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小説:出づるも 息をもつかせぬ

※ホラー小説です。 人を不快にさせるような描写があります。


序章

 紙をクシャクシャに丸め、勢いよく後方に捨てる。
 同じ文を書き始めては、そして同じ場所で万年筆を止め、頭を掻いて、紙をくしゃりと丸める。
 後ろに放り、事前に準備していた新しい用紙に手を伸ばす。

「君、ねぇ君。PERFECTIONISMという言葉を知っているかい。今の君にぴったりな言葉だと思うのだよ」

 お偉い作家さんが出来上がってもない作品を見て、優しい瞳でそう言ったのを覚えている。
 自分はあまり賢くないのでわざわざ「はい、そうですか」と答えてから家に戻り、そして辞書を引いた。
 完璧主義者。
 そうか、そうだな。よく浴びる単語だ。耳にタコが出来るほど、それを言う人間が嫌いになるほど聞いて、浴びて、そして身に詰まった。
「君の文は綺麗だよ。だけれど、ようく考えてご覧。完璧過ぎるものには、やはり完璧過ぎると言う欠点があるものだ。欠点が、どこか完璧ではない所があるからこそそこに魅力を感じると私は思うのだがね」
 今日もその作家さんはがやってきてわざわざそう言っていた。意図は分からないが、それでも「はぁ、そうですか」と答えると、彼は益々口を動かした。
「人間も同じさ。欠点があるからこそ、面白いと思うものだよ」
「……。はぁ。そうですか」
 君の文は綺麗なのだがね。と付け足して、彼は書きかけの原稿を置いた。感想を頂けたからそれ以上は望まないが、結局は”それきり”なのだ。
 紙をクシャクシャに丸めては捨てる。
 それを勿体無いと女が言い、拾い上げるのを憎らしげに見る。そのインク滲みの出来た紙きれで何が出来るのか。ちり紙とてんで変わらないあれは、料理カスを置くためか、はたまた埃を置くためか。けれど、そう考えている時間が惜しい。
 これが売れなければ死ぬしかなかろう。
 なにせこれが売れなければ金の当てもない。借りるにはプライドが許さず、他の仕事はこうもひ弱だから出来そうにもない。
 死ぬために一度は縄を買ったが、それを吊した時点で怖くなった。
 生きるために筆を走らせるのか、死ぬために筆を走らせるのか、もはや分からない。
 そして今日も彼から言葉を貰う。
「嗚呼。これはダメだよ。リアリティというものが必要なのだよ。何事にもね」
 先生はそう言って、その原稿用紙を投げ捨てた。ヒラヒラと原稿用紙は舞いながら畳に広がった。書生はそれを悔しそうにしながらもかき集める。
 必死に、必死に書いたのだ。それこそねる間も、食べるのも惜しんでひたすら筆を握り、丹精込めて書き続けた。それでも、ダメなのだという。ページすら捲らずに先生はそう吐き捨てたのだ。
「リアリティ、ですか」
 悔しさに回らぬ舌でどうにか、理解を示したと態度に出す。はたして頭では理解しているのかと言われれば、けっしてそうではないだろう。ただ、ただ悔しかったのだ。
 書生は時代劇を書く。
 侍の話だ。
 侍が自分の義のために生涯を貫く話。そこに甘ったるい恋愛話も無ければ、都合の良い展開もない。
 ただ血と汗で出来上がった作品だ。それは、読者の心を惹きつけ、そして人生とはなんたるかを考えさせる物になったに違いない。
 目の前のジジイに捨てられなければ。
「リアリティですか」
 ギリギリと奥歯を噛み締め、腹の底からボソリと恩讐と共に言う。
 それを先生というのは「そうだ、はたして一介のキミに分かるかね?」と笑って言った。

先生

 小鳥遊たかなしと言う男は、書生である。彼の書いたモノは世に出ていない。行き着く先は、良ければ引き出しの中にしまわれ、悪ければちりかごの中にしまわれる。
 昨日も、一昨日も垣谷先生からダメ出しを貰い、原稿がただの紙切れになった。赤を入れろとお願いすれば「自分で考えてみたまえよ」と答えられる。
「赤を入れる時間が勿体ない」
「赤を入れたら、それこそこの原稿は赤に塗れてしまうよ」
 といった、痛烈な言葉の度、小鳥遊は目の前の男を殴りたくなる。頭を下げて原稿を抱えて部屋に戻り、原稿を破くことも丸めることも出来ず引き出しにしまう混む。
 何度やめようと思ったか分からない。逃げることも楽なのだが、小鳥遊は小説家になるためはるばる上京してきたのだ。
「文豪になって帰ってくるき、まっちょれよ!」
 家族にそう豪語し、家を飛び出してきた分戻る事は難しい。
 両親は健在で、年の離れた頼もしい兄や姉が弟たちがいる。実家の方は安泰で、それに小鳥遊は三男坊だ。甘やかされて育ち、厳しくはあったが祖父母にも応援されてきた。だから余計にこの現実に打ちのめされていた。
 今日こそ先生から良い言葉を聞けたら良い。
 面白く無さそうに「いいんじゃないかね」と言われるならば万々歳だ。残念なことに小鳥遊は先生からそう言われたことが今の今までない。
 仲間が垣谷先生に言われたのを偶然聞いていたのだ。否定しか出来ない男だとは思ったが、実際の所負けず嫌いで根性のねじ曲がった男だ。つまらなさそうにすればするほど、あの笑みさえ消せればいい。
 だから、今日こそ先生を驚かせると思った小鳥遊は、聞こえた声に思わず廊下で足を止めた。
 来客が来ていた。
 先生の古い友人は飯塚隆と言った。
 やはり先生と同じ文字を書く人で、こちらは本当の先生というところか。どこかの雑誌によく寄稿しているという。
 話には聞いていたが、やはり類は友を呼ぶというものだ。二人は煙草を呑みつつ、「最近の若いモノは文芸というのを分かっていない」と熱く語っている。
 それだけでもげんなりするというのに、今回の話はどうやら小鳥遊の事だった。
「アレはね。奇妙な副業をしているのだよ。私が仲介をしてやっているのだけれど、それなりに働けるモノでね。そうでなければこんな所に置かないよ。だって、キミ。あれは幽霊を見るという、ココが少しばかりおかしな者なんだよ」
 垣谷先生はそう言って、煙草を置くと自分のこめかみ付近で指をくるくると回して見せた。ソレを見て飯塚がふふふと笑う。
  それを聞いた小鳥遊は、体が発火したと錯覚した。目の前が真っ赤に染まり、怒っているというのに、頭はみるみるうちに冷えていく。
 静かに興奮したまま、というのは妙だが、小鳥遊は静かに障子を開けると驚く二人を見て火鉢を蹴り上げた。運良く火鉢は使用されてなかった為、火事になることは無かった。が、灰は畳に広がった。
「先生はわしの事をそう思うちょったがか」
 小鳥遊の声は、自分が思った以上に冷静だった。
 心臓がバクバクと鳴り、理性は「やめろ。ここで暴れては小説家人生の終わりだ。実家に戻って後を継がなきゃいけないんだぞ」と叫ぶ。が、感情はもう駄目だった。
 小鳥遊をせっついて「殴れ、殴ってしまえ! 何のために今まで耐えてきたんだ」と叫ぶ、叫ぶ。
「先生。仲介料をちょろまかしちゅう事をわしゃよう知っちゅう。それでいて、わしに「金を寄越せ」言い寄ってきちゅうよね」
「小鳥遊君! 無礼じゃないか!」
 灰と小鳥遊を交互に見ながら垣谷が叫んだ。普段ならその声量に身を縮める小鳥遊だが、今はそんな様子を一切見せない。
「無礼や言うがはそっちやないか? なあ、先生。わしゃ我慢しちゅう。「あがな仕事はもうせん」と、わしが散々言うても無視をするがは先生やよね」
「小鳥遊君!」
「おまん。おまんも変わらん。厭な臭いがする。何人踏みつけてきたか知らんが、わしには分かる」
 小鳥遊は来客である飯塚を見て鼻で笑った。
 この時代、身長が百七十センチというのは大きい方だ。だからこそ、飯塚は顔を青くし、小鳥遊と彼の先生というのを交互に見ている。
「今までわしがここに居ったことを感謝せんといけんな。先生。誰があんな恐ろしいことを解決してきたのかということをしてきたか忘れてしもうちゅーようでは、いけんよ。わしゃ出て行く。こがな、こがな人が腐ったような所、臭うて適わんき」
 垣谷の声を無視し、小鳥遊はわざと足音を立てながら自室に戻ると数少ない自分の荷物と原稿を持って家を飛び出した。
 立腹する垣谷の隣では、顔を青くし手を震えさせた飯塚が
「垣谷君。彼は、彼は、あのことを知ってはいないんだろう?」
 と篩える声で尋ねた。
 
 厭なことを思い出す。
 目を射貫くような厳しい西日。
 影になって見えなかった彼の顔。
 それが自分に向けられた純粋な悪意と知ったとき、飯塚はその場に座り込んだ。
 どんよりした黒い目が訴えている。
 陰気で、口下手なくせに紙の上では饒舌だった彼が、今度は目で、腐臭で、この狭い六畳間で訴えている。


 
 小鳥遊は興奮したまま呑み友達の元へと転がり込み、昼間から酒を浴びることにした。友人も小鳥遊に会わせて騒ぎに騒いだため、酒瓶は次から次へと空になる。
「あ?」
 気がつけば、朝になっていた。
 どうやら友人は仕事へ出掛けていたらしい。居間には小鳥遊一人が寝転がっている。
「どいて声をかけざったんだ?」
 小鳥遊はそう呟いて昼まで寝直した。
 流石に寝過ぎたため、ゆっくりと目を開ける。
「どいてあんな事をしたがじゃろうなあ」
 今更、後悔が押し寄せる。だが、昨晩残った酒を飲めば、そんな事どうでも良くなってしまった。
「長居してすまんかった。旦那にもよろしゅう言うちょいとーせ。お邪魔した」
 どうにか怒らないよう感情を殺している奥方に、心にも無い詫びを入れた後、小鳥遊はつい癖で五条椿の家へと向かった。

 五条椿という女は変わっている。
 年頃の娘なのに未だ伴侶を作らず、ただ延々と手製のお守りを売っては家計を助けている。
 生まれつき両足が悪く動けないので、彼女はよく小鳥遊の奇妙な話を強請った。上京して少しも立たず彼女に出逢い、こうしてずるずると世話になっている。小鳥遊は刀が仕込まれた赤い番傘を抱きながらふんふんと口ずさみながら
「おう、お嬢ひいさん! わしが、小鳥遊が遊びに来たぜよ」
 と、言い玄関を開け、そして中から聞こえる怒声に危うく傘を落としかけた。
「アンタみたいなインチキ女が!」
 椿の者では無い女の声が聞こえた。
「おやめください!」
 次に聞こえたのは、椿の侍女初子のものだ。
 只事では無い、と酔っている小鳥遊にも理解出来た。
「どいた、お嬢ひいさん!」
 小鳥遊は下駄を脱ぐことも忘れ、荷物を放り投げ廊下へ走る。そこには長い髪を掴まれ部屋から引き摺り出されている椿が目に入った。
 カッと全身が熱くなったのを小鳥遊は感じた。
「おんしゃぁ! 何しゆうがじゃ!!」
 小鳥遊はそう叫ぶと、夫婦と思わしき中年の男女に掴みかかった。二対一ではあるが、日頃から喧嘩慣れしている小鳥遊とただの中年夫婦では話が違う。
 男に渾身の蹴りを食らわせ、未だ椿の髪の毛を引っ張る女の頬を容赦なく叩く。ようやく解放された椿を和室へ押しやる。
「なんだテメェは!」
 と、叫ぶ男に
「おんしらこそ何しゆう! こがな病人に暴力を振るうてええとでも思うちゅーのか?」
 小鳥遊が言い返すも、頬を打たれた女もめげない。
「この女は高額でインチキなお守りを売ろうとしたんだよ! 信じられない! あんな、あんな見っともない布の切り貼りに!」
「なんじゃと!」
「ええ。ですから、お帰りください」
 興奮して怒鳴り合う中、静かに椿がそう言った。
「私のお守りが要らないなら、それで結構ではありませんか。私にはそれくらいしか出来ません。お帰りください」
「なんだと」
 と、男がまた椿に近寄ろうとしたため、小鳥遊が一歩前に出る。先程の蹴りが相当痛かったのだろう。男は、憎々しげに小鳥遊を睨んだまま動かない。
「私はね、大川先生の伝手で来たんだ。先生に泥を塗る気か?」
「そんな方など知りません。私にはなんら痛手になりませんよ」
「しらばっくれるのか」
「私は足が動きません。だから、どうお金を積まれても、脅されても、あなた方のお宅にお邪魔するなど出来ません。頼る相手を間違えています。お帰りください」
「君は私を蹴り、妻を殴った。これは傷害罪だよ。そうでなくても、君。あのお嬢さんが豚箱いきになってもいいのかね? 私はどうとでも言えるのだよ」
 男の言葉に小鳥遊は自分の目が痙攣するのを理解した。言っていることは正しい。椿を引っ張ったのはあちらだが、やりすぎたのは小鳥遊だ。
「難しいことは言わないんだ。再来週、私たちの蔵で一晩過ごせ。そうしたら許してやるよ。私は政治家の先生と仲が良くてね。知っているだろう? 大川先生を」
 それを聞いた小鳥遊はわざとらしく「はん」と笑って見せた。
「何を頼むのか思うたけんど、そがな事か。ええ。わしが行っちゃる。たかが、倉の一晩、二晩、わしになんちゃあ問題ない。おまんらが出来な(でき)いでびいびい泣いて情けのうて可哀想になる」
 小鳥遊がわざと戯けて言うと、女は般若のような顔を浮かべ、男は更に笑みを深めた。
「ええ。小鳥遊様の言う通りです。彼はやれますよ」
 椿が断言した。
 普段の彼女ならば、きっと止めただろう。自分が悪かったから、小鳥遊は行かせられないと、代わりになんて出来ないと。だが、彼女はまっすぐ二人を見た。
「小鳥遊様はお優しい方ですが、私は許しませんよ」

憤怒

 石川夫妻の家には、おかしな風習がある。
 一晩、離れの倉に泊まらなければならない。十年に一度の儀式は、今回は息子達が出稼ぎに行って行えず、やむを得ず椿に声をかけたという。
 椿はいつもの通りお守りを作り始めたが、夫婦の依頼というのは椿が一人で倉に泊まるということであった。
 勿論、両足の悪い椿はその申し出を断る。
 普段から外出さえも許されず、常に部屋の中に居る彼女だ。いくら金を積まれても行けないと言った彼女は事実を言ったまでのことである。だが、夫妻はそれを許さず押し問答は続き、あのような蛮行に至ったというのだ。
 そんな椿は静かに怒りながら、黙々と小鳥遊の為に特製のお守りを創っている。
「今回は特別なお守りを創ります。終わりましたら回収しますので、どんなことになろうとも捨てないでくださいね」
「けんど、お守りが破けたり」
「破けませんよ」
「汚れたり」
「汚れませんよ」
「無くしたり」
「無くせませんよ」
 椿は今まで見た事のない笑顔を浮かべた。
 それがあまりにも恐ろしく小鳥遊は二度も、三度も頷く。今まで椿がこうも怒った姿を見たことが無かった。いつものような美しい顔のまま腹の中ではこうも怒りに煮えたぎっている。
「小鳥遊様はどうぞお隣の部屋に待機して居てくださいね」
「いつもみたいに此所におられんのか?」
「はい。今回は特別なので」
「お、おん」
「それと、小鳥遊様。どうぞお脱ぎください」
「は?」
 小鳥遊は驚いて椿を見た。
「は、え?」
「その褌、着物にそれぞれお守りを縫い付けます」
「いかん、いかん! お嬢さん! そがな、えい年したお嬢さんが、どいてわしみたいな――……」
「お召し替えは隣の部屋にありますので、それに着替えてください」
「椿! わしの話を――……」
「小鳥遊様」
 その声に、小鳥遊は心臓を捕まれたような錯覚を覚える。
 とても、とても恐ろしい。
 蛇に睨まれた蛙。とはこのことで、猫に見つかったネズミもこのような気持ちなのかと悲観する。
 先程までの勢いなどとうに消え失せた小鳥遊は「ちょうど着替えを持ってきちゅー。やき、そっちの褌を使うとーせ。」と言うのが精一杯だった。

 2

 隣の部屋に入った小鳥遊は、いつものように横にすらなれず、ただぼんやりと机に置かれたお菓子を見ていた。
「小鳥遊様」
「おう、初子か」
 部屋に入って来たのは、先程懸命に石川夫婦の蛮行を止めようとしていた椿の侍女、初子だ。右目に大きな青アザを貰った初子は、深々と頭を下げた。
「私が不甲斐無いばかりにご迷惑をおかけしました」
「ええや。言い出いたのはわしだ。初子のせいやないき、顔をあげ」
「ですので」と、彼女は続ける。「必ず、必ずや貴方を無事に帰して見せます。お嬢様が、彼らを許しません」
 頭を下げたまま彼女はそう断言する。気圧された小鳥遊は、とりあえず頷く。
「初子。別にわしゃいつも通り上手にやるつもりやき、そがに力まんでええ。ただ、一つ頼みがあって」
 と、小鳥遊はようやく先生との間で起きたことを伝えた。
「かまいません。次の新しい宿が見つかるまで五条家が面倒を見ます」
「すまん」
「ただし、いくつか約束事があります。日が暮れたらお嬢様にお目にかからないでください」
 それは逢い引き、はたまた夜這いを懸念しているということか。小鳥遊は驚いて「当然や」と繰り返す。
「それと、この家に居る間は決して誰とも縁を作ってはなりません」
「縁を作ってはならん? やけんど、友達の一人や二人――……」
「いいえ。愛人なり思い人なり、そういった関係です。勿論、女遊びもいけません。子供をここに連れてくるのもなりません。お嬢様は――……」
「分かった。それ以上、言わいでええ」
「お酒を呑んでもかまいませんが、煙草はなりません」
 それもきっと椿に害を成すからだ。と、小鳥遊は納得する。
 難しい決まり事かと思ったが、結局のところ、この屋敷は椿中心で回っている。言うなれば、彼女を不機嫌にさえしなければ良いということだ。
「約束する」
「必ずお守りくださいね」
「おん」
 小鳥遊は力強く頷く。たかがくだらない事で椿との縁が切れてしまうのはあまりにも惜しかった。
 その日は五条邸から出る気にもなれず、いつものように机に原稿を広げ、筆を走らせることにした。
 何度かあの憎たらしい垣谷が小鳥遊を呼ぶ幻聴を聞いたが、その度に小鳥遊はうんざりして頭を掻いた。
 短気なのは自分がよく理解している。
 副業での時もそうだ。あまりの怖さ故に怒ってしまう。だから、どうしてもやることが、発言が過激になる。それでいて依頼人に怪我を負わせて、依頼料が半分減ったということも一度や二度ではない。
「どうも集中が出来ん」
 頭の中で思ったことが口から出るのも無自覚な悪い癖だ。椿はというと部屋に一切入れないため、どんな顔をしているのかも分からない。
 小鳥遊はゴロンと転がり、そのまま寝入ってしまった。

 たたた……。

 足音がする。だが、大人のような重い肉のある音ではない。おそらく子供だ。
「子供か?」
 小鳥遊は思い出す。
 椿の家で子供を見たことが無い。家に居るのは初子と椿だけ。おそらく声が聞こえるので他に大人はいるだろうが、子供の気配を感じたことがない。
 目を開けようとして体が動かないことを小鳥遊は初めて知った。
 金縛りか?
 どうしてまた、こんな時に。と思うのも束の間、再び足音が聞こえる。

 かかさま。かかさま。

 声がする。
 笑っているのに、泣いているようにも思える。女児の声は遠くなっていく。

「だあれ?」

 耳元でそう尋ねられ、小鳥遊は悲鳴を上げながら飛び上がった。厭な寝汗が噴き出る。そこに、子供は居なかった。
「小鳥遊様」
 廊下から初子の声が聞こえ、小鳥遊は反射的に壁の方へと後退する。
「初子です。夕飯の支度が調いました」
「おん」
 障子が開かれ、盆を持った初子がやってくる。黙ったまま慣れた手つきで準備をし、そして一礼する。
「終わりましたら廊下に置いてください」
「なぁ。初子」
 ここに子供はいるのか? そう問いかけようとして小鳥遊は止めた。もし、ここで「いない」と言われたら今夜は眠れそうにない。
「小鳥遊様?」
「おかわりは出来るか?」
 代わりにそう問えば、初子の表情は和らぐ。
「えぇ。出来ますよ。その時は、初子をお呼びください」
「そりゃえい」
 小鳥遊は座り、そして夕飯にありついた。
 魚こそ新鮮さが無く好みではなかったが、それ以外はとても旨かった。そこらの店と同じくらい、もしくはそれ以上な出来の夕飯に小鳥遊はそれこそ楽しんで食べた。
 酒の一杯と友人がいれば、話はきっと弾むだろう。先生の所で書生仲間と楽しくやっていた時のことを思い出し、少しばかり悲しくなる。
 夕飯を終え、風呂に入れば先程の厭な気持ちも吹き飛んでいた。
 部屋に戻れば布団が敷かれ、しかも日干しをしたのだろう。寝転がればお日様の匂いがした。
 小鳥遊は大の字になり、寝入るのに時間もかからなかった。

 ぱたぱたぱた。

 足音が聞こえる。
 足音が小鳥遊の部屋の前で一度止まり、また走る。
 耳元で再び足音がし、そして女児の声がする。

「だあれ?」

 2

「おう。おはよう。お嬢さん」
「おはようございます。小鳥遊様」
 朝食を終え、いつも行く椿がいる部屋へ行けば彼女は穏やかな声で言った。昨日とはまるで別人とも思える顔に女はさも怖いと小鳥遊は内心思う。
「昨日の今日で、お嬢さんに説明が出来ざったが、わしゃ先生を大げんかをしゆう。家を飛びだしてきちょった」
「初子から聞きました。新しい宿はこちらで責任を持って探します」
「泊めてくれるだけでもありがたいのに、そこまで――……」
「いえ、私の代わりにあんな所に行くのです。これだけではけっしてお礼になりません」
 きっぱりと言う椿に小鳥遊は「お、おう」と答える。
「ご存じでしょうが、小鳥遊様が泊まっていても私はお守りを創らねばなりません。お話をしたいのはやまやまですが」
「わしゃこれから呑みに行く。邪魔はせん」
「お心遣いを本当にありがとうございます」
「かまんかまん。世話になっちゅーのはわしやき」
 小鳥遊はそう言って立ち上がる。初子が準備をした着物は上等なのもあり小鳥遊はいつもと違う雰囲気を見せる。
「帰りは夕方ちや」
「お気をつけていってらっしゃいませ」
「おん」
 そういった日がかれこれ十日、十一日とだらだらと続いた。
 先生が自分を呼ぶ幻聴。子供の足音というのも次第に消えた。
 五条家の者がどう頑張っても小鳥遊が住めるような部屋を見つけることも適わない。
 こがに気を遣わしてしもうて申し訳が立たん。わしゃ友達が多い、それに野宿もなれちゅー」
 そう言い出す小鳥遊を、椿と初子でどうにかとどまるよう説得させる回数が増えた。
「こういう時は必ず、縁がありますのでもう暫しお待ちください。待つのは長いかもしれませんが、決まれば早いですから」
「やけんどな、椿。女に養われるがはどうもわしゃ居心地が悪う感じるがよ。泊まらしてくれちゅー礼に手伝いの一つや二つする言うても誰っちゃあ聞いてくれん」
「小鳥遊様は件の家に行きます。その間、体調を崩されてはなりません」
「やけんど……」
 椿も頑固な女だ。
 それは最初から知っていた筈なのだが、どうもこの状況を小鳥遊自身が許せなかった。
 今日も今日とて「出掛けてくる」と言えば「夕飯の準備はしておきますよ」と初子が間髪入れずに答える。
 故郷でその言葉を聞いた後、帰るのが遅くなれば父の平手が飛び夕飯を無くされるような環境で育った小鳥遊は日が暮れる前に帰らなければと当然思う。
「所帯持ちでも無いのに、どいて時間ぼっちりに帰れんといけんがじゃ」
 そんな愚痴が出そうになって慌てて紡ぐ。あれは良かれと思ってやっていることで、愚痴を零されるべきはタダ飯悔いの自分なのだ。
「小鳥遊!」
 声をかけられ振り返ると、そこには書生仲間の小岩井が居た。
 数日だけではあるが、五条邸で暮らしている小鳥遊にとって彼の格好はあまりにもみすぼらしかった。
「何や。先生から文句でも言付かってきたか?」
「いいや、違うんです。とにかく、少し時間をくれませんか?」
 ちょうど手持ち無沙汰だった小鳥遊は、渋々といった顔をしながらそれを了承した。

部屋


「小鳥遊、君の元部屋から物音がするんだよ」
 席に着くなり小岩井は言った。
「あ? わしゃ一回もあの家には戻っちょらん。近づいてもな」
「ああ。それはみんな知っていますよ」
「ネズミかもしれん」
「いや。あれはネズミが出せるような音じゃない」
「じゃあ、何ちや」
「人だ。男。それはボクたちも分かってる。だけど――……」
 生きてる者じゃない。
小岩井は声を落として言う。
「ボクは小鳥遊よりも後に入ったから、見てはいないんだ。だけど、古くからあそこに住んでた人の話を聞いたことがあるんです」
 小岩井は、茶を置いてゆっくりと話し始めた。
「元々、あの家というのは先生のご友人。ちょうど、小鳥遊さんが揉めた際に同席していた飯塚先生の物らしいんだよ。
 飯塚先生も垣谷先生と同じように自分とその弟子達とで暮らしていたんだそうだ。だけど、ある日から先生にあの家をそのまま貸したんと言うじゃないか」
「借りてる? そがな話は聞いたことが無い。やたら家賃、家賃とうるさいのもそうか?」
「それは分からない。だが、聞いた話によると、無料で借りたらしいんだ」
「どういてまた」
「人死にが出たんだそうだ」
「人死に? 理由は?」
「それは詳しく聞けてないんだ。直接聞いたわけじゃ無くて、盗み聞きだったから。その人死にが出た部屋は、小鳥遊が住んでいた部屋なんだよ」
「は?」
「所謂曰く付きの部屋、というやつだよ。、誰も住みたがらなかったんだ。時には倉庫、時には反省部屋として使用されていたようだしね。けど、それでも駄目だったんだ」
「いかんってなんや? 書生が多すぎて入る部屋が無うなったということか?」
「いいや、違うよ。倉庫にすれば荒らされ、反省部屋として違反した門下生が数十分も部屋にいれば青い顔をして戻ってくる。そんな部屋だからだよ。物音がするそうなんだ。誰もいないのに鉛筆の走る音が。それだけではなく、男の舌打ちと溜め息が。時には恨み言を聞き、時には生に対しての羨望を聞く。空き部屋になるとさらにそれはより一層酷くなり、罵倒と地団駄さえ上がる」
「そがな部屋にわしが来たちいうのか?」
「ああ。そういうことになるんだ。小鳥遊さんが来ると、その部屋はまるで嘘のように静かになったというんだ。最初から何も無かったかのように、シンと物を立てずそこにあるんだ。だのに、小鳥遊がいなくなってから部屋は息を吹き返した。まるで小鳥遊が去ってしまった事を怒るように。悲しむようにな。ボクら書生は夜もろくに寝ず物を書くだろう? だから、部屋から上がる音に怯え、さらに眠れなくなる。イビキが五月蠅い先生でさえも、その音に怯え、今ではお茶さえ喉を通らなくなっているんだよ。小鳥遊の副業は僕たちはしっかり知っているんだ。このボクでさえも。ボクら凡人にはない、特殊に秀でたナニカを小鳥遊、お前は持っているんだろう? だから、戻って来てくれませんか?」
 そう問われた小鳥遊の顔は、誰からどう見ても真っ青に染まっていた。
「わしの部屋が?」
「ああ」
「今まで一度たりとも無かったぞ」
「ああ。だからこそ、皆は安心していたんだ。理由を知っているヤツも、誰も何も言わなかったのは小鳥遊が去って行くのを畏れていたんだと思う」
「絶対に戻らん」
「え?」
「絶対に戻らん。せ、先生が三つ指ついて謝ってもわしゃ絶対に戻らん」  
 顔を青くしたまま小鳥遊は立ち上がって言う。声が震え、恐怖に怯えきった目が小岩井を見つめる。
「ぎゃ、逆に清々する。あんな恐ろしい事をわしにやらせといて、あの男はしっかり家賃を奪うてくる銭ゲバやいか。恩はしっかり金で払うた。わしゃ知らん。今聞いたことも忘れる」
「そんな。困るよ」
「困るがはわしの方や。戻って先生にがなられた上、訳ありの部屋に済ませようとするがやろう? おまんらは鬼畜か? 見損なったぞ」
「ボクたちはどうなるんだ? 小鳥遊。お前、今は宿無しなんだろう? 先生にちょっと、いつも通り頭を下げればすむ話じゃないか」
「知らん。おまんらの為の命やない」
 小鳥遊はじりじりと後退し、そして五条邸へと駆け戻った。
 客人が来ているのを無視して、部屋に戻りそのまま寝転がると座布団を顔に押しつける。叫びたい気持ちもあるが、恐怖と落胆と憤怒がない交ぜになって声すら出ない。

 2

飛び込むように仮部屋に入り、小鳥遊は再び足音と女児の声を聞く。
 垣谷先生での部屋も問題ある部屋だったが、今借りている部屋もどう考えても問題がある。
……―― 付いてきているのでは無いか?
 という恐ろしい考えが頭から離れない。けれど、部屋に居るのは書生であり、こんな上機嫌に笑い続ける女児ではない。では、付いてきている者がさらに増えた。
 座布団に顔を押しつけ、声を出し、笑い声が耳に入らないようにする。
……―― ココが少しばかりおかしな者なんだよ。
 垣谷はそう言って、煙草を置くと自分のこめかみ付近で指をくるくると回して見せた。のを思い出す。もしかしたら、当たっているのかもしれない。そうしないと、恐ろしくて適わない。
 幻覚を見ているならどんなにましだったか。
 だが、今までの経験と、今まで出会ってきた人々の顔がそれは事実であると無情にも小鳥遊に伝える。
「夕飯のお時間です」
 何分経ったのだろう。不意に初子の声だ。
「分かった。ちっくと待っちょってくれんか」
 小鳥遊は涙と鼻水で汚れた顔を袖で拭ってから深呼吸をした。
「おう。すまんの」
「失礼します」
 いつも通り初子は盆を持って部屋に入る。それから小鳥遊を見て、首を傾げた。
「どうかされましたか?」
「いや、なんちゃあ無い。ただ、新しい部屋を――……」
「必ず良い部屋を見つけますので、小鳥遊様にはご迷惑をおかけして、誠に申し訳ございません」
 初子が頭を下げるので、小鳥遊は慌てて止める。
「ですが、明日は件の屋敷に向かう日。心してください」
 頭を下げたまま初子が言い、小鳥遊は一瞬息をするのを忘れた。
 完全に失念していた。
 今更ながら事態を思い出し、冷や汗が出る。五条邸に来てから驚き、怖がったりするばかりだ。
 暴飲暴食とまではいかないものの、怖さを忘れるために夕飯を口にかっこみ風呂にはいり、そして盛大に寝た。
 おかげで悪夢こそ見なかったが、朝が来るのは早かった。

怠惰

 出発の朝。
 朝食を終えた小鳥遊はいつもの着物に着替えて椿の部屋に入った。
「おはようございます。小鳥遊様。よく、眠れましたか?」
 いつもと変わらぬ椿に小鳥遊は「おう」とだけ短く答えた。気絶とも思える就寝だったため、夢一つ見ていない。
「前に言った通り、褌、着物の袖と袴にそれぞれお守りを縫い付けました。必ず、この五条の名にかけて小鳥遊様をキズ一つなく帰します」
 そう言い切る椿に、小鳥遊は思っていたことを尋ねる。
「普通にお守りを渡すだけじゃいかんのか?」
「一応、二つお渡しします。が、何もせず倉に一晩過ごせとは言わないでしょう。おそらく、着替えをしますよ。儀式とはそうとよく聞きます。着物くらい着替えても褌は早々変えられないでしょう。もし、褌さえも交換しろと言われたなら口にお守りを入れてくださいね」
「最終手段として考えちょくぜよ」
 石川の迎えが来るのは早かった。来たのはあの夫婦ではなく、おそらく長男か次男だろう。やはり態度は大きく、小鳥遊だけではなく椿でさえも笑顔一つ浮かべず無表情のまま挨拶をする。
「それでは、お気をつけて」
「おう」
 小鳥遊はそうして五条邸を後にした。

 2

 件の家に着くまでかなり時間を要した。
 普段なら乗れる列車を使用し、さらに車で移動し、そして歩く。
 距離からして怖くなって逃げる、ということは難しそうだ。と小鳥遊は思う。逃げる気など毛頭ないが、それでも椿がこんな所に来なくて良かったと心底安心する。
 件の敷地は広い。
 田舎ならでは……という訳では無く、ただの土地持ちだ。
「逃げないだろうな」
 やってきた亭主に小鳥遊は「当然やろ」と冷たく答える。相手は舌打ちを一つしたあと、小鳥遊を部屋に案内した。
 普通の、しかしひんやりとした六畳ほどの部屋だ。
 香の匂いもするが、カビ独特の悪臭を完全に消せる程ではない。
 部屋に置かれた長い机には食事が山のように並べられている。
「オマエはここで飯を食い一晩過ごせば許してやる」
「倉には行かんのか」
「情けだ」
「毒でも盛っているのか?」
「そんなつまらない事はしない。完食しろとも言わん。だが、食え」
「誰と? おまんとか?」
 机の上には確実に二人分の食事が並べられている。
 料理だけでは無い。
 箸も二膳。
 取り皿も各二枚重ねられた物が二組置かれている。
 刺身用の醤油皿も同じだ。
 それらが向かい合うように準備されている。
 一人は奥に繋がる部屋の襖に背を向けるように、もう一人は今小鳥遊たちが入ってきた廊下側に背を向けるよう座布団が置かれている。
「オマエは一人で食うんだ。座るのはここだ」
 男は足下の座布団を軽く踏みつける。
 下座だ。
 小鳥遊は自身が座るべき所を見てそう思った。
「襖は開けるな」
 低い声で男は言う。
 襖の方。あちらが、上座。

 とんとん

 不意に襖の奥から音がした。
 小鳥遊の隣に立つ男は蒼ざめる。小鳥遊は音がする方向を凝視した。
「厠は?」
 気まずい沈黙の後、小鳥遊は静かに問いかける。
「この部屋から出ることは許さん。用を足すならそこでしろ」
 顎でしゃくる方向には空の酒瓶と木箱がある。
「あがな所でやか?」
「逃げたら今度こそあの女にやってもらう」
 そう言われてしまえば、小鳥遊は「そがな必要は無い」と強気に答える他ない。
「明日の朝、八時。それまで楽しく食って呑め。折角用意してやったんだ、料理には口はつけるんだぞ」
 音を立てて障子が閉ざされた。

食事

 静まりかえった中、小鳥遊はただじっと襖を凝視している。
 刀を仕込んだ番傘は、当然のことだが「玄関へ立てておけ」と言われてしまい手元にない。幸い、着替えも荷物検査もしなかったため、小鳥遊は隠し持っていたお守りを取り出し、左手の中指に紐を絡めて強く握った。
 椿のお守りというのは、力がある。それは小鳥遊が身をもって知っている。だから、襖の向こうから再度音がしても多少なりとも悲鳴を上げることはない。
「飯、飯を食わにゃ」
 箸に触れる手が震え、両手で支えるのが精一杯だ。

 ――…… ふふ

 情けないと自嘲しようとした時、そんな女児の声が聞こえ、小鳥遊は今度こそ箸を落とした。
 幸い机の下まで箸は転がっていなかった。慌てて回収し、音を立てて箸を机に置き、お守りを強く握る。
 自分の体温か、妄想か、それとも既に気が触れているのか。お守りはじんわりと暖かくなっている。
 懐中時計も無いため、何分過ぎたか分からない。
 並べられているのは山の物、海の物、大盛りの米、酒。
 あまりにも良く出来過ぎている。
 倉の中で何もせず一晩過ごす方が遙かに楽だ。
 なにせ、自分は今から何者かと縁を繋げてしまおうとしているのだ。そんな禁忌を自覚しつつやらなければならない。それに、既にここが禁忌の場所だ。
 ひんやりとしていてかび臭い。立て付けの悪い障子は長い間換気をされなかったと物語っている。
 要らぬ事を考え、小鳥遊はさらに手に力を込める。
 今何時だ? あと、何時間これが続く?
 茶碗を盛った際、米から異臭がし食欲はとうに失せてしまった。
 おそらく、どの料理にも何か細工が仕掛けられている。しかし、食わねばならない。どれくらい食ったか、あれらは目ざとく確認するに違いない。

 ――…… 減れば良いのだ。

 小鳥遊は酒の入ったコップを掴むと、静かに中身を畳に零し始めた。手が震え、足袋が濡れた。しかし、酒の臭いが付いた為、呑んだと隠蔽出来るだろう。
 コップ一杯と半分。それをゆっくりと時間をかけ、畳に染みこませ、手拭きを置いて乾かす。
 酒の香りで部屋は満ちた。
 度数が強い。零しながら小鳥遊はそう思う。
「さて、次は料理か。どうしたもんか――……」
 心の中では、食べ物を粗末にするなと貧乏くさい自分が叫んでいる。恐ろしい何かと縁づく物、毒か薬でも入っている場合はそうは云えぬ。と、もう一人の自分が叫ぶ。
 木箱と酒瓶に目が行った。が、中身を確認される可能性がある。あの口ぶり、この料理の手慣れ具合から見てこの儀式を行ったのは、一度や二度ではないはずだ。

 どたん

 襖の向こうで音がし、小鳥遊は震え上がる。まるで早く食え、早く食えと言わんばかりの音だ。
 小鳥遊は恐ろしさのあまり正座を崩し、膝を折り己を抱くように座り直す。俯いてしまえば良いものの、目は襖から離せない。

 ぱたぱた

 軽い足音が室内に響く。
 この部屋に入ってきている。
 襖は開いていないのだが、足音は小鳥遊の近くから聞こえる。子供の足音と知るのにそう時間はかからない。

 くすくす

 笑い声が聞こえる。
 気絶しようにも恐ろしすぎて目すら瞑れない。お守りを強く握り、一刻も早く朝が来るのを待ち続ける。

 あそんで
 あそんでよう

 最初こそそんな陽気な声が聞こえた。だというのに、それがしだいに

 いじめるの?
 許さない
 許さないから

 と、恨み言に変わった時小鳥遊は本当に気が触れてしまうかと思った。
 一人の声音ではない。
 最低でも五人居る。
 どれも女児ではある。姿が見えない。気配はあるのに、誰もいない。なのに、足音や声は今この瞬間も聞こえる。
 足音は地団駄に変わる。
 楽しそうな声は癇癪を上げる奇声に変わる。
 小鳥遊は自分の腕を強く掴み、もう片手ではお守りを腕に擦り付ける。体中が熱い、そして異様に寒かった。夜の寒さ、恐怖からくる寒さは小鳥遊の体力と気力を確実に奪っていく。
 虫も鳴かない夜。
 聞こえるのは、時折響く奇声と足音。
 地獄のような十時間はようやく終わりを告げた。

 2
 
 恐怖と睡眠不足のまま朝を迎え、ようやく男が部屋に来る。
「良い」
 視線の先は机の上だ。
 小鳥遊は酒以外一つも手をつけていないのに、料理が所々無くなっていた。畳に転がる酒瓶の中身は無く、刺身は残り二切れ、米も半分無くなっていた。
 そのような感じで料理はどれも減っていた。
 料理が減るさまを小鳥遊は一度たりとも見ていない。瞬きすら恐ろしかったのにだ。だが、今更恐怖に驚く気力は無い。
「もう用は無い。帰れ」
「二度と、椿の屋敷には上がるな」
 力の入り難い足でようやっと立ち上がりながら、小鳥遊は吐き捨てるように言った。

 番傘を杖代わりに使う小鳥遊を見た、付近の村人は明らかに同情と触れたくないという表情で顔を背けた。
 今更、そんな扱いに慣れている小鳥遊は一つも気にしない。
 半分気絶をしながら椿の家へ戻る。
 せめて「もう安心だぞ」と報告してから帰らなければならないと思ったからだ。そして、あの恐ろしさをしたためて、今度こそ先生から良い評価を頂戴しよう。
 そう思った。
 小鳥遊は五条邸の玄関を開けたか、触れたかした瞬間に意識を飛ばした。
 

安堵


 
 小鳥遊は厭な夢にうなされていた。
 暖かい所から追い出され、冷たい世界の中、首を絞められる。
 苦しい苦しいと泣いても誰も聞き入れず、そして井戸に放り投げられる。そんな厭な夢だ。
 ざぶん。という音はしなかった。涸れ井戸らしく、地面に叩きつけられた衝撃で目が覚めた。
 字面通り小鳥遊は悲鳴とともに飛び起きて、周囲を確認する。
 井戸ではない。
 知っている部屋でも無い。
 ここが五条邸の客間。ということを思い出せるまで少し時間がかかった。
 心臓がうるさく、呼吸も荒くなる。
「小鳥遊様」
 障子の向こうから慌てた様子の初子の声がかけられる。
 小鳥遊は見慣れた顔を見て、つい、本人曰く事故であったが、声をあげて泣き出した。

「小鳥遊様は丸一日寝ておられました」
 動転していた小鳥遊が落ち着き、座れるようになってから初子はゆっくりと説明をし始めた。
「小鳥遊様はこの家に入るより先に、門の前の置塩を頭から浴び、顔中にそれを塗りつけていました。そして、土足のまま椿様の元へに来るなり「わしはやったぞ!」と叫び、そしてお眠りになったのです」
 淡々と言われた小鳥遊は顔を青くさせればいいのか、赤くさせれば良いのか、混乱のあまり座っていた座布団を顔に押しつけて謝るので精一杯だった。
「まっこと情けない。わしゃ気が触れちゅー」
「いえ。そうなっても、今正気に戻っていられれば問題ありません。それに、小鳥遊様は我々の代わりに面倒ごとを引き受けてくださったのです。お嬢様に是非お会いください」
 初子はそう言って深々と頭を下げる。座布団を顔に押しつけたまま、小鳥遊は頷いた。
「その前に顔を洗いたい」
 賢い初子は理由も聞かず、水桶をとりに走った。

 2

「おはよう。椿。わしゃ、どうも睡眠というのが大事で、一時間も寝られんとああなってしまうがよ」
 椿の部屋を開けるなり、小鳥遊は言い訳を並べ始める。
「小鳥遊様、よくご無事で」
 椿の声が震えている事に気がつき、小鳥遊はつい彼女をまっすぐ見てしまった。
 椿の目には涙が溜まり、それはすぐに溢れ頬を伝う。
 小鳥遊は慌てて滑り込むように椿の前に正座した。
「泣く必要なんてありゃせん。わしゃ移動のせいで寝不足になっただけなんや。何もなっちょらん。わしの話を聞いたけんど、確かにわしも気が触れちゅー思うた。やけんど、寝不足になるとああなるがは人間誰しも仕方が無い事なんや」
 焦る小鳥遊よそに、椿は泣きながら何度も頷く。
「わしがよう寝転がりもって椿の話を聞くがは知っちゅーやろう? わしゃちっくとでもあんな事をせんと落ち着かんがじゃ。それに、落ち着かん遠出やきな?」
 小説家を志望している割にはろくな言葉が出てこない。
「それにな椿。わしゃあの遠出で色々と吹っ切れた。先生の所に戻ろう思うちゅーんだ。時間も経ったし、あの狸もちっくとは頭が冷えて、わしみたいな天才を出て行かしたことを後悔しちゅーにかあらん。ええ事もあった。やき、泣かんでくれ。な?」
 椿は頷きながら、次々あふれる涙を手で拭っている。
「でしたら、先生とお会いするとき政治家に知り合いがいると言ってもかまいませんよ。あの男にはきつく言っておきましたからね」
「政治家先生こそ三枚舌の化け物や。わしゃ恐ろしゅうて適わん。だまされられん。きっと、反省しちゅーのも嘘やろうき」
 そう戯けて言えば、椿はようやく笑った。
 

傲慢

 1
 
 椿から「お礼に」と貰った着物はやはり上等でそれを着て外に出るのは惜しかった。
 先生の元へ帰ると豪語した小鳥遊だが、戻るつもりは泣く今日こそ野宿であると決めていた。
「小鳥遊さん」
 と、再び小岩井に声をかけられるまでは。
「言うたはずだ。わしゃおまんらのええ駒やない」
「先生が貴方に今までの仲介料に色をつけて返すと言いました。しばらくの間、家賃もいらないと」
「その代わりあの部屋へ戻れ言うがやろう?」
「……はい」
「なら、しゃんしゃん行くぞ」
 悪くない条件だ。と小鳥遊は思う。今まで小鳥遊はあの部屋でおかしな目にあっていない。知ってしまった今では気味悪く思うが、正直行く当て一つ無く途方に暮れていたのも事実だ。
 小鳥遊は行き慣れた家へと向かった。
 廊下を歩き、すぐ右に居間がある。廊下の突き当たりには、台所。左には階段があり二階にはそれぞれ書生の部屋が三つ並んでいる。
「先生がおらんようだが?」
「病院です。あの音に心をやられまして。ろくに食事がとれず、眠れなさすぎて」
「わしにあがな事を押しつけるくせに、こじゃんと繊細な心の持ち主や」
 小鳥遊は、自分の部屋だった所へと向かう。
「これは……」
 紙が散乱している。
 どれもこれもびっしりと文字がかかれた原稿用紙は床を覆い尽くさんばかりに散らかり、足の踏み場も無い。
「またか」
「また?」
「同じ内容なんです。何度捨てても同じ内容の原稿が部屋にまかれているんです」
 小鳥遊は試しに一枚拾って目で文字を追った。
 
『発見当初部屋は血まみれだった。小説家は切り殺された。
「おかしなことがある。恐ろしい。小説家の祟りに違いない。あんな無惨に殺されてしまったのだから」
 との証言は犯人が既に分かっていたからだ。犯人である書生はその場で首を括りその無念は当然ながら成仏されずここに留まった。原稿用紙が鉛筆で塗り潰され、床を叩く音がする。といった怪奇な現象はこの書生が起こしていたのだ。
首を括ったにもかかわらず、その書生はこうして客人の前に行儀よく座りただただ己の真っ赤な手を見ている』
 小鳥遊は視線を感じて前を見た。

 そこに一人の男が座っている。
 顔が蝋のように白く、頬も痩せこけている。だというのに、目は爛々と異常な程に輝いていた。隣に居た小岩井と野次馬の小説家仲間が短く悲鳴をあげるのを、小鳥遊は肘鉄を食らわせ黙らせる。
「悔しかったか」
 小鳥遊の言葉に、白い原稿用紙を墨で塗り潰す書生は頷きもしない。突然、前のめりに倒れたかと思うと右手を動かし始めた。汚い布で鉛筆を手に巻き付けており、落ちていた原稿用紙は無意味に黒で塗りつぶされていく。この書生にとって、それは重要なことだ。今まさにリアリティを追求するため、彼の話を書いているのだ。
 リアリティを探求した結果の、その無残さを、悔しさを。
「もうやめたらえい。なあ?」
 書生の前に膝をついた。今は悲しみで顔を歪ませたりはしていない。
「わしには届いた。おまんの悔しさも、悲しさも、まっこと伝わっちゅー」
 そう言って優しく背中を撫でれば、初めて書生は顔をあげた。
 上げられた顔は、けっして恐ろしい顔ではなく目をまんまると開きどこかあどけなさを残したそれこそ少年の顔のようであった。とたん、彼の目から涙が溢れ、それが墨で塗り潰された原稿用紙を汚した。
「読んでくれますか?」
「おん。必ず」
 それを聞いた書生は首をたれた。
 がたん。
 小鳥遊の背後で音がした。小さな棚の扉が勝手に開かれたらしい。
 そこには書生が書いたと思われる原稿用紙の束が置かれていた。
 小鳥遊が振り返れば、そこに書生はいなかった。
 束の間の沈黙の後、書生三人は深く息を吐いた。

 2

 これ以上おかしなことが起きないか念のため、小鳥遊は件の部屋に泊まることになった。一年以上暮らしている部屋だ。
 直前まであの不愉快で恐ろしい事件もあったせいで寝入るのは早い。
 翌日も、翌々日も何事も、奇妙な音すらしない。
 最初の一日こそ書生仲間は小鳥遊を怖がっていたが、元々生活苦を支え合ってきた者達だ。翌日とも鳴れば、いつもとかわらぬ態度に戻っていった。
 さらに一週間後、先生は退院した。
「わしゃ依頼で来ちゅー。ほいたら、ここで失礼するぜよ」
 と、小鳥遊が言えば先生というのはやはり気難しい生き物である。泣いて止める事もなければ、良いわけがましいこともない。ただ、怒りに顔を歪め「勝手にすめばいいだろう」とだけ吐き捨てた。
「やけんど、先生もだいぶ腹が黒い。あんな問題のある部屋を、今の今までわしに黙っちょったんやきね。何があったかも教えてくれんのか」
 問えば先生はさらに顔を歪めた。
「あそこで書生が一人死んだ」
「病気か?」
 わざと問えば、先生は首を横に振った。
「飯塚君はね。少しばかり口が達者なのだ。正直者で嘘を嫌う。だから、私は彼と一緒につるむわけだけれど。――……一人、棒切れのような頼りない書生がいたんだ。陰気なくせに人一倍プライドが高い。もごもごと餅が口に詰まったような物言いをするくせに、紙の上だと皮肉こそ饒舌だった。飯塚君が嫌悪する人間そのものだった。だから、飯塚君は少し言いすぎたんだ。元々口が上手い。口下手な書生は反論すら許されなかった。首をくくったのは寒い日だった。飯の準備が出来ていないと飯塚君は文句を言いに彼の部屋に足を運んだ」
 先生はため息をついて、目をつぶった。
「恨めしい彼の顔が目の前にたれていた。筆を落とさぬように布で固定して、懐には飯塚君への皮肉が綴られていた。あまりにも見苦しいものじゃないか。飯塚君はこの家にいられなくなり、私が借りた」
「飯塚先生は一度でも謝りに、墓参りに行かれましたか?」
「分からんよ。だが、飯塚君はあの事件で酷く心を病んでしまってね。今では実家に戻り家族と暮らしているのだよ」
 心を病んで? と小鳥遊はこの前のことを思い出す。決してやんでいるようには見えなかった。
「飯塚先生に謝りを入れた方が良いです。先生も」
「私は関係ない!」
 叫ぶ先生に小鳥遊は冷たく笑った。
「話を聞く限り、先生と飯塚先生はまっこと似ちゅー。類は友を呼ぶ、とまではいかんが。相手はあの書生は、先生と飯塚先生を見間違えちゅーのじゃないろうか。わしゃ先生に言われたこと、忘れてはおらんよ。どう扱われたのかも」
「君に謝れと言っているのか? それは脅しか?」
「ええや、先生。言葉の綾ぜよ。わしゃそがな小さい男やない。ただ、発端は先生にも一つある。と、言いたかっただけがやき」
 それ以上は会話にならなかった。先生の怒号が廊下に響き、小鳥遊は番傘を持って玄関を飛び出した。
「正直に言うて何が悪い! そうや言うならわしも正直者や!」
 結局は喧嘩別れだ。
 そう思えば心は軽い。小鳥遊は軽い足取りのまま五条邸へと走って行った。

「お邪魔します」
「おかえりください!」
 小鳥遊が五条邸の玄関を開けた瞬間椿の大声が響いた。小鳥遊は驚いてその場に硬直し、それからすぐ帰ろうとしたが、玄関に置かれた靴を見て考えが変わった。
 この靴は見たことがある。
「私らが悪かったんです。だから――……」
 椿の部屋から一度聞いたことのある声を聞き、小鳥遊は靴を放り投げて廊下を駆けた。
「ほたえなや! 二度と来ないと約束したろうが!」
 そこにはあの石川夫妻が座っていた。以前とは違い、夫の方は疲れ果てており、妻の方には生気が無い。髪もボサボサで化粧の一つぬれていない。それどころか、目がうつろで宙を見ている。
「ああ、あんたでもいい」
「わしは、わしはあがな儀式はもう二度とせん! どの面下げてこの屋敷に来たんや!」
 掴みかかろうとする小鳥遊に制止を求めたのは椿だ。
「結構です。小鳥遊様。触れてはなりません」
 静かな声に小鳥遊は伸ばした手を止める。
「では――……」
「お帰りください」
 凜とした声で椿は繰り返した。
「私は許しませんと言いました。だから、お守りもお渡ししません。お帰りください。二度はありません」
「ですが、せめて話を聞いてください」
「お帰りください」
「あの後、私の息子達はみな足がのうなったのです」
「お帰りください」
「息子の嫁は口から土を零し、息子は指先から腐っていきました」
「お帰りください」
「息子の子供は「怒っている」とばかり言ったのち、高熱を出してのうなりました」
「お帰りください」
「母もです。赤ん坊に責められると泣いては、とうとう誰も居ない所を見てあやすようになりました」
「お帰りください」
「次男坊の嫁は首にアザのある赤ん坊を――……」
「帰れ」
 椿の声に石川の夫は声を引き攣らせた。
「こちら側にいない畜生が口をきくな」
 小鳥遊の隣をすり抜けて、屈強な男が二人、夫妻を連れ出すのは早かった。
「椿? 今のは――……」
「ごめんなさい。小鳥遊様。私は疲れました。話をするなら明日からでかまいませんか?」
  小鳥遊の言葉を遮り、椿は言う。反論を許さぬ物言いに、小鳥遊はただ頷いた。
「嗚呼、それと。いけませんね。小鳥遊様がお帰りになる前、お守りをもう一つ渡そうとしていたんです。私、情けないことに泣いていて、すっかり失念していました」
 椿がそう言って、懐から新しいお守りを小鳥遊に渡す。ひんやりとした手に小鳥遊は寒気を覚えた。
「厭なことを思い出されてしまいましたか? それでしたらごめんなさい。だから、小鳥遊様もどうかお休みになってくださいね」
  椿は己の手を素早く引っ込めると、それだけ言い奥の部屋へと引っ込んだ。
 小鳥遊は暫くの間渡されたお守りを持ったまま、阿呆のように突っ立っていた。だが、戻ってきた二人の男にジロリと見られてようやく我に返った。
「わしも加勢すればよかったか?」という、冗談すら出てこなかった。小鳥遊は逃げるように五条邸を後にした。

終章


 いつも通り下宿に戻り、小鳥遊は書生仲間に歓迎された。
「ああも言ってくれて俺たちはすっきりしたよ」
「無茶な事を言って申し訳なかったです」
「良い物を見た。先生のヤツ、あれから部屋にこもって大人しくなってるぜ」
 興奮状態の書生達を見て、小鳥遊はついにやりと笑ってしまう。どうやら追い出されたわけではないようだ。
「酒でも飲むか? 今日の酒こそ旨いぞ」
「おう! 今日は呑むぞ!」
 小鳥遊とその仲間達は意気揚々と問題の部屋に行き、かの仲間の為に酒を注いだ。

 仲間達はビンボウなのでつまみはたいした物では無い。だが、今度こそ楽しい中での晩酌はどの酒よりも身に染みた。
「厠……」
 夜中。
 小鳥遊は目を覚ました。どうも飲み過ぎたらしい。それは他の仲間も同じようで、どれもいびきをかいて深い眠りに落ちている。
 ふと、違和感に気がついた。
 コップは四つ。そして、かの書生のために準備した物が一つ。
 そのお供えの酒が半分に減っている。それだけではない、彼のためにほんの少しのせたツマミも所々減っている。
 その光景は、いくつもの副業をこなしてきた小鳥遊には見慣れたことだ。だが、それは直近で起きたあの忌まわしい儀式を思い出すのに十分だった。
 小鳥遊は怖くなり、尿意も吹き飛んで寝直した。

 2

「彼は、他書生と比べるとようく書けているんじゃないかな」
 帰り道、飯塚が連れに言う。
「だが、常にそれは鋭利で息をもつけない。まるで溺れているようだ。一呼吸置いたら沈んでしまう」
「それは、作者と読者、どちらをですか?」
 問いかけに飯塚は答えない。ただ、悲しげに憂いをも帯びた顔で古びた家の二階、ちょうど若い書生のいる窓を見る。
 おそらく目を焼くような西日が差さる頃合いだ。
「飯塚君?」
「嗚呼、気にしないでくれ。言葉の綾だよ」

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