょうか。もっとも、その営みを心理療法と呼ぶのであれば本稿は最初から要らない話ではありますが…

おしまい


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