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荒廃した教育を復活させる一手『教育勅語』に学ぶ和の生き方(中編)~明治の先人たちはどのように教育を復活させたのか?~ー『日本人のこころ』3ー

こんばんは。高杉です。

日本人に「和の心」を取り戻すというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。




1月1日の「令和6年能登半島地震」に続き、
1月2日、
羽田空港で日航機と海上保安庁の航空機が衝突
炎上し、海保機の乗員が亡くなるという大変痛ましい事故が起こりました。
能登半島に支援物資を運ぶさなかで起こった事故ということで
なおのこと、責任をもって国のために尽くしてくださった誇りある方々の
尊い命が失われるということを考えるとやりきれない思いです。

その中で、私が気になったのは、
日本のメディアが、
「どのようにすればペットを救えるか?」
という話題ばかりで、
「どのようにしていれば海上保安官の方々のいのちが失われずに済んだのか?今後どのように対策をしていけばよいのか?」
に焦点を当てて話し合う言論人の声が聞こえてこないことでした。

いつから我が国は、
国のために命を懸けて働いてくださっている方をないがしろにして、
利己的な考えに至るようになってしまったのでしょうか。

大変悲しく感じるとともに、
教育の必要性をより一層感じました。

亡くなった方々にお悔やみ申し上げます。

資源の少ない我が国において、
「人こそ国の宝」だと思います。

今回は、
荒廃した明治の教育を
先人たちがどのように知恵を働かせて立て直したのか?

について迫っていきたいと思います。


最後までお付き合いいただけるとありがたいです。
よろしくお願いいたします。









西洋化、欧米化の弊害が一気に彷彿したのが、
明治20年ごろ
だったのです。

人々は金もうけに走り、
他人を追い落とし、
奪い合いの社会のような競争社会。
人々の心が疲弊し廃れる。
そのような社会になってしまいます。
欧米化、西洋化にのめりこんでしまった結果
国民の内面がすさんでしまい、
私利私欲にまみれたような状態になってしまいます。


なんだか、今の我が国の状態に似ていませんか?

では、

明治天皇をはじめ先人たちは
どのようにこの危機を乗り越えていったのでしょうか?

現代を生きる私たちだからこそ学ぶことができる叡智があります。

先に、結論から言ってしまうと、
過度な西洋化によって、教育が荒廃し、
明治20年にあまりにも人々の心がすさんでしまっているので、
「修身・道徳の根本規範」として、
『教育勅語』が出されることになります。

すると、ビシッと元通りに戻ったのです。

「やっぱりそうだよね!」
「明治20年ごろの俺たちはちょっと狂っていたな。」
「こんなの日本人ではない!」
「私たちが忘れていたものはこれだったんだ!」と。

皆が『教育勅語』を読んで、
感動し、「よし、やろう!」となったわけです。

まずは、
『教育勅語』ができるまでの過程について、お話をしていきます。


1)なぜ教育は荒廃したのか?~明治天皇が見た教育現場の実態~


明治19年
東京帝国大学やその他学校に明治天皇がご視察をなさったとき、
衝撃を受けました。

生徒は、
「化学」「物理学」「生物学」「法律学」「経済学」など
西洋のことは自信を持って次々に話すのに

「国学」「倫理」「漢学」等の科目が時間割に書かれておらず、
ひいては日本国のことを聞くと全然答えられない。

そのような場面をご覧になり


外国のことはたくさん学んでいるのに
大切な日本国のことは何も学んでいないではないか!

いくら「化学」「物理学」「法律学」「経済学」など
西洋の学問を学んでいても、

基礎となる「修身」や「道徳」がなければすべては砂上の楼閣だ!!


と危機感をもちます。




そして
明治天皇は、

この「明治維新」の偉業を成し遂げることができたのは
幕末に日本人としての気質、
人間として大切なものを持った日本人が
国家何十年、何百年先のことまで一生懸命考えながら
時には、命を落としながら、
身を粉にして「明治維新」を成し遂げてきたのだ。


ところが、
今の若者たちを見ていると日本の将来が危ぶまれる。
「国家観」もない。「修身・道徳」の観点もない。
ただ妙に、知識だけはある。

こんな若者が大人になって
はたして日本国の政治を行ったときに
日本国はどうなってしまうのか。
日本国は滅びてしまうのではないか。



と大変心配をなさります。



2)明治の先人はどのようにして教育を立て直そうとしたのか?



そして
危機感を持った明治天皇や日本政府は、
明治23年2月26日 
「全国地方長官会議」

といって、
全都道府県知事が一か所に集めて
一週間、「日本国の教育をどうするか?」を徹底的に議論しました。

それほど、日本の教育が荒廃していて
何とかしないと日本が滅びてしまうという危機感の中にあったのです。

話し合いの中で、

「天皇陛下から修身・道徳の根本規範をお示しいただく。
これが一番よいのではないか?

文部省あたりがなんとかできる問題ではない。これは、天皇陛下から修身・道徳の根本規範をお示しいただく。
これが一番効果があるのではないか?」

という結論に至ります。




これを受けた芳川顕正文部大臣は、
最初、
英国人サミュエル・スマイルズの『自助論』の訳本『西国立志編』を著した東大教授・中村正直
草案の作成を委嘱しました。


しかし、
出来上がったものは、
「天を敬う心は…」
「わが心は神のやどりする所にて天と通ずるものなり…」
「天を畏れ、天を敬うには、まずわが心を正常にして誠実なるをむねとせよ…」
など、言っていることは正しいのかもしれませんが、
「天が…」「天を畏るるの…」と神父さんの説教を聞いているかのようで、かなりキリスト教的なものでした。




文部省は、この案を採用し、
法律上の整合性をチェックするために法制局に送りました。

その当時法制局長官を務めていたのが、井上毅(いのうえこわし)でした。

井上毅は、この案を読んで、ぶち切れました。

なんだこれは。
これではだめだ!あかん!


と叫びました。
そして、
筆を執って、当時総理大臣を務めていた山県有朋に伝えたのです。

この井上毅はかなりの秀才で
歴史上の天才の5本指に入ると言っても過言ではありません。



3)『教育勅語』はどのようにして作り上げられたのか?~天才・井上毅の偉業~



井上毅を初めて聞かれた方もおられるかもしれませんが、
このお方は、『大日本帝国憲法』を起草された方です。

近代化を成し遂げようとする過程で、
我が国は『憲法』をつくることにしたのですが、
明治天皇から
「西洋の憲法の仕組みは取り入れるが、
内容は日本的なものでなくてはならない。」
ということを伝えられていました。

そして、
初代総理大臣である伊藤博文から
アジア初の『憲法』の起草を任されたのが井上毅なのです。

井上毅は、
『古事記』や『日本書紀』をはじめとする
我が国に関わる膨大な本を読み込みました。


「日本とはどのような国か?」


この壮大な問いに答え、
憲法の冒頭に日本国の国柄を簡潔に書くためです。

2000年以上続く我が国の本質を
たった2、3行で簡潔に書くことは神業と言ってもよいでしょう。

そして、
この難題に立ち向かった井上毅が絞り出した答えが次の一文でした。




「日本帝国万世一系ノ天皇ノ治ス所ナリ」


井上毅日本国家の根本原理がここにあると確信しました。

治(しら)ス」
とは、
『古事記』の天孫降臨の神勅にある「知らす」から来ています。

「知る」を語源としており、
民の心、その喜びや悲しみ、願いを知ることである。
そして、それは民の安寧を祈る心につながる。

この「治(しら)ス」は、現代でも体現されています。

例えば、
東日本大震災に関して、
天皇皇后両陛下は何度も被災地を訪れ、避難所でひざをつき合わせて、
被災された方々の声を聴かれました。

被災された方々は国家を象徴する天皇陛下に
自分たちの苦難を聴いてもらうことで
自分たちは孤立しているのではない。
国家国民に心配されているのだ、と勇気づけられました。
また、
そこで明らかになった被災された方々の苦しみを少しでも軽減しようと、
自衛隊や警察、ボランティアなどの人々が救助活動を展開しました。

これが、
「治(しら)ス」による国家統治の原風景なのです。



話を元に戻します。

井上毅は中村正直案に対する課題を具体的に示して、
総理大臣の山県有朋に送りました。


・第一に、この勅語は普通の政治上の勅語と同一であってはならず、
 今日の立憲政体の指示に従えば、
 君主は臣民の良心の自由に干渉すべきではない。
→天皇が「このようにあるべき」「このように感じろ!」というように
 国民に命令するような体裁であってはいけない。


・第二に、「天を敬い、髪を尊ぶ」という言葉は、宗教上の論牢を引き起こす種になるため、用いるべきではない。
→「天」とは何を指すのか。天照大神であるならば、
 キリスト教徒の私はどうすればよいのでしょうか。
 仏教徒はそもそも点を敬いません。

 ということになってしまう。
 キリスト教、仏教、儒教、神道のいずれを進行する人々にも、
 等しく受け入れられなければならない


・第三に、哲学上の理論は、必ず反対の思想を引き起こすことになるため、君主の命令によって定めるものではない。
→天皇はこのように言っているが、
 この点はこのようなものであるためおかしい。
 と学者から反対されるような内容ではよくない。

 だからこそ、哲学上の言葉は用いるべきではない。

・第四に、政治的な臭みのある言葉は避けるべきである。

・第五に、漢学者的な口癖や、洋学者的な性格の言い方をしてはならない。

・第六に、君主の訓戒は、往々として大海の水のようなものでなくてはなら
ず、愚者を戒めるような言い方をしてはならない。

・第七に、各派の宗教の一つをよろこばせて、他を怒らせるような表現をしてはならない。


このように述べたうえで、

文部省の立案は、そのていを得ず、
如是、勅語はむしろ宗教または哲学上の大知識の協議に類し、
君主の口にいずべきものにあらず。
世の人、またその真意志尊の精神に出でたることを信じて感激するもの少なかるべし。



明治天皇の名前で出す以上、
それを読んでなるほど!それをやろう!と思わないと意味がないのです。
反発や反感が出るような内容ではいけないのです。




そして、
その手紙を受け取った山県有朋は、

「なるほど!それはそうだな。あなたの言うことは正しい!」

「やっぱり法制局長官が立派な人だといいね…。
よし…。じゃあ…。お前が書け!」

ということになったのです。(笑)

この時
井上毅は、
『大日本帝国憲法』を書き終えて、
ヘロヘロになっている状態だったのです。

もう生涯最大の仕事は終わったと思っており、当時47歳です。
明治時代の47歳ですから、もう引退直前でした。

でも、当時井上毅以外に『教育勅語』をかける人はいません。

そして、書くことになりました。

結局、
『大日本帝国憲法』も『教育勅語』も井上毅が書いたのです。

たった一人の秀才がいるだけでこのように正されていくのですね。

本当に、井上毅でよかったです。


このようにして、
明治天皇の師である元田永孚(もとだながさね)に支えられ、
金子堅太郎から助言をもらいながら、
明治天皇とともに考えながら、

明治23年10月30日に
『教育二関スル勅語(教育勅語)』を作り上げたのです。

日本国が近代化して、
弱小国だった日本国が明治時代を通じて、
世界に誇る経済大国に一気に躍進し近代化を成し遂げていく。

その原動力となったものが

『大日本帝国憲法』と『教育勅語』です。

そして、

この二つの原動力を明治天皇と一緒に作り上げた人物が

井上毅(いのうえこわし)なのです。



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国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。

極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。

昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。

その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語修身教育を廃止させたのです。

戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。

しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。

道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。


「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。

教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。

教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。

教育とは国家戦略。

『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。

「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。

江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方について
皆様と一緒に考えていきたいと思います。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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