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福祉政策の当事者になる覚悟はあるか

 一つ前の記事で専門職が社会統制の手段となることを国家から期待されている、という話を書きました。書き出しに迷って眠っていたこの記事にちょうどそのあたりのことが逆サイドから書いてあったので、この機会にお出ししようと思います。本旨は「福祉専門職に政策の手段として働く覚悟があるか」ということです。タイトルままですね。

日本の福祉政策に不備は多い

 日本の福祉政策について管見の範囲で申し上げるなら、使い勝手が悪いということに尽きます。制度的には至れり尽くせりのように見えて、実際に運用したり適用したりする段階で制約の多さ、手続きの煩雑さが目につきます。給付額が硬直的で現実の市場価格に見合わなくなったまま聖域化されている例も少なくありません。障害年金はその最たる例の一つで、あれは障害当事者がどこかで受給を諦めて申請を控えるように差し向けられているかのようです。といっても、これは福祉政策に限った問題ではなくて、このようにあえて取引費用を高く設定することで仲介手続きという官製需要を創出しているのは福祉に限らず広範囲に見られる国家的な特徴でしょう。

福祉的なソリューションは常に拠出拡大

 手直しや見直しが必要な各種制度や、これまで制度から漏れてきた福祉的なニーズに対して、福祉業界のソリューションは常に「公的役割を拡大せよ」というものです。福祉的なニーズの主体はそのハンディキャップが財・サービスに対する支払い能力に及んでいることが非常に多いので、少なくとも短期的には市場からニーズを充足させる財・サービスを調達することが難しいのは確かでしょう。また、財・サービスの規模が確保できないようなマイノリティ性の高いニーズは中長期的にも支払い可能な価格水準で市場から調達することは困難でしょう。そういう意味で、専ら公的な拠出によって福祉的なニーズに対応させようと働きかけることには一定の説得力があります。要は、福祉政策による解決を重要視しているわけです。

 しかし、その福祉的なニーズがそもそも公的拠出を正当化するような内容かどうかは、福祉業界ではあまり吟味はされません。公的拠出の正当性、妥当性を検討することそれ自体に倫理的な意味を付与しがちです。もっとも、わたし達は少なくとも建前では当事者の立場を擁護する役割を負っており、その規範を内面化していることも多いから、ということもあります。だからこそ当事者性の希薄な層の目に触れる言論にもそういう角度がついてしまいがちですなのですが。
 また、特定の福祉的なニーズが市場から調達可能なのかどうかも、あまり吟味はされていないでしょう。わたし自身、社会的企業やSDGsを眉唾だと思っているフシがあるのでなんとも言えませんけれど、基本的に福祉業界の人は市場経済を資本主義と混同して一緒くたに嫌悪している向きがありますね。さらに、実際には福祉的なニーズを満たす財・サービスが市場から供給されている例が多くあるにもかかわらず、それらは本来公共部門が役割を果たすべき、という論調になりがちです。ここでは公的部門へのnaiveな信頼が内面化されていますが、本稿とは直接関係ないので割愛します。

福祉政策の担い手になる

 ここまでに、福祉的なニーズに対して福祉業界が全体的な論調として公的役割を選好しがち、すなわち政策による対応を志向しがちだという話をしてきました。なぜそこを強調するかと言うと、福祉労働者のほとんどはこうした公的拠出を活動の原資とすることで政策の担い手になっている、ということを明確にしておくためです。障害福祉サービスや介護保険サービスは元より、こども食堂でもシェルターでも公的拠出を受けてする財・サービスの提供主体は、必然的に拠出の裏付けとなる政策目的にコミットしたことになるわけです(よね?)。その意味で多くの福祉労働者は政策の手段、政策実行部隊という性質を帯びます。それを拒絶して公費を入れずに運営している団体もあるくらいですから、自分たちが政策の支配下に置かれるという認識はあり得るとわたしは考えます。
 話を戻しますと、福祉業界が専ら公的役割の拡大を以て福祉的なニーズの充足を主張するということは、つまり政策に対する福祉労働者のコミットメントを強化せよと言っているわけです。わたし達現場の労働者に政策の実行部隊になれ、と言っているのに等しい。

政策の実行部隊になる

 これまでnoteの場を借りて「政策誘導に従順な支援者」に対して苦言を述べてきたつもりですが、政策へのコミットメントは自然にはそういう方向に働くものです。紐のついていない公金はないので当然といえば当然です。わたし達福祉業界がほかの業界について厳しく批判するのと同じのとように、好きにしていい公金はありません。必ず政策にコミットするように働きかけられるし、コミットしているかどうかについての説明責任が生じます。これは例えば、自主事業に対して行政の予算措置が諮られるたびに繰り返されてきた歴史的現象です。その内容に納得できなければ政策を変えるか自主事業なり慈善なり私企業なりでやるかしかない。そういった非公共部門が公共部門に対するカウンターパートとして有力な規模を有していない日本の現状では、多くの福祉労働者は望むと望まざるとを問わず、政策の実行部隊として行政責任の一翼を担わざるを得ません。「やらされているだけ(行政責任を担ってはいない)」という被害者ポジションを取ることは、当局に対してはあり得てもクライエントに対して取れる態度ではありませんね。その点を否認してはなりません。だからこそ、政策をより実行的で有効なものへ変えていく必要があるわけです。わたし達一介の支援者が政策から自由に仕事ができるなら、政策を論じる意味などないのです。完全な服従を回避することはできても、完全な自由はありません。そもそも、一般的な福祉労働者が完全な自由を求めているかは疑問ですが。どうも「自分たちがしていることを公的に正しいことにしてほしい」という願望が見え隠れしているような気がします。

 繰り返しになりますが、望ましい政策が出来上がったときに誰がそれを実行するのかを考えれば、政策の意義は明らかです。主張して終わり、作って終わりではなく、わたし達現場の支援者がその実行部隊を担うのです。そうやってお金を握らされて行政責任の一端を担いでいるという自覚があるのか。担ぐ覚悟があるのか。

おわりに|公的責任という枷

 結局、わたし達現場の支援者は出来の悪い政策を担わされる被害者であり得ると同時に、その政策にコミットしている加害者でもあり得るのだとわたしは考えました(被害者/加害者という組み分けはあまり好きではありませんが)。わたし達福祉労働者が出来の悪い政策を批判するとき、その批判はブーメランのようにその政策に食わされているわたし達自身に返ってくるのではないでしょうか。公的役割の拡大がわたし達福祉労働者にはめる首枷について、もう少し自覚的になるべきではないでしょうか。

 


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