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父帰る

 突然、父帰るという菊池寛の小説を思い出した。
 実際、この作品を読んだことはない。
 むかしむかし、父が、中学で国語教師をしていたとき、クラスの生徒たちに文化祭で、演じさせたことがあった。
 当時、私は7歳ぐらいだったから、父は30代だったはず。

 父がオリジナルの台本を書き、当時、まだ出回ったばかりの大型のテープレコーダーを買い込み、自らセリフを吹き込んで、生徒たちに覚えさせていた。
 ときには、生徒たちの話すセリフを録音してテープを持ち帰り、母や私に聞かせて感想を訊いたりして、参考にしていた記憶がある。

 「父帰る」の舞台は、明治40年頃。かつて家族を顧みずに家出した父が、20年ぶりに落ちぶれ果てた姿で戻ってくるところから物語は始まる。
 母と次男と娘は、父親を温かく迎えたが、貧困と闘いながら一家を支え、弟妹を中学まで出した長男・賢一郎は、決して父を許さなかった。
 落胆した父は家を去る。しかし哀願する母の叫びに賢一郎は翻意、弟を連れて狂ったように父を追うと言うのが、大まかな粗筋だ。

その粗筋を、私は大きくなってから知ったわけだが、今も耳に残っているのは、最後に長兄役の生徒が、弟に父親を連れ戻してこいと、叫んだ声だ。
 全体のストーリーはもちろん、具体的にどんなセリフだったかも憶えていない。しかし漠然とした音の記憶だけが耳の奥に記憶としてある。最後のあの、鬼気迫る声で、父親を呼び戻すよう言った声、音のトーンが鮮明に…。

あのとき、幼いながらも、芝居とは、こんな風に作られていくのだと、声だけでイメージしたことを思い出す。

 ストーリーは、物語の根幹をなすものとして大事だが、それよりももっと大事なのは、誰に何を語らせるかだと思う。そして、そのイメージ、雰囲気をよくも悪くも膨らませるのが、演じるひとの声。

 声のトーンはどうか、品の良い声かそうでないか、滑舌はどうか、イントネーションはどうか…どんな声質かによって、役柄のイメージは微妙に変わってくる。明るい役柄だから、明るい声質がよいとは限らない、二枚目だからといって、二枚目の声がいいとも限らない。その役を演じる役者の内面が、声に表れていると感じられたとき、役を生きている生の声として、聴く側の心に響いてくるのではないだろうか。

 明日(10月30日)公開の『罪の声』という映画は、まさに「声」が重要な鍵となる映画だ。
 35年前、実際にあった犯罪に、3人の子供の声が使われていた。
日本初の劇場型犯罪と言われた、某菓子メーカを脅迫した犯罪である。
 それを新聞記者の目で、そして実際に、自分の声が使われた人物の心の葛藤、苦悩を描きながら、あらゆる立場の人間との関わり、絡み合いを織り交ぜながら、描いた作品だという。

 原作を書いたのは、塩田武士という元新聞記者の経歴を持つ作家さんで、相当綿密ね取材の元、この小説は書かれたという。私も映画化になるという話を聞き、読んだが、ボリュームの多さと、登場人物の多さに、当初は、読み切れるかと心配したが、読み進んでいくうちに、現実なのかフィクションなのかが分からなくなってしまう展開に、気がつくと一気に読み終えてしまった。

 あくまでフィクションなのだが、実際に、声を使われた子供たちは、描かれているような人生を歩んだような気分にさせられた。もしかしたら、本当にそうだったのではないかと思うと、胸が締め付けられるような苦しさがあった。同時に、もしあの時の子供たちが今、生きていたら、あってみたい、話を聞いてみたいとも思った。

 加害者ではない、むしろ被害者なのに、加害者にさせられる可能性は、SNSが氾濫し、匿名であるのが当たり前になっている今の時代、誰にでも起こりうる可能性を孕んでいる。
 いや、実際、そうしたことは、ありとあらゆる場面で実際に起こっていることを、私たちは忘れてはいないだろうか。原作を読みながら、そんなことを思い、考えさせられた。

 映画では、果たして、どんな場面が描かれ、どんなセリフが語られ、どんな結末を迎えるのか、今から観るのが楽しみだ。

 そういえば、あのとき家にあった、大きな箱型のテープレコーダーと、大きな円盤状に巻かれたテープは、どこへ行ったのだろう…

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