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ケズレヴ・ケース〜コーデリア01 光宙記録〜全長版

ケズレヴ・ケース〜コーデリア〇一光宙記録〜
Kezlev Case.-Cordelia 01 Space Log-

汝、深淵を軽々しく覗くなかれ
所詮、深淵は汝のことなど歯牙にも掛けぬ

              ——— 統合理論物理学者  I, フレサンジュ

承前

 地球に端を発した太陽圏文明がそろそろと恒星間航宙へ乗り出した時代。
 自分たちのささやかな版図の、目下においてはただひとつの恒星、すなわち太陽を中心点とした半径五十光年以内の星々へ、まずは無人の光宙艦が送られた。
 そして、それらがもたらした探査結果を基に、ある程度は何らかの見込みがありそうな宙域へと、今度は有人のそれが送り込まれた。
 いわゆる光世紀時代の始まりである。
 光世紀世界の宙域にあまた存在する恒星系は、その後の観測、解析精度の技術向上と、複数の光宙艦による実測が可能となったことで、かつての提唱者、継承者たちが想定していた世界より遥かに豊穣なる海であることが判明した。
 太陽系宙域からの光学、電波、重力波観測によるデータから導き出された予想値を上回る収穫を、実測任務に赴いたいくつかの光宙艦が持ち帰ると、そのたびに人々はおおいに歓喜し、その証左として、光世紀世界探査に関連する企業の株価があがり、投資が促進され、それは太陽系宙域全体で見れば、決して少なくない数だったから、結果として、宙域全体の経済が活況に満ち、機運はいよいよ次の段階への期待感によって、醸成されていった。
 かくして、光世紀世界への人類移住の模索が始まった。
 既にいくつかの恒星宙域、星系では、試行錯誤の末に、採算ベースに乗った無人プラントが稼働しており、いまはまだ細々ではあるが、それでも着実に徐々に太陽系宙域を中心とした経済圏の萌芽を育み始めていた。
 しかし、こうした一方向にのみ偏った経済モデルは、いずれ歪な構造を維持出来なくなり、結果としては遠からず破綻してしまうことを、人類は太陽系内での多くの失敗と成功の経験から学んでいた。
 しかも、これから乗り出そうとしている世界の規模は、太陽系の比ではない。
 最大で半径五十光年にも及ぶ広大なるフロンティアであり、いずれは可能になるであろうが、現在の光宙艦建造技術では、ひとりの人間がその生涯の全てを費やしても、あまねくその世界の全てを旅することは出来ない程に遠く果てしない領域なのである。
 光世紀世界への橋頭堡を着実に築くには、臆病と慎重を履き違えてはなし得ないが、同時に無謀と勇気を取り違える訳にもいかなかった。
 複雑に絡み合いながらも星系経済圏を構成する企業群や、是とする信仰や思想、主義の違いから枝分かれした国家、政体群にしても、今や独立独歩、孤立主義を標榜する構成単位は見当たらず、それぞれが人類の欠くべからざる細胞のひとつひとつとなって、大なり小なりの共存共栄を図っている。
 だからこそ成立している現在の太陽系文明の行く末を、今さら悲劇的な未来へと向かわせる訳にはいかないのだった。
 開闢以来、そして有史以前から連綿と続いて来た地球史、人類史の最後の一頁を誰がしたためるにしろ、我々以外の誰かがひもとくのだとしても、愚劣な一文で締め括ることを、もはや人類は望んではいなかったのである。
 少なくとも、その程度には教訓を得て、そして多少なりとも学習して、ここまで生き延びて来たからこそ、人類はようやくその領域を太陽系外へ広げる資格を、歴史と云う名の見えざる神から得たのであった。
 とは云え、何らかの意見の対立がなかった訳ではない。
 大別すれば、光世紀世界移住計画への積極論を唱える一派と慎重論を唱える一派とになる。
 無論、その派内も細分化すればきりがない程に様々な考えに則り、丁々発止のやり取りが行われてはいた。
 だが、極論すれば、すでに移住しないと云う選択肢だけは、少なくともこの時点では、存在しなかったのである。
 今すぐにその荒波の大海への漕ぎ出すのか?
 時を待ち、潮の流れを見極めて、それから凪いだ海へと櫂を差し入れるのか?
 云々。
 それぞれの論を個々に考察することに興をそそられないでもないが、それはまた別の機会に譲るとして、今は、そうした議論百出の末に、比較的太陽系近傍の宙域に存在する既知の星系として知られているてんびん座グリーゼ五八一、またはウォルフ五六二の名で知られる赤色矮星へと向かった派遣光宙艦の一群についての物語を語ろうと思う。
 この光宙艦群が遺した航宙記録の顛末は、後年、光世紀世界移住計画の全体に少なくない影響を与え、その結果、いくつかの計画の修正が余儀なくされたことで知られているからだ。
 そして、現在の観点から見れば、それは人類史の大きな転換点のひとつ、何かの始まりであり、何かが終わった重要な事象のひとつであったとも云えるからでもある。
 現在、我々が歴史を学ぶ意義のひとつは、こうした過去の事例を詳らかにすることによって、まだ見ぬ未来への考察の糧とするためなのだから。
 尚、一般には、この出来事は、光宙艦群の旗艦名を冠した”コーデリア・アクシデント”またはついに到達した惑星グリーゼ五八一c、光宙艦派遣計画が具体化し実施段階となった時点で”ケズレヴ”と云う惑星固有名を与えられた、その星の名前を採って”ケズレヴ・ケース”と呼ばれている。
 やや直裁的で陳腐と云えなくもないが、古典文学的なある種の暗喩をも含むその艦名から、容易にこの出来事が社会全体へもたらしたイメージを誰もが想起し得るため、当時のマスコミや大衆はこぞって”コーデリア・ショック”とも呼び習わしていた。
 勿論、本件に遭遇したのは何も群旗艦たるコーデリア〇一単艦だけではなく、派遣光宙艦群を編成していた光宙艦船全てに何らかの類が及んでいることから、公正さを期すると云う観点を鑑み、当初、公式、非公式を問わず、このグリーゼ五八一方面第五次派遣光宙艦群の制式登録名を明記した”05DLSSS-LCC1050インシデント”と云う第三者による調査委員会の誰かが事務的に名付けたであろう如何にも無味乾燥な数字と文字と記号の羅列で記されていたが、普及はしなかった。
 結局のところ、現在、確認出来る公式な記録、信頼出来る確かな史料においては、もっぱら”ケズレヴ・ケース”と端的に呼称されており、最終的な公式な件名もそれに落ち着いたものと思われる。
 故に本篇でも特に必要がない場合は、その表記は"ケズレヴ・ケース"で統一する。
 以上の通り、これは、地球人類による恒星間往還時代の黎明期に起こった最も著名なアクシデントとして知られる”ケズレヴ・ケース”の発生当時の記録を基に再構成した物語である。
 一部、固有の人物名、団体名、地名などは、社会的影響を考慮し、筆者と、関係者の眷族、今も現存する関連、後継団体などとの合意によって、架空の名称となっているが、この些細な改変自体は、史実そのものには何の影響も与えてはいない。
 その点はあらかじめご了承いただきたい。
 物語を始めるにあたり、既にほぼ広く知られた歴史的な出来事でありながら、筆者のささやかな好奇心を満たしたいがための些細なやりとりと無遠慮で興味本位でしかない疑問、質問攻めに、根気強くお付き合いいただいた関係諸氏に、まずは深く謝辞を述べておきたい。

前哨-異変-

 群司令を務めるイリア・ハッセルブラッドは、半舷休息中の居室に設置されたモニターを通じて、その日、今週最後の定期補給が終了した旨、副司令のジョセフ・アサクラ一等宙佐からの報告を受けた。
 長期光宙艦勤務の実際を知らない人間が見れば、宙将補たるイリアは、いまだ二十代前半の容姿を保っており、対するアサクラ一等宙佐は、五十代後半の老練な士官に見える。
 つまりこのふたりの外見と実際の階級の逆転現象に違和感を覚えるかもしれない。
 そもそも、アサクラは外見の印象と実年齢との間にさほどの大差はない。
 ただ、それは惑星重力圏での定住勤務が長く、その年齢分ひとつひとつを積み重ねて、佐官までの階級を昇って来たからで、光宙艦勤務経験自体それほど多くはなかったのである。
 彼が今回の派遣光宙において群副司令の任についたのは、まさにその後方勤務で培った事務官としての力量を買われてのことでもあったし、何よりも本人が退役後の終の住処として、この派遣光宙艦群の目的地を望んだからだった。
 実際、彼は今回の派遣光宙任務終了を以って、現地退役が決まっており、すでにケズレヴ・セツルメント・初代行政官と云う事実上のケズレヴの施政責任者として内示がおりていた。

 三〇代を過ぎた頃から、頭頂部から徐々に薄くなり始めた頭髪も、今では白いものが混じり始めていたし、光宙士官にしては珍しく、その体格は縦ではなく横へのベクトルを指向し、精強よりは温和、およそ剣呑な空気とは無縁な人物としての印象を醸し出している。

 アサクラは、公私にわたって、自らを”事務屋の親爺”と表向きは自嘲気味に、その実はささやかな矜持を保って公言している。

 その意味でも彼が他者へ与える印象に違和感はない。
 書類仕事を軽んじる者は、その他の実務でも早晩、その無能ぶりを露呈することとなる。
 と手厳しい本音を吐く代わりに、彼は後年、こんな言葉を残している。
 「事務を能くするものは全てを克くす」
 アサクラが決裁したと云うことは、彼が自身の職責の及ぶ範囲で、建前ではない全ての責任を持つと云うことなのであった。
 なるほど、これから新たに築かれる居留地の初代施政者として、彼ほどの適任者はいなかったことを伺わせる含意あるアサクラらしい言葉である。
 そして、彼が常勤しているウラヌス級光宙艦コーデリア〇一を群旗艦とする派遣光宙艦群を構成する移住者母艦のひとつには、彼と共にケズレヴに骨を埋めることになるであろうその家族たちも乗り組んでいる。
 それ故に、アサクラは光宙期間中、年に二回、許可されている二週間の休暇を家族と過ごすために、その移住者母艦とを私的に行き来すると云うある種の特権を決して無駄にはしなかった。

 要するに彼は公私において好人物だった。

 公団本部で彼と仕事を共にした人々の一部からは、こんな証言もある。

 現職がグリーゼ五八一方面第五次派遣光宙艦群副司令並びに群司令部首席幕僚たるジョセフ・アサクラ一等宙佐の前職は、公団本部の人事部統括官だった。

 つまり、彼の派遣光宙艦群副司令、さらにはケズレブ・セツルメント初代行政官としての内示を決済したのは、彼自身なのである。
 だが、これがさして問題とならなかったのは、アサクラはどこまでも人事部統括官として客観的な視野に立ち、もっとも適切な人事として自薦も厭わなかっただけで、何よりも、その人事の最終命令権者が、彼ではなく、イリア・ハッセルブラッドであり、彼女もまた自身の行う人事のみならず、全ての職務に対して、その責任を背負うことを厭うタイプではなかったからである。
 そして、こんな話も残っている。
 さすがに自身の群司令部転属の辞令と行政官任官の内示の発令を自らの手で行うことにためらいがあったアサクラは、後任の人事部統括官に引き継いで貰おうと、その旨をその時点での直属の上官である幕僚総監群管総務へ意見具申した。
 実際、本部内には公私混同ではないかとおよそアサクラのこれまでの経歴からは無縁な発言が囁かれ、なにものかの横槍がチクチクと彼の小さくはない尻を小突いていた。
 しかし、そんな瑣末なことでケチがつくような話しなら、あとは自分が責任を負うから、とっとと、群司令部へ着任して、こちらの仕事を始めろと、イリアがアサクラを叱責し、同時に即刻下命したと云うのである。

 イリアにしてみれば、命令とはまさしく”命を賭して令する”ものなので、彼女の構想する群司令部には、今すぐにでもアサクラが必要だったし、それを脇でごちゃごちゃ云う人間がいるとしたら、それはもう彼ではなく、イリア自身が受けて立つ問題なのだった。
 「実際、例の風変わりなたったひとつの質問で終わった面接と、この時のハッセルブラッド群司令の激昂ぶり、このふたつだけで、彼女の幕下に加わるには充分な動機だと思いましたな」
 イリアの風変わりな質問とは、彼女のエピソードの中では比較的有名なものなので、今は書き添えないが、この時のアサクラへの命令とも無関係ではない。
 「例の面接でイエスと答えた私にですよ? 舌の根も乾かぬうちに”この件での抗命は許さない”と云い放ったのですからね。有能で信頼出来る上官にはこの程度の人間としての矛盾が必要だとは思われませんか? 非の打ちどころがない、全てにおいて完璧で隙がない人が上にいると下は疲れるだけですからね。まぁ、私人としては矛盾だけで生きている節がある群司令のおともだち、あれはあれでまた……ね。」

 事務屋の親爺ジョセフ・アサクラの人物像を検証する際、実はこの発言の一部にも言葉通りに捉えてはいけない箇所があるのだが……。
 とにもかくにも、自身で要らない仕事を増やすところだったことを気付かされた人事部統括官ジョセフ・アサクラ一等宙佐は、月の周回軌道-ムーン・オービタル・ゾーン-にある公団本部光宙艦低重力繫留廠の一角に置かれたグリーゼ方面第五次派遣光宙艦群司令部準備室(仮)へと赴き、改めて幕僚人事の辞令とケズレヴ行政官の内示を、人事部統括官臨時代行兼務となったイリア・ハッセルブラッド宙将補より拝命したのだった。
 決断と実行のイリアとアサクラ、と云う後世の評はここから始まったのである。
 ユニークなのは、"決断のイリアと実行のアサクラ"ではないところであり、この評価を最初に下したのは誰なのか、そして、この分け方は評価として正しいのか否か、歴史と実業を学ぶ者の間では今も議論が絶えない。
 無論、イリアが、アサクラへの下命後、直ちに自ら群司令専務へ戻ったことは云うまでもない。
 そして、行政官としての任地へ赴く途半ばにある彼が着任すべき居留地は、今はまだない。
 この派遣光宙艦群がケズレヴへ到着した後、ようやく本格的に建設される段となっているからだ。
 つまりアサクラの初代行政官としての仕事は、自らの任地の都市基盤整備そのものなのである。
 「何しろ事務屋の親爺ですからね。そりゃあ、退役後は畑を耕すセカンド・ライフこそが王道でしょう?」
 決して規模の小さくない太陽系外恒星宙域開拓計画も、彼の中では自宅の裏庭に拓いた猫の額ほどの日曜菜園のスケールに収まるものだったらしい。
 すでに四度に及ぶ有人派遣光宙艦群の往還とそれを補填する数次の無人光宙艦群の派遣によって、運び込まれ設置された無人の自律型資源探査採掘ドローン群や、これから始まる本格的な星系居留地建設と維持、発展に寄与するであろう同じく無人の工業プラント群などは既に稼働を始めている。

 おっとり刀で駆けつける将来のあるじのために、今もせっせと現地で採掘した資源を、有用、実用な資材へと、加工し、量産し、時が来るまで貯蔵している筈である。
 そして今回の、つまり第五次派遣群によって、ようやく人的資源となりうる最初の移住者たちが、ケズレヴへ降り立つことになる。
 云うまでもないが、ここで云う"降り立つ"と云う表現は比喩である。
 最初の居留地は、特異な自転周期を持つケズレヴの昼夜半球境界面(トワイライト・ゾーン)の静止衛星軌道上に建設される多層構造モジュールによって構成される予定だからだ。
 実を云えば、イリアはこのケズレヴへの有人派遣光宙往還任務全てに参加していた。
 最初は光宙士官候補生と位置付けられている新米の光宙准尉として。
 そして、派遣任務の回を重ねる中で経験を積み、実績を挙げ、他の宙域、星系への派遣光宙任務を経て、今回、ついに群司令としての任を務めることになったのである。
 アサクラを筆頭とするケズレヴの将来の住人たちを送り届けるイリアにしてみれば、この光路は、馴染み深い通い慣れた道だった。

 だが、ケズレヴへの水先案内に適していたからと云う理由だけで、イリアが宙将補を以ってその任にあてる派遣光宙艦群司令となった訳ではないことは、彼女を知る多くの人々が証言し、または記録を残している。

 すなわち、通い慣れた道だからと云って、その任務を軽んじることなく、万難を排し、万全を期し、万人の命を預けるに足る能力を余すところなく発揮できる適任者としての指揮官、それがイリア・ハッセルブラッド宙将補だったからである。
 そんなイリアは、アサクラとは逆に、地上と云う場所で過ごした経験が殆どない。
 まだ公団の訓練校に入学する前は、火星と木星の間に広がる小惑星帯”メインベルト”の首長国たるセレスで暮らしていたが、公団本部がある地球"メインランド"へ初めて赴いた時など、〇.〇二九Gのセレスに慣れていた彼女はひどく面喰らったくらいだ。
 知識やある程度の重力下訓練などで、頭と多少は身体でも理解していても、長く一.〇Gに近い重力圏に留まっていると奇妙な違和感を覚えるのが常だった。
 だから、絶えず惑星上の重力を意識しながらの施設勤務や、時として”非人道的な加速を強られる”ことさえある惑星軌道艦での航務ではなく、こうして果てしなく長大な距離と時間を、少なくとも主観ではゆるゆると飛行する光宙艦勤務の方が、彼女には性に合っていた。
 もっともその結果、”アインシュタインの呪い”によって、実年齢と乖離した若い容姿のまま、今に至ってしまったが、彼女自身は、常々、逆よりはマシと、長い光宙勤務の習慣によって、ある程度の長さで切り揃え、シュシュでまとめた蜂蜜色の柔らかな髪のまとめ損ねた何本かを揺らしながら、笑って語っている。
 その時の無邪気であどけなささえ感じる彼女の表情は、人によっては十代半ばの少女にさえ錯覚させ、和ませもするのだが、それは無論、彼女の責任の範疇にはない。
 「見た目で判断されての給料では割に合わない程度には、公団に貢献しているつもりだからな」
 これは何も彼女だけの見解ではなく、殆どの光宙艦勤務にある者の述懐であり、諦念に近い境地でもあった。
 そもそも光宙艦に乗ると云うことは、そう云う事実を受け入れることなのだから。
 公団が設立されて数世紀、実際の有人光宙艦群が最初の太陽系外の恒星系に到達してから二世紀以上は過ぎている。
 だから、イリアのような人間は公団内だけでもかなりの人数になる。
 つまり、社会はとっくの昔に、”アインシュタインの呪い”など気にはしていないのだった。
 それでも、職務上の必要を除けば、そのような相手に実年齢を尋ねることは非礼にあたるとされるのは、恐らくは古来のルール、エチケット、マナーの延長線上にある社会的習慣に過ぎないのだろう。
 何にせよ、アサクラをはじめとする彼女よりは見た目は年上に見える部下たちも、職制での上下関係を重視していたし、彼女もその職分に見合う仕事ぶりで、部下たちの信頼と敬意を得ていた。
 結局、そのような瑣末なことは光宙艦勤務においては何の問題にもならなかったのである。
 こうした一般的な光宙艦での生活時間は、ほぼ地球の自転速度を基準としたサイクルに基づいている。
 長期凍眠による待機光宙期間を除いた実働生活時間は、人類が地球発祥である以上は、深く遺伝子レベルで刻まれたリズムで過ごせる生活サイクルに合わせた方が合理的だし、何よりも身体的、心理的な負担も少ない。
 どんな些細なことでもストレスやトラブルの種になりかねない障害は摘んでおくに如くはない。
 つまり、今週最後の補給が定時で完了したと云うことは、タイムスケジュール通りにまもなく日付が変わる。
 すなわち"〇〇〇〇-ゼロ・アワー-"となり、アサクラとの交代時間が近いと云うことだった。
 イリアは、いつも通りにミスト・シャワーを浴び、手早く髪をまとめ、愛用のシュシュで留める。
 またしても例によって、何本かがそこからはみ出していたが、それは身なりを整えると云う彼女自身の規範では許容範囲内だった。
 そして実年齢どころか外見上の年齢から見てもなお童顔に見合ったバランスが取れた体つき、つまりは低重力下生活者に多いスラリと伸びた細身な身体に通常勤務用作業服であるバーミリオンカラーのカバーオールを着用すると、群司令の専用個室から直接ブリッジへあがれる連絡通廊へと宙を泳ぎ出した。
 彼女専用の個室や通廊は、勿論、特権のためにあるのではなく、緊急時の即応体制をとるために設置されたものだ。
 それは、逆を云えば、無駄のない効率重視の設備こそが信条の光宙艦においては、彼女がブリッジへあがる手段のもうひとつは、艦内を巡る通廊のいくつかをバイパスする羽目になることを示唆していた。
 それこそ時間の無駄だし、非直の一般航務員が日常的に使用している通廊も経由するかたちとなり、群司令の抜き打ち巡検と勘違いされるのも甚だ迷惑なので、イリアは専用通廊からブリッジへあがることをもっぱらとしている。
 セパレートの上衣と下衣を静電気防止処理が施されたマジックテープで留めて、一体とした制服の両肩にあしらわれたシンプルなふたつの白銀の輝星が彼女の階級を示し、左の胸ポケットの上に留められた徽章によって、群司令としての職制が示されている。
 彼女がどれ程、見た目は可憐な少女に錯覚されようが、こればかりは最上位士官と云えども、むしろ最上位だからこそ、他の範となるためにも、服務規定上、これらを制服からむやみに外す訳にもいかない。
 だから、直任務中の時は、せめて階級章と徽章を意味もなくそびやかして、部下のストレスにならないようにしているのだ。
 実のところは、それでも一般通廊でハッセルブラッド群司令に遭遇した者は、しばらくは幸福になれると云う何の根拠もない迷信があり、それにまつわる非公式な渾名もついて回っているのだが、それは彼女の知るところではない。
 光宙艦航務員の制服は素材や機能性などは都度、更新されてきたが、そのデザインは人類が地球近傍宙域をうろうろしていた時代、つまり公団の前身組織の時代に採用されて以降、それ程、大きな変化はなかった。
 求められるべき変革は常に推し進められては来たが、必要を感じられないものについては、往々にして保守に徹するのが、世の常なのではないか。
 それは光宙艦乗りの心の持ちようも同じなのだろう。
 古の昔から、船乗りと云う生き物は迷信を好むように出来ているのだから。
 取り敢えずはブリッジへあがり、先ほど報告を済ませたばかりのアサクラからの当直の引き継ぎを受ける。
 一見、先刻のモニター越しの報告は無駄なのではないかとも思えるが、あれは報告と云うかたちを取った、彼女の直任務がまもなく始まることを告げる一種のモーニング・コールを兼ねているのだ。
 わざわざその目的のためだけで、定期補給が"二三三〇"に完了するように稼働させてはいないが、もし何よりも仕事よりも朝寝坊と二度寝を優先したがる上官がいたとしたら、手間は省ける。
 イリアはむしろ先に起きているタイプの上官だった。
 それはそれで胃弱な部下などはストレスになりそうだが、幸い、アサクラは必要以上には頓着しないタイプなので、その意味でもこのふたりは良いコンビだと云える。
 光宙時の通常勤務では、一般の航務員は八時間ごとの三交代制だが、群司令、副司令、艦長などの指揮官クラスの上級士官は十二時間ごとの二交代制となっている。
 上に上がるほど、給料だけならまだしも、責任と仕事と拘束時間も増える、とは一般の航宙士たちが口にする出来の悪い冗談の定番だが、勤務中の食事と休憩も含まれているので、別段、辛いと云うこともない。
 それに仕事と拘束時間も増えるのはさて置いても、責任がついてくるのは致し方ない。
 上官は責任をとるためにあるのだ。
 決して部下に責任を押し付けるためにいるのではない。
 少なくとも公団ではそう教えられるし、教わったものもそれを実践している。
 先達が実践し、後継も倣い、それが常識として紡がれ、伝統として繋がる。
 伝統墨守は、何も悪習弊害のみを引き継ぐものではない。
 そして、イリアがブリッジで副司令からさほど目を引く事柄もない引き継ぎを受けてから、数分後、先行する前方哨戒群から発進した緊急連絡の第一報を載せた無人連絡艇-シュヴァルべ-が群旗艦へ接近しながらの情報連結を求めて来た。
 イリアは職業的慣習に従い、左腕のクロノグラフをチラリと覗き見る。
 "〇〇〇一"
 艦内時間で真夜中を一分過ぎていた。
 彼女が乗る群旗艦コーデリア〇一の光路前方からは、グリーゼ五八一へと向かう途上の暗い隘路を照らす光の虹が果てしなく連なり続いている。
 これが異変の始まりであった。
 この時、グリーゼ五八一方面第五次派遣光宙艦群(制式登録名:05DLSSS-LCC1050)は、光程二十光年余に及ぶ道行きの最終段階へと移行しつつあり、そのための編成形態を整えていた。
 大まかに説明すれば、進路の最前に哨戒光宙艦を核とした前方哨戒群、次いで約一光日(二十四光時)後方に群旗艦コーデリア〇一を核とした群司令艦群。
 そして、さらに約一光日の距離を置いて、本光宙艦群の主力とも云える移住者母艦群と物資輸送艦群、補給艦群、さらに約一光日の最後尾にある後方警戒群から成っている。
 実際には、これらの光宙艦群とさらに後方の中継ステーションと拠点整備された宙域や星域の間に築かれた兵站線上を飛び交う後方連絡艦や兵站維持輸送艦などなどが続いており、さながら、古巣から新たな巣を求めて連なる蟻たちの隊列であるかのようだった。
 公団はこうした派遣群をフリートとは呼ばず、キャラバンとすることが常であった。
 確かに、延々と連なって進む艦船のさまを表すには、これ程、しっくりと来る言葉は他にはない。
 純軍事組織ではなく、準軍事組織ですらない公団の組織モデルは、意図的に軍事組織のそれを採用しているため、構成する人員の階級、運用スタイル、記録などに散見する用語など、随所に如何にもな軍事組織的な色合いが見て取れるが、そのことにのみ注視すると、公団の全貌は見えては来ない。
 宇宙開発事業公団-Space Development Public Corporation-と云うおそろしく端的で何の趣きも面白みも感じられない正式名称の組織は、事実、その字義以外のなにものでもなかった。
 ただ、その宇宙と云う単語が意味する領域が徐々に拡大し、それに合わせて公団の活動域も広がり、それに見合うだけの組織を維持しているだけなのだ。
 そして、そうした組織を運用するにあたり、もっとも効率的なモデルとして採用したのが、それこそ人類が有史以前から、改善に取り組みながら実績を積み上げてきた軍隊のそれだったと云うだけなのである。
 その意味でも、擬似的軍事組織と云う言葉の方が公団の有り様を説明するには、いちばん適切かと思われる。
 そもそも軍隊とは、それが仮想であっても敵があってこその組織である。
 その点、公団には、公的な意味、表向きな意味での敵は存在しない。
 もちろん、征服すべき未知なる宇宙こそが、我らの敵である。
 と、恥ずかしげもなく演説ぶった公団の人間は少なくない。
 それが本気だったか冗談だったかは別としても。
 だが、宇宙は征服するには人類にとって広大極まりなく、仮にそれらを敵として戦い抜くには、徒手空拳にも程がある。
 仮に征服し得たとしても、漠然とした達成感が得られる程度では、人は満足しないし、莫大な投資の末に得られるのが、それではあまりに割に合わなすぎる。
 宇宙には、まだまだ未知の領域が広がっているが、そこが浪漫と冒険の領域だった時代は、はるか昔、それこそ太陽系外縁部を、人類が初めて踏破したあたりで終わっていたのである
 無論、個々人が私的な心のうちにそれを感じていたとしても、それを咎め立てする必要もないのだった。
 故に公団に属する艦船の艦種には、警戒艦と呼ばれる艦はあっても、純粋な意味での戦闘艦は存在しない。
 コーデリア〇一などは、文字通り、群旗艦としてキャラバン全体を統率・指揮する機能に特化した艦種であり、武装と呼べるものもあるにはあるが、それは長駆の旅程で、障害となり得るものを物理的に排除するための必要最小限のものであった。
 だいいち、限りなく光速に近い速度で飛翔する光宙艦が物理的な戦闘行為を行うこと自体が今の技術では不可能に近かった。
 光熱源兵器も質量兵器も全て"アインシュタインの呪い"の前では無力化され、何の役にも立たないし、意味もない。
 ここは跳躍飛行が可能で、既知の物理法則さえも飛び越えた異次元空間ではないのだから。
 もっとも、複雑で迂遠な手順を経た上で莫大な借金を遺族へ残し、自爆して果てたいと云うのならば、話は別だが。
 だから排除すべき対象には、恒星系重力圏内など、ともかく一度、アインシュタインが必要以上に干渉してこない宇宙空間へ減速して降りないことには、対処のしようもないし、必要もない。
 幸いにして、何らかの物理的障害として、人類または異星人などが立ちはだかった事例は、いまだになかったし、それに類する何かが行く手を阻んだこともなかった。
 多くの場合は、排除可能なイレギュラーの微小天体であったり、もしくは過去の光宙艦群が除去し損ねたデブリの類だった。
 これは他の艦種も同様で、自衛のための武装、兵装が必要となる相手は、何らかの意図、意思を持った敵ではないのである。
 ただ、それは人類文明の領域に軍隊や戦闘艦は存在しないと云う意味ではない。
 大は星域全てをカバーする組織として、小は惑星や衛星の地上面にひしめく大小の都市や国家や何らかの独立した政体を持つ自治勢力に至るまで、とにもかくにも、何らかの軍事組織を持たない勢力の方が少数派であるのが実情であった。
 その目的も主として自治権の及ぶ範囲での警察行動のためであったり、文字通り何らかの軍事行動(多くは自衛のためと嘯く)を目的とした組織であったり、それこそ枚挙に遑がない。
 自前の組織を持てない勢力同士が、同一の思惑に沿って同盟、連合勢力として運用している例もある。
 そして、不幸にして、現在に至るも、小競り合いの末の物理的な軍事衝突が実際に起こってもいる。
 皮肉屋揃いな歴史学者などが"ガス抜き"と呼ぶ類のものだ。
 大規模な軍事衝突に発展しないのは、この"ガス抜き"によるところが大きいと主張する向きもある。
 だが、哀しいかな。
 そんな"ガス抜き"で何らかの人的被害が皆無だった事例はどれ程の史料を探しても見当たらない。
 人が歴史と云うフィルターを通して、世界を俯瞰する時、往々にして陥りがちな罠に気づくものは少ない。
 それが、こうした人的・物理的被害を被った犠牲者たちの実相である。
 我々は、ひと桁の犠牲者が出た事象と、膨大な犠牲者が出た事象を、その人数、被害総額などで比べがちであり、ともすれば、最小限の被害で済んだ側を"この程度で済んで良かった"などと片付けてしまいがちである。
 だが、そこでふと視点を変えて、歴史を俯瞰してみると、ある小さな事件に端を発して、連鎖的な事件が続き、その結果、失われた人命の数が実は膨大だったと云うことさえある。
 一瞬で膨大な人命が失われた事例より、事態が一向に収束しなかったために、延々と失われ続けた人命の累計が逆転している事例も少なくはない。
 そして、どれ程、膨大な人命が一瞬で失われようと、結果として多くの人命が失われようとも、その個々人にとっては、たったひとつの命が失われた一件の事例なのだ。
 だからと云って、宇宙の星々が全て尽きようとも、人の世に争いの種は尽きない。
 それもまた事実であった。
 ただ、とにもかくにも人類が宇宙へ乗り出し、曲がりなりにも地球圏の外にまで生活圏を延ばして以降、それこそ人類全てを巻き込む程の大規模な軍事衝突は、実際には起こってはいない。
 これは現在の視点から見れば、ただの結果論であると云われてしまえば、それまでなのだが、その要因のひとつとして、人類がいまだ統一した政体を持ち得ていないからだとは考えられないだろうか。
 地球の方々で発展していったそれぞれの文明勢力にとって、世界を統一すると云う望みは、ある種、抗し難い芳香を放つ美味極まりない果実だったようで、多くの英雄として名を遺す人々や、他の無名のまま歴史に埋もれた人々が、その争奪戦を競ったことは云うまでもない。
 むしろ、英雄とは、簒奪だろうと何であろうとも手段を問わず、その戦いを制した、時の勝者を指す美名、虚名、僭称と云っても良い。
 ある時代までは、その勝者が統一者として振る舞い、栄華を極める。
 それは可能だった。
 実際、世界帝国なる存在は、地球上に何度か現れている。
 ただ、そこで指す"世界"の規模が時代が下がるにつれ変わっていくだけであった。
 要は自分たちの既知領域を世界として捉えるなら、世界統一は何度も試みられたし、実際、それに成功したものたちも多い。
 だが、やっと世界を手に入れたと安堵した征服者たちが見たものは、さらにその先に広がっていた見知らぬ世界であった。
 それに更なる野望を抱いた者もいれば、途方に暮れた者もいる。
 「この途は何処へ続く?」
「この世の涯でございます」
「ここは何処だ?」
「この世の涯でございます」
「この地平の先には何がある?」
「この世の涯でございます」
「我々は何処へ向かう?」
「この世の涯でございます」
何をどう問うても同じ答えしか還って来ない堂々巡りの歴史に身を投じた者の何と多いことか。
 人の望みは果てしないが、それを為すには、その命はあまりに短い。
 とはこうした際に引用される使い古された言葉である。
 そして、こうも云える。
 人がその命尽きるまでに掌握し得る版図にも限りはあるのだ。
 だから、古の帝国は一族何代にも渡る大事業としたし、とにかく、過去から今に至るまで、実に多くの勢力が離合集散を繰り返しながら、いまだ成し得ない難事業であることは誰も否定は出来ないだろう。
 公団がそれを別の意味で意識していたのかどうか、明確な史料は何も残されていない。
 そも、規模はともかく一事業体でしかない公団が、そのような未来構想を当初から戦略の基礎として考慮していたかどうかも不明である。
 だが、結果として、公団のおこなって来た開発事業の成果物のひとつとして、今後の考察において俎上にあがることもあるかもしれない。
 公団がその事業規模と領域を拡大しつつある途上で、いくつもの"自称、公団のライバル"たちが、その上前を掠め取ろうともしたし、公団の行く手を阻もうと企てたりもした。
 手を変え、品を変え、時には組織の規範すら変えてでも、彼らは、自分たちに何の既得権益も与えないまま、成長していく公団を目の上のたんこぶ扱いして、あらからさまに妨害に出ることすらあった。
 また、そこまで邪険には扱わない迄も、ほぼほぼ非武装の擬似的軍事組織と云う歴史上稀有で奇妙な存在としての程を成しつつある公団に、皮肉なセリフを投げつけるものも後を絶たなかった。
 前者はおもに政体公認のアジテーターたる政治家と愉快な仲間たちを騙る政商連合であったり、後者はおもに自分たちこそが本家宗家であると譲らないやはり政体公認のテロリストたる軍事組織と愉快な仲間たちを気取る軍産複合体であった。
 ”愉快な仲間たち”には、自分たちに与しない相手は"不愉快な存在"だと思う性があるらしい。
「"ごっこ"も一世紀、本気で続ければ、これはこれで結構、サマになるものです。皆さんは、まだ半世紀ですか? あぁ……うん。ファイト!ですよ。頑張ってくださいね」
 百年"軍隊ごっこ"をしている素人と嘲笑された公団の幹部が、その揶揄った当該国の国防軍建軍五十周年を祝賀するパーティーの席で述べたスピーチである。
 この相手の感情を逆撫でする行為以外のなにものでもない挨拶をした幹部は、コメントを求めるその国の報道陣の囲み取材でこう答えている。
 「継続は力なりと云いたかっただけなんですけどね……。いやあ、慣用句の意訳と云うのは、実に難しい」
 無論、このコメント自体を流暢な現地の言葉で述べている時点で、この公団経営幹部、E・カートライト第一事業本部長(当時)に、皮肉には皮肉で応じる意図しかなく、さらにはそれを取り繕うつもりもないことは明白であった。
 「思えば、その血こそが、公団と私の一族を繋いでいるのです」
 とは、同氏のある子孫の言葉だが、そのカートライト家に名を連ねる者のうち、公団に属した者は、今のところ、第一事業本部長(当時)とこの子孫のふたりだけなので特にこの言葉に意図的な何かがあるとは思えない。
 ただ、E・カートライト自身は後日、次のような述懐を私的な日記に残している。
 彼の国が、我々を評した"ごっこ遊び"とはなかなかに云い得て妙だった。
 なので、ついこちらも興に乗っただけなのだが、挙句、先方の不興を買ってしまった。
 その点は誠に遺憾であると云わざるを得ない。
 何をか云わんや。
 歴史が示す範囲で、公団に関わったカートライト家の人間は、ここは土足禁止だと知ると、わざわざ玄関のあがり口まで戻り、脱いだ靴を履き直して、改めて土足で踏み込んで来るタイプに思えてならない。
 その意味において、カートライトの名は、公団史、実業史、その他の歴史に、公式、非公式問わず、その無遠慮な足跡をはっきりと残している。
 だが、もうひとつ、確かなこととして、公団の"軍隊ごっこ"の実態は、軍事組織へのオマージュでも、アンチテーゼでも、カリカチュアでも、パスティーシュまたはパロディでも、ましてや、ただの劣化コピー、パクリの類ではないとも云えるのだった。
 事実、公団にとって"継続は力"となったのだから。
 蛇足ながら、彼の国は、その後、幾度かのクーデターと革命と政変を経験し、都度、暖簾と看板と主人を変えたが、今はもうない。
 先に述べたことを繰り返すが、宇宙開発事業公団は、その名が示す通り以上の団体でもなければ、それ以下でもない。
 そして、その範疇を越える行為に及んだことも、既知の範囲では記録にない。
 これは公団が太陽系内での開発に従事していた時代からいささかも変わっていない揺らぐことのない方針であり、標榜する指標でもある。
 すなわち、未開拓の天体ないし星域の探査から始まり、やがて開発と事業の採算化を図る。
 そして、可能ならば、人的資源としての移住者を募り、基礎的な研究・開発拠点とし、さらに可能ならば、規模を拡大し、生活拠点としての基盤整備を行う。
 都市レベルで留まる拠点もあれば、星域全体を管轄出来る拠点となる場合もある。
 だが、公団は、ある程度の生活拠点の持続性、継続の目算が可能と見ると、その拠点での自治を勧めるようになるのだ。
 もちろん、この自治権委譲についても具体的で明確な指標があり、今のところ、そこから外れて失敗した事例はごく僅かである。
 自治権の確立、または何らかの独立した政体として成立し得るだけの人口と経済力を維持出来るようになるまでが、公団が責任を持って事業として請け負う範囲なのである。
 勿論、以降も何らかの技術的、経済的な関与は継続するが、あくまでも関与であって、干渉ではないところが公団の公団たる所以であった。
 歴史を紐解くまでもなく、多くの場合、争乱の引き金は、何らかの勢力、政治基盤からの自主独立を標榜する勢力と、それを良しとしない勢力との対立である。
 だが、初めから将来的な自治、独立が担保され、しかもその点では実績に折り紙付の公団が保証人だった場合、争いの種は多少は軽減されることだろう。
 単一の巨大な政体による人類の統一計画にどれ程の意味があるのか?
 先に述べた通り、古来の計画はほぼ水泡に帰し、暴論と極論に過ぎることを承知の上で敢えて述べるならば、そのような野望はまさしく無謀な教訓以外の何かを我々に残しただろうか?
 異文化と人的交流が促進されたと云う反駁は容易い。
 だが、暴力と支配ではなく、それを平和と共存のうちに成し得た時代も存在するのだ。
 どこに政体の中心地を置くにせよ、現在を以ってしても、その統一された意志によって決定された政策や施策を、あまねく全領域へ今日、明日のうちに知らしめて実行し得る手段は存在しないのである。
 それならば、最初から緩やかな繋がりは保ちつつ、各々めいめいでよろしくやって貰った方が、結果としては全体の益となるのだ。
 確かに情報の伝播が速やかに行われないもどかしさはあろうが、幸いにして、人的交流、物流などの経済交流は、いまのところは瞬時往還である必要はないのだから。
 急ぐ必要はない。
 人ひとりの一生のうちに成し得ようとするから、どこかで綻びが出て、結局は破綻するのである。
 ならば、人類の領域を広げつつ、緩やかな自主独立の拠点を確保しながら、いずれ機が熟した時に、未来の総意としてそれを選択するまで、待てば良いではないか?
 彼らから見て過去の我々に出来るのは、彼らの可能性と云う選択肢の萌芽をなるべく多く育てることなのだから。
 その選択肢を彼らがどうするか?
 その結果にまで責任を持つなどと豪語するとしたら、過去の我々は、未来に対して傲慢に過ぎる。
 星の一生にも限りはある。
 宇宙にもいずれ終焉の刻は訪れる。
 だが、人類が軒先を借り、間借りをする程度の時間的猶予は十分に確保されているではないか?
 急ぐ必要はない。
 宇宙に流れる時間と人類に与えられている時間を同一視してはならない。
 急ぐ必要はないのだ。
 実際、恒星間航宙が現実のものとなり、有人光宙艦往還が実用化された時、多くの人間が、惑星上で我々を縛り続けていた時間の鎖から解き放たれたではないか?
 それを"呪い"と呼ぶか"恩寵"と呼ぶかは、それこそ光の速さで明日を奪取することを選択した彼ら彼女ら自身が決めることなのだ。
 急ぐ必要はない。
 限りなく秒速約三十万キロメートルと云う地上から見れば目の眩むような速度で、宇宙的な視点から見れば、それでも尚、遅々とした速度で、我々は未来を目指せば良いのである。
 光速限界を突破できない限り、我々が進むべき方向は未来以外にはないのだから。
 だから急ぐ必要はないのだ。
 宇宙開発事業公団の訓練校で新入生たちが、教官たちにまず最初に叩き込まれる三訓は、
 "慌てない 〜Don't Panic."
 "急がない 〜Don't Hurry."
 "止まらない 〜Don't Stop."
 である。
 一般には公団の"Don't節"あるいは"ないない尽くし、ない尽くし"として知られているものだが、元々は公団の当時の広報担当者が、非公式ながら"ないものねだりではありません"とコメントしたことで世間に知れ渡ったとする説もある。
 そして、惑星ケズレブ開発事業も、そのような公団の構想に沿って計画が進められていったのである。
 太陽系からの光程約二十光年にある赤色矮星グリーゼ五八一は早くから複数の惑星を持つ恒星系であることが知られていた。
 だが、実際に無人光宙艦による宙域探査が行われたのは、光世紀世界へと人類が足を踏み入れてからしばらく経ってからである。
 そもそも公団は、この光世紀世界、すなわち太陽を中心点とした半径五十光年と云う全球宙域を構想した提唱者のプランに基づいて、事業を拡大していったのである。
 すなわち、それがどれ程の宝島だと判ってはいても、一気に離れ小島へ波濤を乗り越えて行くことはせず、ひとつひとつ、近海の小島から小島へと飛び石のように伝って、拠点を整備し、徐々に光宙艦の航路を伸ばしていったのである。
 その時点で、かつてのフィクションや開発プランで構想されがちな巨大万能単艦主義的な恒星間航行船は、非現実的なものと実際に建造まで至った物は極めて少なかった。
 決してゼロではなかったところに試行錯誤の後が見えなくもない。
 単艦で恒星間を渡るためには万能でなくてはいけないし、何もかもを詰め込んでいかなければならないから当然、巨大になるし、エンジンも……etc,etc。
 目的地の恒星系と地球ないし太陽系へ往還させるために、そんな非効率な手段で採算の採れた事業として成立し得るのか?
 だいいち、何らかのアクシデントが船に起こり、それが回復不能であれば、そこまでの計画は全てご破産。
 いちからやり直す羽目になる。
 実用恒星間往還事業は、ゼロサムゲームではない。
 失敗は成功の母と嘯くには、あまりに投資額が莫大に過ぎるし、ともすれば、文字通り、夜逃げすら出来ずに進退極まった挙句に、人類総無理心中の憂き目に遭ってしまう。
 かくして、単艦で行われていた初期の無人光宙艦探査計画では、ある時期から将来的な有人光宙艦就航を見越して、複数艦編成による試験運用も並行して実施されるようになった。
 目的別、用途別に特化した光宙艦群の組み合わせによる運用の実効性が試されたのである。
 公団の光宙艦は規格化された標準艦と呼ばれる何種かの艦体に、目的、用途に合わせてユニット化されたモジュールを追加装備することで、量産化と小型化、採算性のバランスをとっている。
 殊に主機とされる光速駆動機関はほぼ全艦種で共通化、標準化されており、推力が必要な場合は、より大型の主機をいちから設計するのではなく、それで間に合うようなら、複数の主機を束ねるように組み合わせて高い推力を得ることを前提にしている。
 可能な限りの効率化は、実用恒星間往還では必須命題だった。
 基本的な設計が同じと云うことは整備、運用の点でも多くの利点がある。
 光程途上で修繕を必要とする事態となっても、同航する修繕工廠艦によって、破損したユニットのみ修復または交換すれば良いし、何より、最寄りの造船廠まで曳航する手間も最小限に押さえられる。
 もはや、宇宙船がフルオーダーメイドだった時代は遠い過去の話でしかない。
 現在、根本的な設計思想が違った船の実験艦を除けば、実用化試験運用艦までがセミオーダー化されつつある時代なのだ。
 これが現在のキャラバン方式へと繋がっていき、ようやくグリーゼ五八一への往還計画の順番が巡ってきたのであった。
 このように多くの試行錯誤と石橋を叩いて渡っても尚、アクシデントは起こるし、そもそも予測出来なかったからこそアクシデントになるのだが、その意味では"ケズレヴ・ケース"が遺した多くの教訓もまた、公団の歩もうとする未来への指標となったのだ。
 現在も、グリーゼ五八一のハビタブル・ゾーンの黄道面周回軌道上を巡るゴルディロックス記念宇宙生物学研究ステーションが、ケズレブ星域自治政府と宇宙開発事業公団の共同出資によってケズレヴ自治区施政百周年記念事業の一環として設立された施設であることを考えれば、それは自明であろう。
 緊急連絡を告げる第一報を載せた無人連絡艇がコーデリア〇一との情報連結に入った時点で、先ほど当直が明けたばかりのアサクラ一等宙佐、群司令部直轄の管制指揮所(CIC-Control Information Center-)から上がってきた群司令部先任次席幕僚のクライヴ・ハメット二等宙佐が、正面のメインモニターを睨むイリアの視界の隅に現れた。
 もうひとりの次席幕僚であるビヨン・スジュン二等宙佐は当直士官として、そのままCICに残っていた。
 ハメットとスジュン、ふたりの幕僚も二交代制のシフトではあるが、イリアとアサクラのシフトとは六時間ずらして運用されている。
 全員が同じ生活時間でシフト交代していては、平時二十四時間稼働の光宙艦の運用は成り立たない。
 常に誰か指揮官相当の佐官クラス以上の士官がブリッジなりCICなりに詰めているからこその群司令部なのだから。
 とは云え、多少は休めたであろうハメットはともかく、先ほど直が明けたばかりのアサクラは溜まったものではなかろうとブリッジ要員の誰もが同情を禁じ得なかった。
 が、当のアサクラは、直明けわずか五分足らずの間に、蓄積していた疲労を先ほどまで着ていた制服ごと自室のランドリーボックスへ脱ぎ捨てて来たようで、涼しい顔つきで、洗濯したての着替えの制服の袖口に残っていた小さなシワをさり気なく伸ばしながら、イリアが司令席にある際の副司令としての定位置、つまりイリアの席から見て右斜め後方の首席幕僚席へ収まっていた。
 そしてその反対側、つまりは彼女の左斜め後方の次席幕僚席に着座したハメットはすでにCICのスジュンとのやり取りを始めていた。
 イリアは彼らの姿を微かに反射するモニター越しに眺めながら、頼もしくも微笑ましくさえ思っていた。
 おそらくは最初の事態収束までの間、これが彼女が笑顔を見せた最後の場面であった。
 振り返れば、彼女の群司令としての最初の仕事は、群副司令も含む幕僚の選抜人事だった。
 自薦、他薦も含めれば、それなりの候補者数の中から彼女は三人を選ばなければならなかった。
 個別面接の際、彼女が彼ら彼女らにした質問はたったひとつ。
 「貴官は、上官たる私が誤った選択をした時、間違えた命令をした時、直ちにノーと抗命出来るかね?」
 この風変わりな質問に”イエス”と即答した三人が、イリアと共に群司令部スタッフとしてコーデリア〇一に乗り込んだのだ。
 尚、これは余談だが、三人の幕僚たちは、他の航務員たちからは、イリアの公団における非公式な渾名にちなみ、イリア同様に、敬意をこめて三匹のクマ(スリー・ベアーズ)と称されている。
 そして、そのコーデリア〇一のブリッジで首座にあるのは、イリアではなく、艦長のエミリア・カートライト一等宙佐であった。
 彼女もイリア同様に光宙艦生活が長いため、”アインシュタインの呪い”を受けていて、イリア程ではないが、それでも二十代の盛りに見える容貌だった。
 だが、この呪いは、艦長として時には精悍さと冷静さを演じなければならない時、長所として機能していて、エミリア自身も呪いとは受け止めてはいなかった。
 思えば、自身が艦長として光宙艦を預かった時にも、この外見に随分と助けられたものだと、以前、イリアはエミリア相手に語ったことがある。
 だが、明らかにエミリアが他のクルーに与えるイメージと、イリアが他のクルーに与えるそれには、良い印象であったとしても少しばかりイリア自身の思うところとは違っているのだ。
 このことを、果たしてエミリアは指摘したものかどうか、少し悩んだ挙句、彼女らしからぬ曖昧な笑みを浮かべた後、細く編みこんだ黒髪の生え際に浮かぶ冷や汗を意識しながら、すっかり冷めた紅茶のチューブをそっと咥えたものだった。
 だが、今はエミリアは艦長として掛け値なしの毅然とした表情で、次なる事態へ備えての機動配備を全艦へ通達し終えていた。
 緊急事態はマニュアル通りには起こらない。
 その為の群司令であり、その為の艦長であり、だからこその指揮官なのだ。
 イリアが見つめるメインモニターの片隅では、艦内時間を刻む数字の下で、別のふたつのカウントが実行されていた。
 緊急事態が発報されてからの時間経過である。
 前方哨戒群との時差が考慮され、更にコーデリア〇一と情報連結した連絡艇からの微細な誤差修正データを受け取り、現在のカウントが示す数字は、
 Tマイナス01:40:04:02±07
 Tマイナス25:45:04:09±04
 つまり、前方哨戒群で事態を把握してから約一時間四十分、リアルタイムすなわちコーデリア〇一側での主観時間では約一日と一時間四十五分が過ぎようとしていた。
 艦内時間も緊急連絡を受信した〇〇〇一の時点で二四〇一へと表示が切り替わっている。
 状況が終了するまでは、この表示は戻せないし、自動では戻らない。
 こうした時計合わせにも似た作業は光宙艦では欠かせないルーチンでもあった。
 光宙艦が他の対象と彼我の距離を計る時もまた光年光日光分光秒と示されるからである。
 限りなく光速に近い速度で飛翔する光宙艦にとって、時間とは距離であって、距離とは時間なのだ。
 多少の誤差はあれ、前方哨戒群は光程どおり、一光日前方にあった。
 状況如何ではこの光程を詰める必要もあれば、逆に離れる必要もあるのだ。
 こうして前方哨戒群では第一日が終わり、群旗艦コーデリア〇一では最初の一日が始まろうとしていた。

異変-状況-

 前方哨戒群の送って来た第一報はシンプルだった。
 “グリーゼ五八一をロスト”
 テキストはそれだけで、合わせてパケット化されたファイル側でロストした時間、ロスト前二十四時間の観測データ、ロスト後、緊急連絡発報直後の連絡艇離艦までの観測データなど、光路後方にある群司令部が判断材料となり得る各種データが付帯していた。
 そうしたデータは既にCICの解析チームによって整理統合されつつあった。
 まず誰もが予想し得る観測機器類の故障が除外された。
 群旗艦コーデリア〇一のブリッジの正面メインモニターをずっと眺めていた群司令イリア・ハッセルブラッド宙将補は、群司令席を指揮コンソールごと自ら百八十度回転させ、彼女の後席に座るふたりの幕僚と相対した。
 CICのスジュンも各自のコンソールのサブモニター越しに、他のメンバーと顔を合わせた。
 「さて、諸君。どう思う?」
 イリアは即断即決を要求される事態でない限りは、まずはスタッフに意見を述べさせるのが、常であった。
 各自のファーストインプレッションにヒントが隠れている場合も少なくないからだ。
 最初に口を開いたのは、CICに詰めている次席幕僚のビヨン・スジュン二等宙佐だった。
 彼女はデータ解析畑を歩いて来た俊才で、実際、それに見合うだけの仕事を成果として提示している。
 「先ほど、生のデータも覗きましたが……。確かに現時点ではグリーゼ五八一をロストしたとしか表現出来ない状況かと思われます」

 どこかひどく陳腐な云い回しに聴こえる自身の発言に対し不満を感じたのか、スジュンはあからさまなため息をついた。
「赤色矮星(レッド・ドワーフ)とは云え、我々から見れば、かなりのデカブツです。向こうが消えた訳でなければ、光路上に何らかの観測を阻害する要因が出現したとも考えられます」
「小官もアサクラ副司令と同意見です」
 スジュンは解析前の個々のデータをザッと見た上で、何らかの機械的異常や不調によるものではないことを皆に請け合ったのだ。
 ただ、その表現が直裁に過ぎる点が、彼女のお気に召さない様子ではあったが。
 時として整理統合されて分析されたデータからこぼれ落ちたコンピュータですら見落としがちな取るにたらないところに事実が隠れていたりする。
 スジュンは彼女自身の経験でそれを知識で補完し、さらに行動で実証している。
 もっとも解析前の生のデータからそんな事を読み取れる人間は、イリアの知る限り、半径十光年以内の宙域には他にはいないだろう。
 そして群副司令であり首席幕僚たるジョセフ・アサクラ一等宙佐は、観測機器が故障でなかった場合に導き出されるであろう極めて常識的な推論を述べただけだ。
 スジュンと同格の次席幕僚クライヴ・ハメット二等宙佐は、ふたりの意見を総合して鑑み、同意することで、イリアが判断をくだす前に時間を空費しないようにしているのだった。
 常にそれぞれがこの役割分担に徹してる訳ではない。
 各自に得意とする分野があり、その時は、率先してイニシアチブをとり、イリアがより深い決断が出来るように計る。
 逆にイリアの考えを先に促して、そこに補足を加えながら、群司令部としての総意をまとめあげることもある。
 後世において、いくつかの二次史料、三次史料などでは、彼ら彼女、三人の幕僚たち、俗称三匹のクマ(スリー・ベアーズ)の性格として、熱血派、穏健派、冷静派と実に判りやすい人物として描写されることがある。
 が、無論、人はそれ程、単純に類別できるほど、簡単な性格を持ち合わせてはいない。
 むしろ、その渾名の引用元である古典童話からの逆引きによる創作の可能性が高いと云う旨は明記しておいても差し支えはなかろう。
 少なくとも一次史料では彼ら彼女のそのような人物像は確認出来てはいないし、それを裏付ける証言も残されてはいない。
 この時点で、今、出来得ることはひとつしかなかったが、イリアはさらにブリッジ中央の他の乗員席よりも一段高い位置に設定された、つまりは一番の特等席たる艦長席で群旗艦コーデリア〇一の操舵指揮を担っているエミリア・カートライト一等宙佐にも意見を求めた。
 同じものを見ているからと云って、同じことを考えているとは限らない。
 それは逆も真で、同じことを考えているからと云って、同じものを見ているとは限らないのだ。
 「前方哨戒群の指揮を執っているペポニ二佐は、貴官の悪友だったな? 悪友同士、彼の考えは読めるかね?」
「群司令、お言葉を返すようですが、彼は確かに小官にとってのただひとりの悪友です。が、小官は彼のただひとりの良き友なのです」
 多忙な群司令の代わりにつまらない冗句に付き合って笑うのも副司令の務めだとばかりに、アサクラが口の端を斜めにして笑った。
 「……ですが、あの男ならそろそろ決断する頃でしょうか?」
 エミリアはメインモニターの片隅に示された前方哨戒群で緊急事態が発報されてからの経過時間がじきに二時間になろうとするのを眺めながら、そう呟く。
 何を決断するのか?
 などと訊くような素人は、幸いにしてこのブリッジにもイリアの言葉を借りるならば、半径十光年以内の宙域にもいなかった。
 彼、ネプチューン級哨戒光宙艦トリトン二二艦長のンガジ・ペポニ二等宙佐なら、もうすぐ緊急制動を掛けて減速を開始し、通常宇宙へ降りるだろうとエミリアは告げているのだった。
 光速に限りなく近い速度で航行中の光宙艦群では、加速方向前方に展開する艦船から通信連絡艇を用いて、加速方向後方の艦船へ情報の伝達は可能だが、逆に後方の艦船から前方へ通信連絡を行うことはほぼ不可能に近い。
 これをアインシュタインのスローフォワード・ルールと云う。
 あくまでも擬似モデルに過ぎないが、比較的判りやすい例えとして、激流を遡上する船団をイメージすると良いかもしれない。
 この場合、最上流を遡上するのが前方哨戒群であり、群司令艦群を間にはさみ、最下流を遡上しているのが後方の光宙艦群である。
 水は高きから低きへ流れるの通り、エネルギーもよりポテンシャルの高い方から低い方へ流れているのだ。
 故に、上流から下流に位置する船へメッセージボトルを送ることは可能だが、あまりにも激しい流れのため、下流から上流へボトルを渡す手段がないのである。
 あらん限りの力を込めて、上流にいる船へ目掛けて、ボトルを放り投げたとしても、届かずに流れの只中に落ちてしまえば、こちらへ戻って来てしまう。
 その為、双方向での情報・物資のやり取りを行う場合は、光速度の激流から逃れるために、減速して、比較的流れの緩やかな通常空間へ戻って、相対速度を合わせる必要がある。
 前方哨戒群はその任務の性質上、群旗艦(群司令艦群)よりも先行しているが、それ以外の艦船が、その後方に展開するのは、その為である。
 そして、こちらからは物理的な指示を出せない以上は、群旗艦は、緊急時には、前方哨戒群の行動を予測し、然るべき行動に移らなければならない。
 謂わば、受動的スタンドプレーを連携させ、能動的チームプレーと云うスタイルへ矛盾なく、遅滞なく、出来れば効率的にまとめあげることが群司令部の仕事なのである。
 今回のケースの場合、まずは後方の艦船群へ、緊急制動を掛けさせ、通常宇宙速度まで減速し、双方向通信可能宙域へ降りる旨を伝達した上で、次の行動を決定することとなる。
 尚、群司令艦群より後方の艦船でアクシデントが発生した場合に備えているのが、最後尾の後方警戒群であり、その名称とは逆に、彼らが警戒しているのは、自分たちより前方の艦船でのトラブルであり、自分たちより後方の心配はしてはいない。
 何故なら、先に述べた通り、限りなく光速に近い速度で航行する船に後方から肉薄することなどアインシュタインなる無神論者の神が定めた物理法則が宇宙を支配している限り、事実上不可能だからである。
 現在に至るも、アインシュタインにさよならを云う方法は発明されてはいない。
 故に兵站を担う艦船は加速と減速を繰り返し、光速宇宙と通常宇宙を往来し、長大な兵站線を連ねていくこととなるのだ。
 それでも何らかのトラブルが発生した場合の経済的損失を比した場合、こうした一見、非効率的に見えるキャラバン方式の方が遥かに安全であり、実のところは効率的でもあるのだった。
 最短の道が最善の道とは限らないのである。
 そして緊急連絡発報から二時間が経過した時点、つまりコーデリア〇一側の主観では既に約二十二時間前に、前方哨戒群は緊急制動を掛け、減速に移ったと考えるのは、この状況では理にかなっている。
 原因はまだ判らないが、あるべき筈の目的地をロストしたのである。
 闇雲に前に進んだところで何の解決にもなろう筈がない。
 そして、予想通り、最初の連絡艇の接近から約二時間後、続報を載せた連絡艇は、前方哨戒群の減速開始を知らせると同時に、更なる観測データと今後の哨戒任務のスケジュールについても伝達して来た。
 彼らが減速し、通常宇宙へ降りようとしているのは、グリーゼ五八一の光学・電波・重力波探査による直接観測を試みるためであった。
 「まぁ、光宙艦乗りとしては甚だ経験不足な小官でも同じことを試みるでしょう」
 アサクラは小腹が空いたと云って、ブリッジの当番航務員を通じて需品科配給部から取り寄せた携帯糧食-レーション-を齧りながら、そう韜晦してみせた。
 無論、第二報が到着するであろうこの二時間、群司令部は手をこまねいていた訳ではない。
 当然ながら、この前方哨戒群と連動した機動行動の具体的な検討と実施へと状況を進めていたのだった。
 これについては、まずはイリアが自身の意見を述べ、それについて幕僚たちに意見を求めた。
 「私としては、ここで距離を保ったまま、減速を開始するよりも、可能な限り、トリトンとの邂逅軌道へ速やかに遷移する位置で減速した方が良いと思っている」
「危険ではありませんか? 現時点でグリーゼ五八一が雲隠れした原因は不明です。下手をしたら、トリトンごと災厄のど真ん中で心中する羽目にもなりかねません」
 これは既知宇宙で最も美味な嗜好品は水であると公言して憚らないハメットの意見であった。
 実際、今、彼がチューブから啜っているのは、どこかの著名な名水でもなく、硬水や軟水の類でもなく、水質的に特別なものでもなく、ただの艦内循環再生システムで提供されている常温の飲料水である。
 筆者は彼の”ただの水”への並々ならぬこだわりにいささかの興味を覚え、多少、彼についての記録を調べてみた。
 が、彼の出自、履歴、諸々を辿っても、それにまつわる由縁は拾えなかった。
 だから、現時点では、彼が水(名水ですらない普通の飲料水)に拘っているのは、ただただ、彼の趣味・嗜好の問題でしかないとしか記せないのだった。
 全ての物事に誰もが理解出来る動機がある訳でなく、全ての物事に誰もが納得出来るような結果が用意されている訳ではないのだ。
 「小官は群司令に賛成です。……見てみたいですから」
 飲食厳禁のCICに詰めているスジュンは軽食なり嗜好品で気を紛らわせている他の幕僚たちを羨むでもなく、端的にそう述べた。
 だが、彼女のイリアへの同意には、彼女自身の知的好奇心を満足させたいと云う緊急時ではもっとも遠ざけるべき動機が含まれていることに気づかないものも、半径十光年以内にはいなかった。
 云うまでもなく彼女が見たいものは、グリーゼ五八一ではなく、それをロストさせた何かの方なのだから。
 だが、何にせよ、決断するにしても時間は限られている。
 前方哨戒群から距離を置くなら、じきにこちらも減速行動に移らなければならない。
 イリアは旗艦コーデリア〇一を除く並走艦群と並びに後続の艦船群へ待機行動を取る為の減速を指示するため、群旗艦との同期行動に入っていた二艇目のトリトンの無人連絡艇-シュヴァルべ-へ追加情報を載せたのち、その情報連結を解いて直ちに後送させた。
 当然ながら最初のシュヴァルべは既に二時間前に後送を終えている。
 つまり、コーデリア〇一は単艦でトリトン二二とのランデヴーを図ろうと云うのである。
 もし、通常宇宙まで降りた後、まだ行動できる時間的または物理的な猶予があるならばと云う前提条件がつくが、必要ならば、直ちにアサクラとハメットは共にコーデリア〇一を離艦するよう合わせて指示した。
 彼らは、後方に控える移住者母艦に同行している警戒艦に移乗し、臨時群司令部を立ち上げて運用する役割を担うのだ。
 云うまでもないが、彼らが旗艦司令群の並走艦ではなく、一段、後衛の警戒艦に群司令部を置くのは、この時点で、現在の旗艦司令群が、新たな前方哨戒群として先行するからである。
 つまり、彼らが臨時群司令部を置くのは、そう云う事態となった場合なのだ。
 「せっかくだ。ビヨン二佐には私に同行して貰おう。見たいものが見つけられるとよいな……」
 偶数の人数で構成されているチームの最小単位はツーマンセル、またはバディシステムと云い換えても良い。
 すなわちふたりだ。
 それは何も何らかの戦闘行為や作戦行動に限ってのことでない。
 ましてや、スジュンはデータ解析のエキスパートである。
 それこそ何かを見つけてくれる公算がいちばん高い。
 元々、職業軍人からの転職組であるハメットは堅実な光宙艦群の運用で定評があり、この航宙群往還を全う出来れば、昇進の上、いずれは派遣光宙艦群の群司令の任につくことだろう。
 そして、アサクラは、当然、ケズレブ到着後からが彼の本領を発揮する立場なのだった。
 そのことを察しているからだろう。
 誰からも異論は出なかった。
 イリアの命令を待たず、エミリアが艦内通話の回線を開いた。
 「艦長より達する。本艦はこれより艦内時間二七〇五に緊急制動を開始する。通常宇宙巡航速度まで減速後は直ちに先航する哨戒艦トリトン二二との邂逅軌道へ遷移する」
 イリアはこう云う抜け駆けは嫌いではない。
 事態の収束を図るには拙速は禁物だが、必要な迅速さは指示と行動、双方について回るからだ。
 そしてこれが越権とならないのが群旗艦艦長の特権でもある。
 「尚、本時刻を以って全員二十四時間シフト、状況終了までの無期限超過労働だ。各員、手が空いた者から群司令部宛に特別残業手当の申請書を提出しておけ……」
 などと云う余計なひとことさえ添えられてなければの話だが……。
 もっともエミリアはのちにイリアの愚痴に抗弁している。
 「遺言状と云わなかっただけマシだったとは思われませんか?」
 改めて述べるまでもないとは思うが、この物語では、再三、”通常宇宙へ降りる”と云う表現を使っている。
 当然、これは光宙艦航務員が好んで使う比喩に過ぎない。
 一部の宙軍関係者が好んで使う”通常宇宙へ浮上(または復帰)する”と云う喩えも同様である。
 軍人は軍人で験を担ぎたがる人種なので、船が沈むさまを想起するからと"降りる"と云う物云いではなく、"浮上"、"復帰"と云いたがる傾向にあるのだ。
 これらの比喩の違いは、公団が採用している用語の多くは、主にメインランドの空軍関連から、対して宙軍関係は、主に同じく海軍に由来しているからともされる。
 そして、こうした光宙艦が最大船速、理論値では光速の九十九.九九九九%、(実測値ではそこまでの速度を記録した有人光宙艦は公式記録では今に至るも存在しない)で光航している空間も、実際には通常宇宙である。
 だからこそ、乗員も光宙艦もアインシュタインの呪いから逃れられないままなのである。
 あまり知られてはいないが、光速度九十九.九九九九%が理論値でしかないのは、多くの試験有人光宙艦が、この速度を超えた先で消息を絶ち、もしくは今に至るも調査中とされる原因で爆散し、少なくない犠牲者を出しているからである。
 無人光宙艦は既にもう一桁先の領域で稼働可能な現実があるだけに、公団関係のみならず、多くの技術者、科学者を悩ませている。
 さらにこれもあまり知られてはいないが、このことに関しては、全知全能のアインシュタインですら何も予言を残してはいない。
 このため、九が六つ並ぶ九十九.九九九九%の光速限界点は人類にとっては、神すら見捨てる自殺行為の忌むべき数字とされているのだった。
 そして、このグリーゼ五八一方面第五次派遣光宙艦群が太陽系宙域を進発した時点では、この忌み数を無効化するための宇宙空間と物理法則、科学的な理論を易々と瞬時に跳躍出来る艦や、別のルールで飛翔可能な画期的な航宙艦は、理論を実用へと推し進めるべく、公団の技術本部などでも研究は行われてこそいたが、モックアップすら出来てはいなかった。
 だからと云って、いつまでも夢物語、空想上の産物のままとは限らない。
 ある段階までは、そうだったものがどうしても越えられなかった障壁をたったひとつ飛び越えただけで、突然、現実のものとして我々の目の前に出現した事例はいくらでもあるし、そもそも光宙艦と云う存在も、確かな実例のひとつだろう。
 「生まれたばかりの娘と別れて、養育費を稼ぐべく、散々っぱら苦労した挙句に、目的地に着いてみたら、先回りしていた年頃の娘が待ち構えていて、お父さん、あなたの孫ですよ……とか云われるんだぜ」
 これも定番の光宙艦乗りの冗句だが、この後に続くバリエーションは、折々の時代によって流行り廃りがある。
 ケズレヴ・ケース以前の時代、特に好まれていた派生形は、こうである。
 「その衝撃に比べれば、未知の太陽系外由来生命体とのファースト・コンタクトの衝撃なんて……」
 しかし、まもなく緊急制動を掛け、最大減速態勢に移行しつつある光宙艦コーデリア〇一のブリッジ、その一角を占める群司令部の自席では、イリアが口には出さないまでも、そっとひとり毒づいていた。
 「緊急制動時の衝撃に比べれば……」
 その命令を下したのは他ならぬ自分なのだが、彼女は公の立場でそうしただけで、私の立場では、全く心穏やかではいられなかった。
 イリアが光宙艦の緊急制動を初めて経験したのは、それこそ光宙准尉時代の慣熟訓練の実動演習の頃だった。
 今となっては、当時の彼女を知るものは、半径十光年どころか、光世紀世界全領域を探し回っても数えるほどしかいない。
 だが、何より本人が生々しい記憶として苦々しい想いとして憶えている。
 気絶まではやむを得なかったと思う。
 何なら、胃袋は空っぽだった筈なのに、僅かな吐瀉物まじりの胃液をそこら中に撒き散らしたことも許容できる。
 だが……。
 何が、だが……だったのかを明確に示す史料はない。
 おそらくはイリア自身が何らかの手段で公的、私的記録から抹消した可能性もあるし、当初から、何の記録も残してはおらず、この”だが……"が全てを意味しているのかもしれない。
 だが……。
 こののち、実時間にして約一年を待たず、それまで浮いた噂ひとつなかった彼女が自然分娩による初産で、長女アリス(後の太陽系監察連合統合宇宙軍幕僚総監アリシア・グレイ大将)を授かったことと、緊急制動訓練時に乗艦していた光宙演習艦コバヤシマル四七の艦内では二番目にタフでジェントルでハンサムと評されていた同世代の医務長イスマト・ハルボニ・ルルシュ一等宙尉を生涯の伴侶とし得たのは、果たして偶然だったのか?
 これ以上、この点を掘り下げるほど、筆者は下世話な語り手ではない。
 とは云え、以前、別の仕事で既に退役していたアリシア・グレイ本人にインタビューした中で、この段について、彼女は母親譲りの屈託のない笑みを浮かべてこう答えている。
 「いかにも母らしい、と皆さんおっしゃったものです」

状況-開始-

 緊急制動へ向けてのカウントダウンは三十分前から始まった。
 こうなると多忙を極めるのはエミリア指揮下の航務員たちであって、群司令部スタッフの出る幕は殆どない。
 三十分の時間も惜しいとばかりに、ハメットはイリアに許可を求め、より精度の高い予測モデルを構築せんとするスジュンの助手を買って出て、CICへ降りて行った。
 残された群司令と群副司令は、制動開始までは、状況の急変でもない限りは、ひたすらに待機となる。
 「……少しでも休まれては如何ですか?」
 アサクラが、年長者を気遣うかのように、声を掛けてくる。
 実際、イリアの方が明らかに年長者ではあるのだ。
 「……。私は先ほど起きたばかりだ。むしろ貴官こそ少しでも休みたまえ」
「いやぁ、デスクワークが長かったものですから。少々の徹夜には慣れております」
 そうか、あれを少々で済ませるのか?
 イリアは、立場上、前職にあった時のアサクラの仕事ぶりの記録には公式、非公式ともに目を通している。
 正直、感嘆した、と云うよりは、絶句した。
 心身ともに健康な状態での薬物その他不使用による連続不眠耐久実験か何かの被験者なのかとさえ疑ったほどだ。
 日頃の彼を眺めていると、そんなそぶりはまるで見せないし、気取らせないのだが、アサクラは公団随一のワーカホリックとして悪名高い人物だった。
 そして、同時に溜めに溜めた有給休暇を一気に使いまくって、家族サービスに邁進する良き家庭人でもあった。
 要するに振り幅が両極端なのだ。
 と、イリアは思っていたのだが、実像は少しばかり違っていた。
 彼はいわゆるオンとオフのスイッチを巧みに使い分けながら、仕事中であっても分単位の隙間時間が生じれば、そこでオフに切り替え、休んでいる時でも、特に疲れていなければ、頭の中をオンの状態にして、文字通り、頭脳労働に励むのだった。
 そうやって頭の中で書類を整理し、文書の内容を精査、推敲までして、何食わぬ顔で、さも、今、考えたかのようにアウトプットしてしまうのだ。
 いや、どの途、ワーカホリックには違いない。
 家族の前では、
「お父さんはお前たちと目一杯愉しみたいから、目一杯お仕事もしなければならないのだ」
 と嘯き、職場では、
「小官は存分に任務に精励したいがために、存分に休暇も率先して消化したいのです」
 などと嘯く手合いだ。
 それに……。
 と云い掛けて、イリアは口をつぐんだ。
 それに、気遣いは無用だ。
 自分は間もなく気絶する予定なのだから。
 とはさすがにアサクラ相手でも云える筈がない。
 恥とは思わないが、わざわざ事前申告する類のものでもないだろう。
 だいいち……。
 と彼女なりに心の内で自分へ抗弁した。
 だいいち、光宙艦の緊急制動中に、平気な顔をして起きているやつなど私は見たことがない!
 それはある意味、事実であった。
 彼女自身は、その間、ずっと気を失っているのだから。
 「それではいよいよアリス嬢ちゃんに弟妹を授けるおつもりなのですね?」
 光世紀世界をあまねく探すまでもなく、実は彼女と目と鼻の先にいるエミリアこそが、過去の経緯と”アリシア出生の秘密”双方を知っている数少ない生き証人であった。
 そして、うっかり訓練大学校同期の彼女の前でこんな愚痴を漏らしでもしたら、きっとわざとらしく、からかってくるに決まっているのだ。
 とっくに成人しているアリシアの弟か妹を今さら産んでどうするのだ?
 進発、帰還の都度、公団光宙艦繋留廠へいつも見送りに来ていたアリシアは成人してからも太陽系内に留まっており、両親とは似て非なる道を歩んでいた。
 一度、アリシアのハイスクールでの成績を知った公団の人事部から、イリアに”内々に推薦状”を書いては貰えないかと、非公式な打診が来たことがある。
 父親たるイスマト宛ではないのは、この時点で彼女の方がすでに公団での序列が上位だったからである。
 無論、そのことが家庭争議の火種にならなかったのは、イスマトはイスマトで、公団内で二番目にタフでジェントルでハンサムな上に、何よりも公正無私な人格者としての地位を確立していたからで、決して家庭内序列が二番目だったからではない。
 なんにせよ、イリアはそれを一笑に付して断った。
 「アリスは、すでに小官の娘と云う不自由なリスクを産まれながらに背負っているのです。これ以上のリスクを娘へ強要するなど、親として看過出来ません」
 そして、アリシア自身には、
 「人は自由に生きるためにこの世にあるのだ。その自由を自ら捨て去るような不自由でつまらない人間にだけはなるなよ?」
 と、親としては、如何にももっともらしく聴こえる詭弁を捏ねくり回した教訓を垂れてみせた。
 やがて、彼女は光宙艦勤務から戻る度に、アリシアの現在の職場の名を訊いては、その度に首をひねることになる。
 「以前、訊いたところと違うではないか? アリス……。自由に生きろと云ったが、いくらなんでも転職するにも程があるぞ?」
「……母さま。またお忘れになったのですか? 私は、初めからずっと同じ職場にいましてよ? 私が転職しているのではなく、職場の方が改組、再編をするたびに、名前をコロコロと変えているだけなのだと、もう何度も説明したではありませんか? あぁ、いよいよその見た目の若さに疲れて、ついに耄碌なさったのですね……」
「呆れているだけだ。いったい何なのだ? お前の職場のその節操のなさは?」
「臨機応変。柔軟即応。それがウチのモットーなのです。母さまや父さまのトコだって、謹厳実直、曲突徙薪にすぎるきらいがあるではないですか? 少しはウチの自由闊達さを見習ってもよろしいのでは?」
「……それはつまり……。一本、筋が通ってないと云うのだ……。まぁ、公の場でなら、カウンターパートとして認めても良さそうだが、母親の立場からすれば、まだまだ詰めが甘いと云いたいところだ」
「当たり前です。今となっては私の方が姉に見えたところで、それでも私は、いつまでも母さまの血を引く娘でしてよ? その娘が母親をやり込めてしまっては、母さまのお立場がないではありませんか?」
 そう云ってアリシアは母親譲りの屈託のない笑顔から真顔となり、イリアの愛娘と云う立場から、この場での本来の立場へと戻った。
 そして、目を細めて自分を見つめる妹のような母親へ敬礼すると、ここが低重力下とは思えないような見事な挙動で踵を返し、部下たちが待つ来賓席へと向かう。
 今回の進発式での現職は、確か、太陽系治安維持軍第四管区技術試験団団司令だったか……?
 これから始まる苦行の前の現実逃避に向けて、記憶の森へと分け入りながら、宇宙開発事業公団グリーゼ五八一方面第五次派遣光宙艦群司令イリア・ハッセルブラッド宙将補は、いまのところは一粒種の太陽系平和維持機構軍第四管区航宙技術試験団団司令アリシア・グレイ少将に、こちらの不注意と不手際に起因する行為では、決して弟妹は授けまいと密かに誓った。
 だいいち、配偶者たるイスマトは家族たちと、遥か後方の太陽系にあるのだ。
 人類が宇宙へと乗り出した中世期に比べれば、はるかに社会的通念と宗教観や倫理観が緩くなってきた昨今ではあるが、そもそもイリアは彼以外との間で子を成したり、またはそれに準ずる行為に耽るつもりも予定もないのである。
 そして、これは蛇足ではあるが、結局、イリアは終生、娘アリシアの職場の名前を一言一句違えずに憶えることはなかった。
 「それが母さま、いえ母らしいところでしたから……」
 アリシアは、そんな母親の思い出を語る時、誰に対しても、心底、嬉しそうに、そして愉しげに笑って聞かせたと云う。
 秒読みは刻々、ではなく淡々と進行する。
 これが長きに渡る光程の前半期であれば、姿勢制御のためのバーニアを吹かし、百八十度回頭の上、主機の推進軸を加減速方向へ合わせなければならない。
 だが、既に一度、いわゆる折り返し減速中間点を過ぎてから、緩やかな減速を行っていたコーデリア〇一の主機は、万が一の緊急制動位置のまま、固定されていた。
 それでもなお、準備行動が必要だったのは、一旦、火を落としてしまっていた主機を再起動させるためと、運用上、艦体からその一部を露出していた艦橋並びに乗員居住区、いわゆる有人指令モジュールを、中央船殻(セントラル・コア・シェル)へと収容する必要があったからだ。
 光宙艦は、光速に近づけば近づくほど、それ自体が質量の化け物と化す。
 アインシュタインが用意周到に仕掛けた罠を全て回避し、その呪いの迷宮の奥に眠る謎を解く鍵を手に入れなければ、光宙艦はたちまち宇宙の藻屑となるのだ。
 省いて良い手間はないのだ。
 アインシュタインが密かに残したとされるショートカットコマンドを求めて、多くの物理学者たち、その手足となって迷宮の宇宙を疾駆した航宙士たちは、みな、彼との一騎打ちに敗れ、累々たる屍を築き上げていった。
 だが、その堆く積み上がった屍の山、今や銀河連峰と呼んでも差し支えないほどの高みの向こう側にこそ、目指すものがあることは、誰もが知っている。
 つくづく、このたったひとりの天才的なペテン師を、いまだに誰ひとり出し抜けずにいる情けない現実こそが、実用恒星間飛行の歴史なのである。
 何よりも困ったことに、答えを導き出すのに使える手段はたったひとつの冴えたやりかたしかない。
 それはまさに天上界から下界へと降ろされたか細いたった一本の蜘蛛の糸なのである。
 そして今だにその神通力の衰えを知らない無神論者の悪戯好きな神は、下界でそのか細い糸にしがみつこうと悪戦苦闘している我々を眺めながら、舌を出しているに違いないのだ。
 光宙艦の船殻は耐衝撃、対閃光防御のみならず、およそ考え得る数々の物理的障害に対しても有効な強固な防護機能を備えている。
 それでもなお、最強の盾を貫く最強の矛が存在するのだから、文字通り、宇宙は矛盾(パラドックス)に満ちている。
 そんな矛盾だらけの宇宙を渡るためには、これらがその実、論理的にはなにひとつ全く破綻していない、つまり、なにひとつ矛盾などないことを証明してみせなければならないのである。
 アインシュタインは、いったいどれほどのひねくれ者だったのか?
 十重二十重に固く結ばれた矛盾と云う紐を解きほぐせば解きほぐすほどに、新たな矛盾が目の前に出現するとは。
 それを目の当たりにした人々は、もはや醒めない夢でも見ているような忸怩たる思いの中で、それでも前に進まんともがき続ける。
 だが、どれほど、悪態を吐こうが、どれほど、怒りに身を任せて、強引に押し通ろうとしたところで、今やアイシュタインの使徒となりさがったかつての勇敢なる物理学者たちと云う屍鬼どもから一斉に舌を出されて嗤われるのがオチだった。
 だいいち、このゲームのルールも勝利条件ですら、アインシュタインその人しか知らないのである。
 こんな胴元のひとり勝ちが前提の割りが合わないゲームに、人類は、よくも全財産を賭け金として注ぎ込んだものだ。
 などと全くを以って非論理的な思考回廊を行きつ戻りつしながら、イリア群司令は、アインシュタインとその眷族をブツブツと呪いつつ、込み上げてくる吐き気と無限に続くかと思われる制動時に船殻越しに襲ってきた”非人道的なGと云う凶悪極まりない物理法則と云う最凶の武器を手にした悪魔”と格闘する憂き目と相成ったのである。
 そして、緊急制動の最終段階を待たずして、イリアは特に誰も期待はしていなかったが、自身の予想通りに気を失い、次に目覚めた時に見たものは、医務室のベッドの傍らで、とびきり最凶のにやついた笑いを浮かべてこちらをみている光宙艦群旗艦艦長の姿だった。
 カートライト一等宙佐は、群司令の容体を案じて、艦長権限で医務室へ駆けつけた……ことになっているようだ。
 イリアはそこでようやく思い出した。
 あぁ、そう云えば彼女は、自分にとっての唯一の悪友だったと。
 エミリアの唯一の悪友であるペポニとの会見を急ぐべきだった。
 無論、議題は、エミリアを出し抜くための共闘とその算段ではなく、彼の艦がグリーゼ五八一をロストした経緯と、そこから始まった諸問題の検討だった。
 まだ吐き気と眩暈は残るが、医務室の壁に据えられた時計くらいは見て取れる。
 ペポニは通常空間での実測を始めているだろうし、本艦は、艦長がささやかな愉しみに興ずる程度の時間的余裕を以って、トリトン二二との邂逅軌道に乗ったことは確かなようである。
 何かと悪趣味なことを好むエミリアではあるが、残念なことに、艦長としては公団でも指折りの逸材なのである。
 公私の別を何よりも尊ぶイリアが、エミリアに物理的にせよ精神的にせよ友情の証としての私的制裁を加えないのは、全くを以って、ひとえにこの憎らしいまでの彼女の艦長としての才を惜しむからなのだ。

 慇懃無礼と書いてエミリア・カートライトと読む。
 傍若無人と書いてエミリア・カートライトと読む。
 エミリア・カートライトは天衣無縫と云う古事成語を天意無法と書き換えた歴史上最初の人物である。
 世界の言語表現全ての悪口雑言はエミリア・カートライトを顕現するためにつくられた。
 それでも尚、衆目一致するところで、エミリア・カートライト一等宙佐は、人としては諸々、間違っているのに、艦長の職務においては何ひとつ間違えたことがない稀有な存在だった。
 良い意味でも、そして悪い意味でも……。
 どうしてこの宇宙は、大は全てを縛る物理法則から小はエミリア・カートライトの人格に至るまで、矛盾と不合理と理不尽で構成されているのか?
 かつて、こうした人類を悩ませる最大の命題に実に明解な答えの一例を提示してみせた旧時代近世文学黎明期に活躍した当時は著名だった作家がいた。
 そう云うものだ……。(So it goes.)
 現時点ではアインシュタインはこの答えに賛同こそすれ、納得はしていない模様である。
 それは確かにそうなのだ。
 哲学者なら”そう云うものだ”で片付けられる命題を片づけられない面倒臭い人間の成れの果てが科学者なのだから。
 そう云うものだ……。
 なるほど、実際、そうかも知れない。
 だが……何故?
 科学者とは、最後の最後まで”何故?”と考え続け、答えを探し続ける疑り深い生き物なのだ。
 だが、どう云うかたちにしろ、科学者とは違う意味で厄介な生き物たるエミリアを料理するのは、他の全ての厄介ごとを片付けてから、ゆっくりと行えば良い。
 何なら退役後の愉しみとしても差し支えはないだろう。
 おそらくその頃にはエミリア・カートライト被害者の会は、一大勢力として光世紀世界の一角に自治区を形成するほどになっているかもしれない。
 新たな将来の愉しみを糧に、嘲笑と云う悪友の特権を行使するエミリアの視線から逃れるために、今は医務室のベッドの上で頭から毛布を被り、せめて早く重力酔い止めの薬が効いてはくれないものかと祈るイリアであった。
 前方哨戒群の中核艦であるネプチューン級哨戒光宙艦トリトン二二艦長のンガジ・ペポニ二等宙佐は、地球圏でもその名を知られた誇り高き戦士の末裔である。
 と本人も思いたかったが、それは遥かに遠すぎる昔の先祖の先祖あたりまで遡る話で、彼の祖たる人々が共通言語としていた言葉で”楽園”を意味する些か、あまりと云えばあまりな姓を一族郎党がこぞって名乗り始めた頃には、そのような戦士の誇りは、彼らが住まう地域ではすでに質草にもならないカビが生えた代物だった。
 そこで、たまたま一族の中で商才と云う稀有な才能の持ち主だった七代前の先祖が、その誇り高き部族に伝わっていた諸々を古い皮袋から取り出して、”民族芸能”と云う新たな皮袋に詰め替えて、売り先を軌道修正して、さも目新しそうな観光パッケージとして売り出すことから始め、ついには莫大な財を成して今に至る、つまりは誇り高き商人の末裔なのであった。
 故にペポニ家、もしくはペポニ一族は地球圏アフリカ経済圏では一大コングロマリットの当主として、政財界その他諸々、上は政体首長のスポンサーとして、下は田舎の小学生が持っている文房具のメーカーとして、何らかの影響力を持った存在として確かに著名な一族ではあった。
 こうした名家、一族では何代かごとに必ず思春期の反抗期をそのまま引きずって成人する者が現れることは、統計的には証明されてはいないが、それでも確実にひとり、ふたりくらいは現れるものである。
 若きンガジ・ペポニ光宙准尉はその典型であり、おそらくはその始祖まで遡っても一族が輩出したただひとりの光宙艦航法士官であった。
 彼らが住む大陸から海を隔てた遥か東の大陸には、精神力によって宇宙を飛翔出来ると信じる部族がいたが、ンガジの知る限り、彼らの部族の祖先は、そのような精神性も信仰も、世界観も想像力も持ち合わせてはいなかった。
 だから、ンガジは一族の力は経済的にも精神的にもましてや祖先の血筋も使わずに、自身の努力でのみ現在の立場に昇って来たのである。
 もっとも、世界的にも名門で知られる北米の工科大学の大学院卒業までの学費は親の出資に依存していたが……。
 彼のただひとりの良き友であり、大学での同期でもある群旗艦艦長に云わせれば、良くも悪くもお坊ちゃんなのである。
 ただ、良くも悪くもならば、良い点を伸ばせば、悪い点はいずれ注目に値しない取るに足らないものになる。
 ンガジは自身の長所を伸ばすための労力を厭わなかった。
 実際、大学院では博士課程まで進み、博士論文をものにしていて空間電子工学博士として、今も時折、学会誌へ論文を投稿している。
 その点では自身の短所を伸ばすことに愉悦すら覚えていた良き友とは真逆だった。
 つまり、後に歩く公団とまで云われた公団の未来構想を具現化したような人物へと成長したのであった。
 そんな人物にとって公団はまさに”楽園”だったことだろう。
 驚くべきことだが、彼の良き友もまた地球外天体都市工学についての博士号を得ているのだった。
 しかも、その博士論文は今も多くの研究者に引用されるレベルのもので、どこで聞きつけて来るのか、稀に講演依頼すら公団を通じて舞い込むらしい。
 無論、私事では何よりも煩わしさと面倒を嫌うエミリアが引き受けた試しはない。
 これは何の裏も表もない掛け値なしの事実である。
 ただ、彼女の学問への興味と熱意はそこがゴールだったらしく、何度目かの任地の官舎に、博士号の証書ごと置き忘れて来たようだ。
 「才能の無駄遣いも良いところだ」
 イリアの端的な指摘にもエミリアは躊躇なく反論したものだ。
 「それはただの見解の相違ですね。小官の天職は光宙艦乗りと心得ております。故にその職分を全うするために不必要な些事を切り捨てて身軽になっただけの話です」
「曲がりなりにも都市工学について学んだ者ならば、それは公団が行う拠点整備の基盤構築にも貢献出来ると理解できるだろうに」
「それも見解の相違です。小官は叶うならば、いち光宙艦士官としての任を全うすることで公団に寄与したいと考えております。ですから、それ以外の所詮は小役人風情と変わらない幕僚部への転科にも何の興味もありません。いやいや、無論、小官には敬愛する群司令を揶揄する意図はありません。小役人も極めれば立派な小役人です。ですが、光宙艦の加減即時に生じる高Gによる物理的な重圧ならばともかく、あのいつ果てるともなく続くチマチマしたお役所仕事に伴う精神的な重圧には、とてもとても小官ごときの器量と神経では堪えられるとも思えません。小官の志向するそれは総監への道ではなく、操艦による道なのです。幕僚として寄り道ついでにお茶を啜りながら、司令部に流れる怠惰な時間を甘んじて過ごすなど、それこそ小官の余人を以って変えがたい才能の無駄遣いも良いところです。実に勿体無い」
 彼女は謙虚な口ぶりを装ったまま、堂々と長口上で豪語してみせ、さすがに喉が乾いたのか、メインランドの欧州貴族直系の令嬢だと云う副長からお裾分けで貰ったアールグレイの希少な高級茶葉で淹れたお茶を啜って、ついでにイリアの手元にあったショコラ・トリュフを、遠慮なくひとつ摘んで口に運んだ。
 高貴な紅茶の香りとトリュフの上品な甘さに、ひと心地ついたからなのか、悪態をついてすっきりしたからなのか、満面の笑みを浮かべて、エミリアは、空になっていたイリアのティーカップにもポットから紅茶を無言で継ぎ足した。
 共に非直の時は、こうして遠心重力区画の一角に設けられた士官専用サロンで、無為な午后を過ごすことも多い。
 ブリッジにほど近い士官食堂は微小重力区画にあり、正直、イリアはそちらの方が居心地が良いのだが、こうしてカップでお茶を飲める愉しみは、無論、こちらでしか味わえないのだった。
 終生、重力の井戸の底を嫌ったイリアではあったが、訓練校時代に、今もこうして眼の前にいる彼女から初めてお茶に誘われて以来、微小重力下出身者からすれば、奇妙で贅沢としか思えないこの風習を、だが悪くはないとは思っていた。
 琥珀色の温かい液体が、纏っていた白い湯気の衣を脱ぎ捨てながら、重力に惹かれるままに白磁のティーカップへと曲線を描いてこぼれ落ちていく様は、何処か官能的な甘い感情をくすぐる。
 全くを以って、そこには何の実用性も見出せない。
 だが、そんな非生産的な時間こそが、次の仕事への英気を養うのだと云うことを、イリアは、全くを以って不本意ながら、他ならぬエミリアから教わったのである。
 もっとも教えた当人はそんな非生産的な時間を浪費せずとも、常に英気と悪意と邪気を、誰にも頼まれてもいないのに、常に、過剰なほどに養い続けているのだが、エミリアがそれへの反駁など意に介さない人間であることは云うまでもなかった。
 そして、この手の施設が今も存在する理由を、世間は誤解しがちだが、非直の士官が集うサロンや遊戯施設は、何も士官たちの特権享受と云う名前の福利厚生のためにあるのではない。
 ただでさえ長期に及ぶ恒星間航宙の期間、ほぼほぼ目的の星系までは光宙艦と云う名の閉鎖された同一空間で、いつも同じ顔ぶれの人間と何事もなければ特に代わり映えのしないルーチンワークの日々を送るのである。
 それを能率的に維持するために必要なのは鞭ではなく飴なのである。
 無論、飴だけでは精神的にも病的な肥満になりがちではあるので、多少の鞭も必要だが、その匙加減はいつも全ての指揮官(エミリアを除く)を悩ませる問題でもあった。
 そして、こうしたサロンが士官への飴なのではなく、上官には非直の時くらいは自分たちの目が届かないどこかに閉じ籠っていて貰いたい、隔離、監禁しておきたいと切に願う部下たちの側の飴として、つまりは主に部下の側の精神的休養のためこそにあるのだった。
 一般通廊でひと目なりともその可憐な姿を拝めれば、しばらくは幸せになれるとされるイリアであるならいざ知らず、誰しもが、何の自衛手段も持たないままで、エミリアとの突発的接近遭遇戦には及びたくはないのだ。
 こうして旧態依然の程を装いながら士官食堂、士官専用サロンは、公団所属の中型以上の光宙艦設備として、今も存続している。
 職制、職分での比率から勘案しても多数の一般航務員よりも少数の士官たちを自発的な一時監禁へと持ち込んだ方が、よほど効率的だし、何より理に適っていると考えた時点で、それは如何にも公団的な発想の転換とも云えた。
 それは、これを特権だと勘違いしている士官がいるのならば、それは実害がない範囲において、勘違いしたままでいて貰っても良いほどに。
 もっとも、士官候補生として訓練大学校へと進む課程で、若い光宙准尉はみな思い知らされるのである。
 士官には享受する権利などなく、遂行する義務しかない。
 そこが一般航宙士と航宙士官との間に横たわる最初の心理的関門でもあった。
 そして、そんな理不尽な職制、職分だと気が付きながらも、彼、彼女たち光宙准尉はほぼ漏れなく航宙士官としての軌道への投入を図るべく躊躇うことなく自身が保てる推力の全てを費やすのだった。
 飛び級で一般工科大学の大学院を修了したのち、公団の一般学生枠の訓練生として軌道遷移した若きエミリア・カートライト光宙准尉が、当時の訓練生寮のトイレに、落書きと云うかたちで、自分を棚にあげたままの名言を残している。
 「みんな頭がおかしい変態どもだ……」
 イリアは決して口にはしないが、非直で暇を持て余している時のエミリアの相手も、自分の群司令としての義務のひとつだと思っている節がある。
 そして、イリアは時々、こうして共にお茶の時間を過ごす時、ここまで自分に自信を持っている堂々とした、もはや奇縁、悪縁としか呼びようがない彼女のことを羨ましくさえ思うのだった。
 図々しいにも程がある図太さこそが、この理不尽極まりない宇宙で生き抜くには必要なこともあるからだ。
 エミリアならいち光宙艦艦長として宇宙終焉の刻まで何なく平然と生き延びそうな気さえしてくるのは、何もイリア個人の感慨ではあるまい。
 その点ではエミリア・カートライトも、そしてイリア・ハッセルブラッドもある側面から見れば、公団の理想を具現化した人物とされるが、彼女らは終生、公団の枠から外れることはなく、ともに退役宙将としてその人生を全うしている。
 だが、ンガジ・ペポニは一等宙佐まで昇進を果たしたのち、突如、それまで背を向け続けていた一族の血に目覚め、公団出身の退役将校として政界に身を投じることとなり、合わせてファースト・レディ、エミリア・ペポニの華麗な物語も始まるのだが、それはまた別のお話である。
 そして、今、何よりも重要なのは、そんなンガジ・ペポニ二等宙佐がその乗艦を群旗艦との邂逅軌道に乗せるまでの間に、その勤勉さを以ってかき集めた各種実測データがもらたすものであった。
 彼はそのために自らの判断で通常空間へ降りたのだし、それを了解していたからこうして群旗艦もここまで先行して来たのである。
 近接軌道に乗って直接交信可能域まで達した時点で、早くも哨戒光宙艦トリトン二二は速やかな情報連結を求めて来た。
 まだ通信時のタイムラグは生じていたが、群旗艦側が受諾の旨を返信したと同時に、トリトン二二は既にちゃっかりとコーデリア〇一との情報連結に入っていた。
 トリトンは群司令が許可しない筈がないと、その受信を待たずに先回りして情報連結信号を発信していたのである。
 彼我の相対距離と速度から生じる僅かなタイムラグすら惜しみ、それを逆に利用したのだ。
 公団の訓練校で使われる教則本の一頁に記されている光宙艦乗りの心得のひとつとされる"迅速を尊べ、拙速を厭うべし"の端的な実践例である。
 「さすがは貴官の悪友だな。貴官と行動規範が似ている」
「そうですね。小官が彼から学んだことは然程ありませんでしたが、彼が小官から学んだことは終生、彼の依るべき指針となり得るでしょう」
 緊急事態の発報を受けてから後、ずっとブリッジに常駐しながら、それまで自身で必要と認めない限りは存在感を消していたコーデリア〇一の副長を務めるサーシャ・ソビエスキー二等宙佐が堪えられなくなって、思わず吹き出した。
 基本、弁舌ではなく行動を以って部下と直属の上官の範となるべく、寡黙な副官としてエミリアに付き従っている名実ともに由緒ある貴族出身の令嬢たる彼女は、その実、この直属の上官には何の遠慮もない人物として艦内では一定の評価を得ていた。
 彼女の副官としての最大の仕事は艦長の首に鈴をつけておくこと、と部下たちも囁き合っている。
 あれでもカートライト艦長は仕事はきちんとする人だ。
 だからそれ以外の時は、鈴でもついていれば、我々もあの毒気の被害を被らずに済むと云う訳だ。
 そしてクルーの誰もがそれを成し得る人物はソビエスキー副長以外にはあり得ないと云う点で意見の一致を見ていた。
 曰く、副長に往復ビンタを食らっている艦長を見た奴がいる。
 曰く、副長が艦長に今日は夕食抜きだと説教していたのを需品科員の誰かが聴いたらしい。
 曰く、実際に艦長の首に鈴がついているのを見たと云う話をしている奴を知っている。
 曰く……。
 全て、誰かに聞いた話、つまりは伝聞系のそれなので、まぁ、信憑性もその範疇なのだろうが、それは裏返せば、寡黙な副長サーシャ・ソビエスキー二等宙佐への部下たちの信頼の証がそう噂させるのだし、彼女の精勤ぶりを誰ひとり疑っていない証左でもある。
 悪い噂は光速限界を突破して過去に遡ってでも伝播するが、良い噂がこれだけ広く伝わる人物は稀である。
 それは噂であっても、彼女自身への確かな評価あってのものなのだから。
 なお、副長が思わず吹き出した件は、エミリアにとってかなりの衝撃だったらしく、仕事はきちんとする艦長としての側面を顕現させ、ひたすら職務に精勤させる効果をもたらした。
 だが、それでも半日とは保たなかった。
 あれでも仕事はきちんとする艦長のエミリア・カートライト一等宙佐に対してのみ鬼の副長と謳われたサーシャ・ソビエスキー二等宙佐の矜持は、ポーランドの名門貴族の出自としてのそれが誹りを受けた時よりも、いたく深く傷ついたらしい。

開始-観測-

「副長より艦長へ通達。間もなくトリトンとの邂逅点へ達します。油を売ってないでブリッジへお戻りください。」
 群旗艦コーデリア〇一副長のサーシャ・ソビエスキー二等宙佐が、無駄のない簡潔明瞭な用件を艦内通話で伝えて来る。
 さり気なく艦長のエミリア・カートライト一等宙佐へ向けた”毒”が含まれているあたりが、実に彼女らしい。
 そして、エミリアの云い訳を封じ込めるために、それを艦内通信の全艦向けに流した点も、実に彼女らしい。
 今ごろ、艦内のあちらこちらで、クルーが忍び笑いを必死に堪えていることだろう。
 だが、それは同時に緊急事態発報後、長時間の緊張を強いられているクルーに気が緩まない程度の、束の間の緩和も与える精神的作用も含まれている。
 口数が少ないことでは、人後に落ちないサーシャの言だからこそ、効果的なのである。
 苦笑いを浮かべたエミリアに、ようやく気分が落ち着いて、医務室のベッドから起き上がり掛けていた群司令イリア・ハッセルブラッド宙将補が促す。
 「……だ、そうだ。次の油を仕入れるまで、仕事に戻るんだな」
「副長のご命令では致し方ありません」
 そこで艦内通話が対象者特定秘話回線に切り替わり、再びサーシャの声が聞こえた。
 「……僭越ながら、ご気分が回復されておられるようでしたら、群司令もご一緒にお越し願えますでしょうか。差し支えなければ艦長に介添させますので」
 イリアはブリッジへ戻ろうとしたエミリアと顔を合わせる。
 概ね、察しはついていたが、それを補完するように群副司令のジョセフ・アサクラ一等宙佐の声が、サーシャの言葉を継ぐようにふたりの耳に聞こえた。
 「……実は群司令のお休み中に三機目の連絡艇が到着しまして……。」
 アサクラがらしくもなく、言葉を濁した。
 イリアは、彼の口調から状況を理解すると、こちらへ向き直って”仕事モード”の直立姿勢で、彼女の下命を待つエミリアへ呟いた。
 「私も仕事へ戻らなければならないようだ。ついては艦長、肩を貸してくれないかね」
「群司令のお願いでは致し方ありません」
 酔い止めの薬が効き始めたとは云え、いまだ復調したとは云い難いイリアは、エミリアに寄り添われながら、ブリッジへとあがった。
 こう云う時、体面など気にすることなく、誰の手を借りることを躊躇わないのがイリアであり、同じく、エミリアも、何の衒いもなく、イリアに手を貸すことを厭わない。
 ある意味で、これが公団が純然たる軍隊とは違う側面を示しているとも云えた。
 上っ面の威厳など何の益もなく、上っ面の心配など、何の意味もない。
 彼女たちが何だかんだと云い合いを続けながら、それでも長年の付き合いをやめないのも、軍隊に身を置いているのではなく、共に公団にあるからに違いなかった。
 ふたりが戻ったブリッジでは、既にトリトンからの第三便が送ってきた情報の分析と検討が始まっていた。
 「……少しは落ち着かれたようですな」
 アサクラが自席へ戻ったイリアに声を掛ける。
 「済まなかったな、副司令。それで、何が判った?」
 アサクラに短く礼を述べると、イリアはすぐに仕事に掛かった。
 珍しくCICから出て来た情報解析担当の次席幕僚ビヨン・スジュン二等宙佐が、各員の席のモニターへデータを表示させた。
 「これはトリトンの観測位置から見たグリーゼ五八一方向の宙域図です。彼我の距離はこの時点で五光年を切っています」
 つまり、これは赤色矮星グリーゼ五八一を主星とした恒星域の、今から五年前の映像と云うことでもある。
 「映像の中心点には、本来、グリーゼ五八一があって然るべきなのですが、ご覧の通り、やはり何も見えません」
「まさか、本当に消えたのではないのだろう?」
 スジュンの語尾に含まれた微妙なニュアンスを感じ取って、イリアが先を促す。
 「はい。これはあくまでも可視観測の未加工映像に過ぎません。ただ、トリトンのペポニ艦長は、この映像自体に違和感を憶えたようで……」
「違和感? グリーゼ五八一が消えた以上の違和感かね?」
 アサクラが最近、老眼気味の目をしょぼつかせながらも画面を見つめ直す。
 「……ひどくシンプルな違和感です。判ってしまえばどうと云うこともない程の……」
 スジュンはコンソールを操作して、画面中央を拡大すると、骨董品級の値打ちものだと云う噂のウェリントン・タイプの眼鏡越しに、そのつぶらと称される両の瞳を、一同へ順に向けた。
 「確かにグリーゼ五八一は写っていません。が、その後方にあるべき星々も、また見えないのです」
「成る程。確かに種明かしされれば、どうと云うこともないシンプルな話しだ。アサクラ副司令の所感が当たりましたね」
 スジュンと同格だが、先任士官として位置付けられている次席幕僚クライヴ・ハメット二等宙佐が、手にしていたドリンクボトルのチューブから、いつものように常温のただの飲料水を啜った。
 つまり、光宙艦群とグリーゼ五八一の間に何らかの物理的な障害物があり、それが視界を妨げていると云うことである。
 確かにシンプルな話しではある。
 ただ、ここが広大な宇宙空間であり、グリーゼ五八一が恒星としては小型に分類される赤色矮星だとは云っても、それでも太陽半径は〇.二九RSUN。
 すなわち、太陽の約三分の一、地球の約三十一倍のサイズはある。
 ただ見るだけなら小さいが、実際に目隠しをするとなると、充分に大きすぎる。
 要するに先のサイズ以上の障害物が存在することに他ならない。
 現象そのものはシンプルである。
 だが、状況はそれほどにはシンプルではないことも確かだった。
 「トリトン二二は通常航宙域へ降下後、直ちに立体実測を開始しています」
「成る程、さすがはペポニだ。人事考課通りの無駄のなさだな」
 立体実測とは、この場合、トリトン二二から見てそれぞれ百二十度の方向へ無人探査体(プローブ)を三基、投射し、各々の視差を利用して、より精度の高い観測値を得る手段である。
 それぞれの探査領域は一部が重複しており、それによって視野角なども補正出来るため、実測対象の”見掛け上の大きさ”に惑わされることなく、ある程度の正確な位置、サイズ、そして何よりもその実体に迫ることが出来る。
 「……詳細な実測結果は邂逅点でトリトンとの情報連結後に到着する予定です」
「それでは邂逅点に急ぐか……」
 イリアがそう呟いた時、群司令部のブリーフィングスペースからやや離れた位置、ブリッジの中央部の一段高い席に座る艦長のエミリアがにやりとこちらを見ると、わざとらしく厳しい顔つきへ戻ったあと、口を開いた。
「群旗艦艦長より群司令へ意見具申。トリトン二二との邂逅点へ急航するため、本艦は十分間の緊急八G加速を行いたく……」
「副長より艦長へ意見具申。その必要を認めません。本艦はあと五分で邂逅点に到着します。邂逅点を素通りして何がしたいのですか?」
「……厭がらせ…かな?」
 誰への厭がらせなのかは置くとしても、イリアが却下する迄もなく、エミリアの意見具申は無視された。
 だいいち、もし本当に緊急加速が必要な事態が発生したとなれば、彼女は手続きやら何やらで時間を浪費するよりも先に、事後で済むものは全て後回しにして、自身の判断で直ちにそれを実行するだろう。
 あれでも仕事はきちんとする人なのだ。
 群司令部が遺漏なく仕事が出来るのも、有能な群旗艦艦長が群旗艦に関する全てに責を持ち、群司令部を煩わせることなく、存分に差配を奮っているからなのだ。
 だからサーシャは艦長たる彼女に信頼と尊敬を以って応え、鬼の副長の任に敢えて甘んじているのだし、イリアが群司令として旗艦を預けるに足る艦長は、どれほど人として間違っていようとも、エミリアを置いて他にはいないのだった。
 そして、トリトンとコーデリアとの直接交信可能域まで達すると、すぐにトリトン二二から情報連結許可を求める通信が入った。
 イリアはすぐに許可の返信を送るよう、通信担当士官へ伝える。
 「公団の人事部はきちんと仕事をしているな? え?」
 そこでイリアはチラリと”前公団本部人事部統括官”アサクラの顔を覗き見た。
 「……いやぁ、働き者が多い部署でしたので」
「それは貴官もやりがいがあっただろう」
「いえ、皆が働き者ですと、小官などは暇を持て余してしまいます」
「成る程。ここはどうですか?」
 ハメットが無遠慮な質問をする。
 アサクラは厭な顔もせずに、涼しい顔で答えた。
 「さしずめ、バランスが取れている職場とでも。働き蟻も皆、休むべき時を心得ている」
 キリギリスの仮面を被った公団随一のワーカホリックの働き蟻は、こともなげにそう評価すると、裏のない笑顔を見せた。
 「だが、今は働き蟻の時間。この際、キリギリスにも働いて貰わねばならんでしょう」
「キリギリス?」
「はい。副司令より群司令へ意見具申します。キリギリスを一匹、いや、ひとり迎えに行きたいと愚考します。ついてはその許可をいただけますでしょうか?」
 ふたりのやりとりの間に、スジュンは自身の持ち場たるCICへ指示を出す。
 「センター長よりCICレンズマン各員へ通達。トリトン二二との情報連結に備えよ」
「CICレンズマン-セカンド、ツグモよりセンター長へ。……その……トリトン二二は、既に情報連結を開始しておりますが?」
「は?」
「既にトリトンからの情報は”T.A.N.K.-Total Absolute Navigation Keeper-(全天球統合型航法制御モジュール)”に充填中であります」
 レンズマンとはCICに詰めるアヴィエイターたちを表す符牒であり、その歴史は人類が戦闘艦を地球海洋面にちゃぷちゃぷ浮かべていた時代まで遡る由緒ある呼び名だった。
 元々、CICのアイディア自体が、当時人気だった同名のSF小説シリーズから得たものだったからとされている。
 実際、公団航法士-アヴィエイター-としても選りすぐりの彼ら、彼女らは、”レンズマン”と云う呼称に誇りすら覚えている。
 (なお、この時代、”man”から性別を示す意味は、すでに失われて久しい。むしろ、”human-人間-の略語として使われていることの方が、社会一般的なのである)
 ましてや、その長たる群司令部次席幕僚ビヨン・スジュン二等宙佐は紛れもなく”正真正銘のレンズ”の眼(いまどき医学的かつ実用目的で眼鏡を掛けている人間など稀なのだ)を持つ”レンズマン-ファースト”なのだから。
 CIC、群司令部管制指揮所の士気は彼女の遺憾無く発揮される俊才ぶりと的確な指示によって保たれているのだ。(なお、重ねての注釈で恐縮だが、ここでの”ファースト”、”セカンド”と云う呼称はCICでの序列を指しており、世代のことではないので、出典引用元の表記と混同しないように留意されたい。)
 だが、CICの主任航法士(レンズマン-セカンド)であるツグモ一等宙尉の報告に、”ファースト”のスジュンは一瞬だけ戸惑いの表情を浮かべ、イリアを見た。
 (そういうことか……)
 と、ペポニのやり方が判ってきたイリアは、エミリアへ話題を振ることで、それに答える。
 「さすがは貴官の悪友だな。貴官と行動規範が似ている」
「そうですね。小官が彼から学んだことは然程ありませんでしたが、彼が小官から学んだことは終生、彼の依るべき指針となり得るでしょう」
 エミリアのトリトン二二艦長への寸評は、副長のサーシャの吹き出し笑いで、あっさりケチがついた。
 悄然とするエミリアを視界の端に見ながら、イリアは、そっと心のうちで満足して自分の仕事へ戻ると、傍らに待機していたアサクラからデータ・クリップ・ボードを受け取った。
 そして、ざっと眺めて、アサクラが述べた"キリギリス"の素性を確認すると、小さくため息をつく。
 「……イパネマのご老体か……」
「小官も何の気無しに移住者名簿を見ていた時に知ったのですが、よもや一般人として乗艦しているとは思いもよりませんでした」
 アサクラは、おそらくはワーカホリックの性分として、本当に何の気無しにケズレヴ到着後の仕事を円滑に進めるために、暇を見つけては移住者リストをチェックしていたのだろう。
 来週、来月、来年に到着する訳でもないのに、だ。
 イリアは誰に云うでもなく口の中でそっと呟く。
 何なら、かつてソビエスキー副長から誕生日の祝い品として贈られた逆ポーランド記法卓上量子演算機を賭けても良い。
 個人的趣味の関係で古物商免許を持つスジュンが間違ないと太鼓判を押した代物だし、そもそもサーシャが個人的に誰かに贈るもの、譲る物、お裾分けする物は、大抵の品が値打ちものなのである。
 だから、もしサーシャがエミリアの首を差し出したとしたら、きっと彼女の価値も、ついでに歴史的な名声もグンと跳ねあがるに違いない。
 とにかく。イリアはそれほどのものを賭けるだけの自信を持って確信している。
 恐らくはアサクラの脳内の記憶野には、既に移住者全員の公開情報のリストが完璧にインプットされている筈だ。
 イリアはふと、果たして、自分には、後方の移住者母艦群にいる移住者二万人分のリストを漏れなく記憶出来るだろうかと自問してみた。
 たかが二万人、されど二万人である。
 その家族関係、職業、移住後に要望している様々な事柄、非公開情報を差し引いても尚、記憶すべきデータ量は半端ではない。
 しかも、アサクラは、それを最適化したかたちで、いつでも自分の頭の中から取り出せ得るように分類し、整理まで済ませているのだ。
 その管理を情報記憶AIに任せるにしても、必要な情報にたどり着く最善のルートの地図は手元にあるに越したことはない。
 云うは容易いが、とはまさにこのことだろう。 
 「了解した。あのご老体が相手では、副司令自らが出向いた方が礼を失することもあるまい」
「ありがとうございます。ではジョセフ・アサクラ一等宙佐、直ちにキリギリス送迎の任に着きます」
 アサクラはイリアへ敬礼すると、ブリッジから艦内各所へ繋がる通廊の気閘へと向かう。
 「艦長より甲板長へ通達。アサクラ副司令が移住者母艦群へ”おつかい”に出られる。キャブの発艦準備を急げ」
「こちら甲板長マルケス、了解です。久々のアサクラ・カスタムの出番と云う訳ですな」
 心なしか甲板長のマルケス一等宙尉の声が弾んでいるように聞こえた。
 事務屋の親爺を自称するアサクラは、常々、事務屋の足は"キャブ"ですからと公言して憚らない。
 そして、おそらくはこの"キャブ"の愛称で呼ばれる五〇式有人単座または八〇式(ないし百二十五式)有人複座の小型光宙連絡艇の操縦でアサクラの右に出るものは、この光宙艦群にはいないのだった。
 無論、アサクラ・カスタムとは彼の操縦特性に合わせて、自身が非番の折にチューニングした専用艇である。
 そんな非番の過ごし方をしている輩を、職業的技術者集団でもある甲板員の長が嫌う理由は見当たらない。
 むしろ、つるんでいるに違いがないのだ。
 イリアなどは、時としてこの”自称・事務屋の親爺"が、あとどれだけの"隠し球"を持っているのかと訝しむほどであった。
「そう云うコトだ。それからトリトンからのお客さんもぼちぼちやって来る頃合いだ。そちらの収容準備も進めろ」
「ほ。臨時列車ばかりが出入りしますな」
「それこそ、緊急事態らしかろ?」
 サーシャの一瞥からさり気なく目線を外しながら、それでもエミリアは当座の艦長としての職務は果たしてみせ、自分なりの矜持を取り戻そうとしている。
 そして、イリアの方へ視線を向けると、
 「直接乗り込んで来ますよ、ンガジは……」
 とだけ伝え、それで説明終了とばかりに艦長席の正面モニターへ向き直った。
 彼女としては気の利いた、第三者にとっては余計なひとことを、それ以上は云い添えなかったのは、まだサーシャの目が光っているからに違いない。
 情報連結が完了している時点で、コーデリアとトリトンの間は双方向直接通信をほぼリアルタイムで行えるようになっている。
 だから、関係者でブリーフィングするにしても、リモートで充分と云えば充分なのである。
 だが、エミリアがそう云うなら、ペポニとはそれでは満足出来ない性分なのかも知れない。
 そして、アサクラの光宙連絡艇(百二十五式スーパー・キャブ・アサクラ・カスタム)が発艦してすぐに、彼、ネプチューン級哨戒光宙艦トリトン二二艦長ンガジ・ペポニ二等宙佐はブリッジへと姿を見せた。
 ペポニ二等宙佐は紛うことなき偉丈夫であった。
 鮮やかな赤のローブとこちらも鮮やかな青い胴巻きをバーミリオンカラーの通常作業服の上に纏い、アフリカン特有の黒檀のようなつややかな肌に彩られたしなやかな細身の長躯から伸びた細い四肢は、無駄のない筋肉が精悍さを醸し出している。
 地球"メインランド"の出身でありながら、身の丈はむしろ、イリアより首ひとつは高い。
 同じ細身の長身でありながら、イリアと違うのは1G重力下で鍛えられた研ぎ澄まされた刀身のような鋭さを印象づけているところだろうか?
 尚、この如何にもな民族衣装然とした装束は、彼の私物ではなく、れっきとした公団の官給品である。
 文化の多様性を重んじる公団の主旨に基づき、本人から申請があれば、それぞれの属する文化圏に則ってアレンジされた制服が貸与されるのである。
 もっとも、先に述べたように、彼の眷属で公団に籍を置くものは後にも先にも、彼ひとりだったので、今のところ、この制服を着用しているものは他にはいない。
 それでも尚、自らは一族に背を向けているつもりなのだから、彼は、やはり良くも悪くもお坊ちゃん体質は抜けていないのだった。
 艦内通廊から続く気閘をやや前屈み気味にくぐり抜けると、一族の慣習に従い剃り上げた形の良い頭部の真ん中で知的な光を放つ両の眼を以って、ブリッジ内をぐるりと見回し、よく通るバリトンを響かせながら、小気味良い敬礼をする。
 「申告します。前方哨戒群トリトン二二艦長ンガジ・ペポニ二等宙佐、イリア・ハッセルブラッド群司令へ状況の説明と報告のため、出頭致しました」
「Au Ngaji…… Je, hatimaye ulihisi kutaka kunipa ng'ombe?」
 答礼しようとするイリアを差し置いて、艦長席に座るエミリアが上半身だけを捻って振り向くと、ペポニへ何ごとかを囁いた。
 「!! ……エミリア、ふざけるなら時と場所を選べ」
 彼の母国語で発せられたエミリアの問いかけに、ペポニは標準英語で返す。
 「おやおや……。私を呼ぶときは”マイハニー”とか”スウィートハート”と呼べと云ってるではないか? 何なら"ラヴリーキティ"でも許容するぞ?」
「今は任務中! あ、 いや……。プライベートでもそんな呼び方はせん!」
「連れない奴だ。数えきれぬほどの夜を共にした仲だと云うのに……」
「……! あれは貴様がグダグダと理由をつけては博士論文を一向に仕上げようとしないから付き合っただけで……」
「おや? そのうちの何度かは、確かに私の象牙色の肌とお前の黒檀色の肌を重ねて、愛を交わし合ったではないか?」
「あれは! いや、そうではなくだな……。いや! どの途、そう云う用件で出向いたのではないぞ! 私は……いや、小官は任務中であります。 私事に関しての話題はお控え願います。カートライト艦長……」
 ”ようやく牛を持って来たか?”
 エミリアはペポニにそう云ったのだ。
 わざわざ、彼の母国語で、彼の出身一族の求婚の際に用いられる慣用句まで持ち出して……。
 不意打ちに近いかたちで突然、ヘボな恋愛詩人を気取った彼女の問いかけに対するペポニの狼狽振りは、見ていて切なくなるほどだった。
 何しろ、ブリッジに詰めているクルーは、誰もが公団の上級士官に属する。
 つまり、それは、かなり限定的な地方の方言でもない限り、一般的な地球の言語に殆どについて、高度な教育を受けていることを意味していた。
 一見、迂遠に見えるエミリアの云い回しも、ここにいる誰もが瞬時に意味を理解出来るし、彼女は判っていて、敢えて皆に聴こえるように云ったのだ。
 だからこそ、ペポニへの容赦ない彼女なりの歓迎の挨拶にどれ程の猛毒が含まれているかを理解し、やはりエミリアは私人としては、諸々、間違っていることを改めて確信したのだった。
 後日、何かの折に、エミリアはブリッジの中央で愛を叫んでみせたものだ。
 「ンガジ・ペポニ、彼こそが私の愛そのものです」
 ———居合わせた誰もが
 「どの口がそれを云う?」
 と、しばらくは開いた口が塞がらず、それを平静で清らかな心のままで閉じる方法を各自の座席の端末でそっと検索したし、私は私で
 「光宙艦全群へ通達。総員ツッコんでヨシ」
 と群司令としての職責を果たすべきかどうか迷った程だった———
 後年、ンガジとエミリアの結婚披露宴へ、アフリカ経済連合大統領府の公式な賓客として招かれたイリア・ハッセルブラッド退役宙将の祝辞の一部要約である。
 大統領府公邸に隣接する公文書記録館で誰でも閲覧出来る間違いない彼女自身の言葉であった。
「……わざわざ済まんな。ペポニ艦長」
 前触れなしの痴話喧嘩から職務へ戻りたがっている風のペポニへ助け舟を出すつもりで、イリアは遅ればせながらもその心中を労う意味も込めて答礼を返す。
 そして、視線だけで、
 (このふたりはそういう間柄なのか?)
 とエミリアの傍らでため息をついている副長のサーシャに尋ねる。
 サーシャは肩をすくめながら、
 (ご存知なかったのですか? そう云うことです。ペポニ艦長はまことにお気の毒なことで……)
 と、更なるため息でイリアに答える。
 全くを以ってご存知ではなかったし、個人的にはかなり興味深い話題ではあるが、残念なことにイリアも仕事を優先するたちだった。
 どうせ、素知らぬ顔で職務へ戻ったエミリアへの”お仕置き”は、あとでサーシャがやってくれるだろう。
 とにかく、今は先に片付けることが山積みなのである。

観測-検証-

  -Ne pas déranger !!-
 「Don’t disturb!!(起こすな‼︎)…と来たか……」
「えぇ、まぁ……」
 群旗艦コーデリア〇一から一光日後方の待機軌道にあった移住者母艦群の一隻、ジュピター級五群母艦アドラステア〇二に到着した群司令部副司令ジョセフ・アサクラ一等宙佐は、目指す気閘扉に掲げられたメッセージボードの前で苦笑していた。
 彼をここまで案内してきた需品科の当番航務員も曖昧な笑みを浮かべる。
 「それで? この”アマノイワト”はどうやって開ければ良いのかな? あぁ……。チトセ宙士長?」
 アサクラは、彼の名札を一瞥したあと、少し困った風な程で尋ねる。
 チトセ宙士長は肩をすくめながら、やはり困り顔で応じた。
 「さて……。”アメノウズメ”にでも踊って貰いますかね?」
「……つまり?」
「はい。外からは開ける手段がないのです」
 そうだろうとは思ったが、実際に断言されると、頭を掻くくらいしか出来そうもない。
 だが、アサクラとしても、ここに眠るキリギリス、あるいは群司令イリア・ハッセルブラッド宙将補が云うところの”イパネマのご老体”には、何としても群旗艦コーデリア〇一までご同道して頂かねばならない。
 現在進行形の状況にある程度の道筋をつけるためにも、この”公団の生き字引”が生涯かけて貯めに貯め込んだ知恵とそれを下地とした学識が必要なのだ。
 チトセは簡単に"岩戸"に籠っている人物の現状を説明する。
 「……つまりはグリーゼ五八一近傍宙域到達まで起きるつもりはないようで……」
「どうやって到達時に自分で起きるつもりなのかね? 目覚まし時計に頼るにしても、多少は光程のズレもあるだろうに?」
「そこまでは……。あぁ、一応、室内コンソールは生きているのかも? 衛生科の方でも生体情報は常にモニターしている訳ですし……」
 右手で顎を撫でながら思案していたアサクラは、彼の言葉に一筋の光明を見た気がした。
 「……試してダメなら、また考えれば良い……」
 アサクラ一等宙佐は踵を返すと、訝しむチトセ宙士長を引き連れ、艦内通廊をブリッジへと向かった。
 移住者母艦群は、このグリーゼ五八一方面第五次派遣光宙艦群の中核であり、同時にこの母艦群をケズレヴへ無事に送り届けることこそが本光宙艦群の主任務でもある。
 殊にジュビター級でも五群と呼ばれるシリーズの母艦は、単艦での収容人員数は五千名程度の小規模艦ながらも、アサクラたちが太陽圏進発時に就役したばかりの最新艦で、当時はまだ四隻しかなく、しかもその四隻全てがこの光宙艦群に集中配備されているのだった。
 従来のジュピター級に比しても、超長期凍眠が可能な最新の環境ユニットが実装されている上、艦内時間で年に二回実施される艦内生活環境メンテナンスもほぼ自動化されており、運用する操船科のみならず後方支援にあたる需品科、医療科のスタッフもこれまでのそれよりも十分の一でこと足りるように設計されている。
 そして何よりも船殻内の居住・凍眠区ユニットを特殊な緩衝ジェルで包みこむことで、加減速時に発生する余分なGを相殺する耐衝撃システムの最新型を実装しているのだった。
 進発前の編成会議で、それを知った時、大の重力嫌いで群司令でもあるイリアが珍しく公私混同して、これらのどれか一隻を群旗艦にしようと云い出した程だ。
 無論、諸々の現実的な問題により、その主張は着任したばかりのアサクラたち三人の幕僚陣によって却下された。
 例のイリアの風変わりな質問へイエスと答えた、彼ら、彼女は、早々と上官にノーを突きつける権限を行使したのだ。
 だが、イリアが羨む程には、光宙艦の安全性と信頼性、それを踏まえた上での効率化と省力化は、公団がもっとも重きを置いているオーダーであり、そのための技術開発の更新を怠ったことはないのである。
 それはハードウェア然り、ソフトウェアも然りである。
 派遣光程途上にある光宙艦群のハードウェア更新には限界があるが、ソフトウェアに関しては、リアルタイム補正は無理としても、それでも更新は不可能ではない。
 つまりは、例の御仁が籠る”茨の森の城”とて同じことなのだ。
 “城内”で眠る主が心置きなく眠り続けられるように、”城外”にある各種艦内システムは連動しており、文字通りのライフラインとして機能している。
 凍眠システムは、人を仮死状態にする訳ではない。
 あくまでも極低温下で”それに近い状態”で生き続けたままにするものである。
 半死半生状態、"生ける死人製造機"あるいは”半ナマ状態維持管理機構”などと揶揄する向きもあるが、それは適切な比喩とは云い難い。
 例えコンマ何パーセントであっても”ねむりひめ”に死んでいて貰っては困るのである。
 どこまでも長く緩やかで穏やかな生の継続こそが、凍眠システムの本旨だった。
 だから、生体に繋がれたいくつかのチューブを通して、緩慢ではあるが決して止められない新陳代謝のために必要なもの、体外へ排除すべきものの交換は行われるし、それらが正常に行われ、生体が安定した状態にあるかどうかのモニターチェックも欠かすことはないのである。
 アサクラは、そこに活路を見い出しそうとしていた。
 だが、もし、城の主人を目覚めさせる手段が、唯一、口づけのみだったとしたら……。
 彼は、自身が知る”公団の生き字引”のプロフィール写真を思い浮かべた後、力なく首を振った。
 もし、その時は、当番であるチトセ宙士長に王子役を押しつけるか、はたまた、ただただ、それだけのために群司令にお越しいただくか……。
 自らの職権を濫用するつもりも、ただでさえ貴重な時間と労力を無駄にするつもりもないアサクラとしては、今、ここで自分が出来ることを可及的速やかに全て試すしかないのだった。
 彼自身は自覚していなかったが、公団随一のワーカホリックとしての血が密かに、彼の脳細胞を活性化させ始めていた。
 アサクラがアドラステア〇二へ向かって程なく、コーデリア〇一のブリッジではペポニによっってもたらされた実測データの検証が始まっていた。
 彼の乗艦に先立って、トリトン二二との情報連結によって、群司令部CICでの解析が進んでいたため、可視化されたグリーゼ五八一周辺の宙域での異変は、誰の目にも明らかであった。
 「……これは光程十光年時点で行っていたグリーゼ五八一の立体観測の結果です」
「……まだ、兆しは見られていないな」
「はい。以後、一光年ごとの定期観測データしか残っていませんが、宙域を限定して詳細な検討を行なった結果、極めて僅かではありますが、直近八光年の時点から、グリーゼ五八一を中心とした観測値の揺らぎがあることが判りました」
 CICセンター長も兼ねる次席幕僚のスジュンがコンソールに指を滑らせ、当該宙域の拡大図を皆に提示する。
 「揺らぎと云うのは具体的にはどう云うことなんだ?」
 同じく次席幕僚のハメットが先を促す。
 「直接的には、グリーゼ五八一の光度に予想される自然変動の誤差以上のものが観測出来ました。さらには赤外線、X線などの放射量にも変化が見られます」
 スジュンはさらにトリトンの無人探査体(プローブ)によって得られたデータから割り出された立体的な星域図を表示させる。
 「視差一光時程度の精度ではありますが、問題の障害物は、グリーゼ五八一のハビタブルゾーンの外周に展開しており、その領域は現在も拡大中と思われます」
 「つまり、およそ三年前にグリーゼ五八一宙域に出現したなにものかが、ハビタブルゾーンを覆い隠そうとしている…と云うことか?」
 ここでイリアが口を開いた。
 「現在得られているデータでは、あくまでも推論の域でしかありませんが……」
「だが、極めてその可能性は高い」
「はい」
 イリアはコンソールのモニターに映し出されているグリーゼ五八一をじっと見つめた。
 彼我の距離では、絶対等級がたかだか太陽の一.三%に過ぎないこの赤色矮星の周辺で起こっている現象の詳細を、今すぐに掌握することは極めて難しい。
 しかし、それでもこの変異が、こちら側、つまり光宙艦群の近傍宙域に出現したのではなく、目的地周辺でのものだと云うことが判っただけでもこの先の対応は変わって来る。
 「さて、どうしたものか?」
「……まずは、こいつがいったい何なのか? その正体を知ることが先決なのでは?」
  ハメットが首を傾げながら意見を述べる。
 「……これも推論の域は出ませんが……」
 アサクラの留守中、ハメットが首席幕僚の席に移ったことで空いた次席幕僚席に座っていたトリトン二二の艦長ペポニが眉間に皺を寄せながら、ひとりごとのように呟いた。
 恐らく、自分でもはっきりとした確証はないのだろう。
 「どうにも観測値の揺らぎが気になるのです。単なる遮蔽物だと云うだけでは説明がつかない程度には、グリーゼ五八一から放射されている赤外線やX線などの数値が低すぎる気がするのです」
「……あれは遮蔽しているだけではない……?」
 スジュンが興味深げに、眼鏡のレンズ越しに瞳を輝かせ、ペポニの言葉を反芻する。
 「通常の自然減衰値以上に吸収している……」
「あるいは……」
「それ以上の推論は我々よりもプロの学者、技術者の仕事だろう」
 そこまで云ってから、イリアは、空間電子工学博士でもあるペポニが苦笑するさまに気づき、自身が先程のエミリア主演のソープオペラにいまだ動揺していることに気がついた。
 「済まない。二佐、含むものはないのだ」
「いえ、お気になさらずに。小官は光宙艦艦長としてここにいるのです。それにこれは空間電子工学ではなく、統合物理学の領域の話ですから」
「プロの統合理論物理学者は、今、副司令が迎えに行っている。それまでの間、プロに問うべき疑問を山積みにしておこうではないか」
 ペポニは本当に気分を害してる訳ではないのだと、イリアへの気遣いも含めて、彼女の提案に、育ちの良さも彷彿とさせながら首肯してみせた。
 何処か朴訥でありながら、その人柄も垣間見える彼に、イリアは好感を覚えた。
 ペポニとエミリアは人間としての品格が真逆のベクトルを指向しているのではないか?
 「彼と小官は共にないものねだりで惹かれて合っているのです。もしくはバイナリ……」
 エミリアがそう本気の愛を込めて語る程度には、ンガジ・ペポニ二等宙佐はタフでありジェントルであった。
 まぁ、公団では三番目だがな……。
 ひとりほくそ笑むイリアの視界の隅に、今回のブリーフィングには参加していないエミリアが艦長席でそわそわしているのが映る。
 先刻からずっと何かを云いたげなエミリアだったが、サーシャの指示で、艦内各署から矢継ぎ早に送られてくる艦長未決ファイルが、その口を封じていた。
 エミリアを黙らせたくば仕事に忙殺させるべし。
 サーシャ・ソビエスキーが一等宙佐として昇進し、光宙艦艦長の任を得て転属した折、後任の副長へ贈った言葉である。
 案ずることはない。
 私の艦の主砲は、常に彼女にゼロ距離で照準を合わせて指向している。
 非武装の光宙艦乗りにはお馴染みの冗談だったが、サーシャが普段は決して見せない無邪気な笑顔で囁かれた側は、百万の味方を得たようなものです、と彼女への信頼を口にするのだった。
 貴族令嬢サーシャ・ソビエスキーは、ただの常套句に過ぎない言葉を贈る時ですら、本物の宝石以上の輝きを添えて贈るのだった。
 だが、エミリア・カートライト艦長が乗艦する光宙艦のブリッジが、もしもゼロ距離砲撃を受ける時、彼女の傍らに佇むのは、他ならぬ後任の副長たる自分なのだと云うことを、何故、気がつかなかったのか?
 そこで初めて、サーシャの言葉の真意に気がつく後任者だった。
 エミリアが万が一にも艦長として使えない人間と堕した時、サーシャが指揮する非武装な筈の光宙艦の主砲は、コンマ何ミリかの照準修整の後、精密狙撃を以って、無能な副長たる自分のみを屠るのだと。
 「……それはそうと……」
 スジュンがそっと右手を挙げて発言の許可を求めた。
 基本、自由闊達な発言が尊ばれるイリアの群司令部の幕僚とは思えないほど、控えめで複雑な笑みを彼女は浮かべていた。
 それはむしろ、常日頃のスジュンらしくない表情でもあった。
 「お忘れかもですが……。ウチにもひとりいます……。その……プロの物理学者が……」
 イリアは忘れてはいないと云い掛けて、実際には忘れていた自分に気がついた。
 スジュンの直交替士官として、CICに詰めることを仕事のひとつとするクライヴ・ハメット二等宙佐は、例によって、ただの飲料水をひとくち啜ったあと、誰にともなく呟いた。
 「あぁ、いたな。ひとり……」
 数分後、CIC直属のMOT嘱託調査員で統合理論物理学者のローズ・マダー博士が、常駐している空間高機動モジュール"シュピーゲル一七"格納庫に隣接する機動調査班-Mobile Observation Team-待機室から、ブリッジへあがって来た。
 「……呼ぶの遅いわぁ! ぼけぇ!!」
 それが居並ぶ群司令部要員への、彼女に云わせれば、雁首ぶらさげているだけの脳みそカラカラな輩への彼女の第一声であった。

(続く)
-2021.12.18.update-

スピンオフ 篇

美少女専艦こおでりあ。

エミリア・カートライト責任編集
美少女専艦こおでりあ。 -Episode:0-

「お疲れさまでした、艦長。今年は如何でしたか?」
「如何も何も、毎年、代わり映えはせんよ」
「まぁ、そう云うモノですからね、あの手の集まりは……」
「私は、元来、あぁ云う宴席の場と云うのはただでさえ苦手なタチなのだ。それでもウチの群司令部主催のヤツはまだマシな方だがな」
「そうなのですか? 小官はこの光宙艦群以外を知りませんので、どこも同じなのかと……」
「群司令の器量次第だな、ウチの群司令はその点では文句のつけようがない。それは確かだ。だが…部下を気遣う余りに…な」
「仰る意味が、小官には判りかねます。部下を気遣うのは上官の義務なのでは……」
「無論、そうだ。だがそれがために群司令が採用されたアレだ……。Break Go!とか云うパーティールール……」
「無礼講のことですか? 」
「そう。それだ……」
「ですが、あれのお陰で誰に気兼ねすることなく、存分に愉しめると一般航務員たちにもウケが良いようですが」
「それは常識を知り、常日頃は礼節を弁えるものの言葉だ。ウチの光宙艦群にはいるだろう? そうではないのが……」
「あぁ、艦長の奥さまのことですか?」
「まだ、妻ではない!」
「まだ?」
「あ、いや、聞き流せ、ただの言葉のあやだ」
「ご命令とあれば……。しかし、確かにそうですな、奥さま、いえ、群旗艦艦長にとってはある種の免罪符を熨斗つきで差し出されるようなものでしょうし……」
「あれではお目付役の鬼の副長も手の出しようがなかろうよ……」
「確かに……。小官などは、本艦での直交代のお陰で宴会場へ出向く日時が群旗艦艦長とはシフトがずれておりますから……。ある意味、これは艦長に感謝すべきことなのかもしれません」
「いや、いつでも替わるぞ? 何なら当直二日分を私が引き受けるから、次は貴官が行ってくれないか?」
「……。当直二日分ですか……。いや、やめておきましょう。群旗艦艦長のみならず、各艦の伝説級のお歴々との宴席は、今の小官には少し荷が重すぎます……」
「そうか? ……ところで貴官は先ほどからずっと何を熱心に読んでいるのだ?」
「あぁ、これは失礼しました。艦長がお帰りになられたので、つい直勤務の引き継ぎもないまま、ズルズルと非番のつもりになっておりました」
「いや、まぁ。緊急時ならともかく、平時にまでガミガミ云うほど、私は綱紀粛正などとうるさいタイプではないよ。特に引き継ぐことも…このチェックリスト以上のことはなかったのだろう?」
「いえ、本当に失礼しました。小官としたことが……」
「うん、まぁ、確かに貴官にしては珍しい。だが、咎め立てする程のことでもない……。それでそれは一体何なのだ? 見たところ、何かの小冊子のようだが……」
「あぁ、そうですね。艦長はこちら側ではありませんからね。ご存知ないのも致し方ないかと……」
「? 何か、気の毒がっている風なもの云いだな? 却って、気になるではないか」
「はぁ、そう捉えられたのであれば、それは小官の不徳の致すところ、と云うヤツですね。まぁ、隠し立てするようなシロモノでもありませんし」
「雑誌の類…ではないな…。いや、待て、この手の表紙の本は昔、どこかで観た記憶があるぞ? あ、あれは彼女の部屋の本棚……」
「は?」
「い、いや! 何でもない……。こちらの話しだ……。で? これはいったい何なのだ?」
「”薄い本”です」
「うん。それは見れば判る。多分、三〇、いや二〇頁もなかろう?」
「あ、いえ。見てくれの話ではなく、こういった類の本の総称が”薄い本”でして……。頁数が何百頁であろうとも、”薄い本”は”薄い本”なのです」
「???ますます判らんな??? 少し見せて貰っても構わないかね?」
「小官は構いませんが……。むしろ、艦長の方が構われるかも…です。読んでも怒らないでくださいよ? ……と云うのが、小官の偽らざる今の心境であります……」
「ますます気になるな……。あぁ、済まんな……。どれ、ん? な!何だ!この表紙は!!!???」
「この本の主役です……。それが何か?」
「あぁ…。その何だ……。少し自意識過剰と誤解されても困るのだが……。これはもしかして私か?」
「もしかしなくても艦長です」
「そ、そうか……。だが……す、少し美形すぎやしないか???」
「ご謙遜を……。無論、絵師の内なる心のフィルターを通したお姿ではありますが……。さすがは公団で三番目の"美系艦長"と謳われているだけあります。副長の小官から申し上げるのも些か僭越と云うか身内贔屓かとは思いますが……。なかなかに、いつもの艦長のこうシュッとした格好良い感じが出ていると思います」
「そ、そうかね?」
「はい。萌えます」
「ん? なにが燃えるって?」
「お気になさらずに、さ、どうぞ遠慮なさらずに中身もズイッとイッちゃってください。はい、是非とも艦長自らの手で……」
「……? ん? “楽園銀河-総受け本-”……。私は何かウケるようなことでもしたか?」
「あぁ……。これは何ですか? 何かのご褒美ですか? よもや小官の目の前で、艦長自らがこの”薄い本”の頁を辿る様を拝める日が来ようとは……。もう、このシチュだけで何杯でもおかわり出来ます。あ、ささ、小官のことなどお気になさらずに、どうぞ先へお進みください……」
「ん……。んんん!!!???」
「くうう。その食い入るように自身の写し絵を見つめ、時として顔を近づけて、絵の細部に宿る紙とインクの甘やかな匂いを存分に鼻腔へと吸い込むさま……。小官は、今ほどこの艦の副長に着任して本当に良かったと心底思えたことはありませんと、何やら感慨深いものが胸の奥から込み上げてまいります」
「……あぁ、副長。その頬を紅潮させて、感情を昂らせている時に申し訳ないのだが……」
「はい……。トイレですか? ティッシュですか? 催されましたか? 小官のでよければ、使われますか?」
「何をだ? いや、ティッシュよりはファスナー付きの袋だ……。今の私は、この胸の奥から込み上げてくる酸っぱいものの方をどうにかしたくなって来ている」
「おや? お気に召しませんでしたか?」
「副長、私は今、心底、残念がる人間の表情と云うものを生まれて初めて見た気がするよ。あ、いや、無論、人には様々な性癖があることは承知しているし、理解したいとも思っている。そして、そこに”違”と叫ぶつもりもない。ないのだが、逆に、どうもこの”薄い本”とやらは私の共感対象、いや、性癖には向いていないようだ……」
「そうですか……。先任次席…いえ、新任の群副司令などは、自分ごときのヘタレ責めとお粗末なモノでは、彼は物足りないだろうに…とある意味、喜んでおられましたが……」
「そうか……。この私がモデルと云う主役が、文字通り、何やら悩ましげな視線と生物学的な部位を絡ませている彼は群副司令だったか……」
「……だけではありませんがね。絡ませているどころか、一部は繋がってますし。あとお相手は今の群副司令だけじゃありませんから。何せ、”総受け”なので」
「副長……」
「はい? 何でしょうか? 艦長……」
「そろそろ、ツッコンでも構わんかね?」
「え? 艦長は受けですよ? 突っ込まれてナンボのキャラと云うのは確定事項です、お約束ですよ?」
「うん……。そう云う物理的に突っ込むと云う意味ではなくてだな……」
「あ、その判ってないのにツッコミ入れたら逆に”何か”を突っ込まれた的な! うん。ベタではありますが良さげですね。なるほど、次の新作のネタに使わせていただいても構いませんでしょうか?」
「次? 次の新作と云ったか? 貴官は???」
「はい。申し上げました。実は締め切りが迫ってまして……。それで、つい、ブリッジで読み耽ってしまった次第で」
「次があるのか? この本は?」
「次と云うか、前もあります。と云うか、需要があるシリーズですから……」
「需要……」
「実際、副司令などは先任の次席幕僚時代からなんだかんだ云って、新作が出る度に、小官たちのサークルに顔を出されて同じ本を四冊は買って行かれますし」
「同じ本を四冊……」
「はい。布教用、保管用、観賞用、実用の四冊です。これも大きなお友だちのお約束ですね」
「……私は今、何か自分で立ち入ってはいけないエリアに片足を突っ込んでしまったのか?」
「そんな大袈裟な話ではなかろうかと。だいいち、小官などからすれば、むしろ、艦長に、ここ迄、免疫がなかったことの方が意外でした」
「むぅ。世の中にはまだまだ私の知らない世界があるのだな……。それに比べれば、ケズレヴでの一件など些細なことのように思えて来た」
「まぁ、こうして無事に帰還光路に乗りましたし……。その意味でも、今度の新刊は盛大にやろうと云う話になりまして」
「あぁ、そうだった。この本は、その新作だか新刊だか知らんが、あれだ? この本は普通に流通しているものなのか?」
「まさか」
「そうか」
「はい。こんなの商業誌でやったらエラいコトですよ、大問題ですよ、生活安全課が来ちゃいますよ」
「おい、待て……」
「まぁ、うちはトップがトップなので、警務隊とは話しがついてますけどね」
「それ、群司令部的にはどうなんだ?」
「あれ? 本当にご存知ないのですか?」
「何をだ? ん? 奥付? いや知らん……。一番最後の頁だと???」
「はい、ウチの責任編集者は群旗艦艦長ですので」
「あぁ、そうか。保安司令部分遣隊の事実上の統括責任者か……」
「ウチは、あ、こっちの船の方のウチと云う意味ですが……。ウチみたいな哨戒艦クラスだと警務隊も群旗艦分駐所のさらに分所で、そもそも常駐員がいませんからね」
「幸いにして、あそこの世話になるような事態も起こってはいないし、私が艦長である限りは起こさせもせんがな」
「はい。印刷と製本はウチが担当ですから。お陰さまで警務隊に踏み込まれる下手を打たずに済んでおります」
「待て、待て……。副長、この本はもしかして非合法的な何かなのか?」
「非合法…ではありませんが、まぁ、多少、艦内の風紀と云う観点から見れば、グレイゾーンに懸かることも稀に……と云いますか……」
「副長……」
「いや、でもご安心を……。何かあっても、全て群旗艦艦長が責任を以って……」
「そうなのか?」
「はい。こう、ギュッとなかったことに……」
「副長……」
「はい。ですから、艦長もこの話のやばそうなトコは見なかった、訊かなかったと云う感じで……」
「……この本は艦長の権限でしばらく預かる……」
「はぁ……。あ、使うんですね?」
「済まん、意味が判らん……。私は辞書は使ったことはあるが、他の本で”使う”と云う用例は知らん」
「ほほぉ、艦長は辞書ですか、あれですか? 思春期の頃にそっと特定の単語を調べては、赤ペンでラインを引いて…的な??? イマドキだと逆にマニアックですね」
「あぁ。副長、そう云えば、この手の本は同じものを何冊かまとめて買うとか云ってたな?」
「はい、保存用、布教用、観賞用、実用ですか? あ、これは、小官の実用分ではないですから、安心してくださっても」
「そうか……。副長……」
「はい、艦長。何でしょうか?」
「直当番、ご苦労だった。少々遅くなったが、現時刻を以って艦の指揮は本官が引き継ぐ。次の非直明けまで待機せよ」
「は。現時刻を以って、直当番を艦長へ引き継ぎ、小官は非直に入ります。お疲れさまでした」
「だがその前に、自室から残りの本を全部持って来て、ここへ置いて行け……」
「え? さすがは公団で三番目にタフですね、まとめ読みして使われるんですか?」
「違う! 没収して全て無期限施錠保管だっ!」
「えぇぇぇぇぇぇ……」
「くれぐれも群旗艦艦長には泣きつくなよ? 今回ばかりは無駄な抵抗だからな?」
「えぇぇぇぇぇぇ……。あ、そう云うプレイですか? 艦長×艦長のWコンボですか??? あ、でも群旗艦艦長との絡みなら、ほら、こっちの頁に……」
「副長、妄想が逞しいな? え?」
「”もうそう”だけに藪を突きすぎたようでございます」

エミリア・カートライト責任編集
美少女専艦こおでりあ。 -Episode:1-

「お呼びでしょうか? 艦長……」
「あぁ、済まんな、副長。非直のプライベートな時間に」
「いえ。どの途、私も食事にしようかと思っておりましたので……。おや? 艦長はB(ヴェー)定食ですか?」
「今日のA(アー)定食は宗教上の理由で食べられんからな」
「あぁ……。無宗教で何か済みません」
「いや、それは気にするな。私たち信仰のある者から見れば、無宗教者もある種の信仰者だ」
「……さすがは艦長。伊達に公団で三番目にジェントルと云われてませんね」
「……もうその云い方はやめてくれないか? だいたい、三大ナントカの類だと三番目は、ほぼほぼ十人十色、人によってまちまちなものだ、それこそ鰯の頭も何とやらだよ」
「それで? 私をお呼びになったのは信仰に関するご質問のためですか?」
「無論、違う。いや、ある意味、そうかも知れん……。正直、私の心のうちでは、今まさに何かが揺らぎつつあるからな」
「意味深ですね」
「逆に貴官、いや今は非直だから、君で良いか? とにかく君にしか訊けそうもない質問だからな」
「伺いましょう」
「……これのことだ」
「あぁ、群旗艦艦長実用写真集ですか」
「正直、先日のアレよりどうして良いか、扱いに困っている」
「使い方ですか?」
「違うっ!……あ、済まん。いや、みんなも気にしないでくれ。私と副長のプライベートな話しだ」
「意味深にとられますよ?」
「あ、そう、そうか???どうも私は君たちへの配慮が足りないようだ」
「いえ、お気になさらずに。いつも艦長にはお世話になっておりますし」
「……それ、言葉通りの意味だよな?」
「はい。言葉通りです、額面通りです。利子までいただいて裏表満遍なく……」
「……。まぁ、良い。とにかく今はこの本だ」
「なかなか映えますよね。群旗艦艦長」
「う、うん。まぁ、それは何歩か譲って認めるが……」
「眼が泳いでますね。ひょっとしてこの本にドキがムネムネですか? ドキ!マサムネですか?」
「誰なんだ? それは? まぁ、おそらく君の考えている意味とは別の意味でな。と云うか、君はそう云う妙に独特な語彙を何処で憶えてくるのだ?」
「ウチウチの集まりですね」
「例のサークルとか云う奴か?」
「ですです。特に移住者母艦群司令の特務宙佐からは教わることが非常に多いです。伊達に歳は食ってないですね、あの婆さん」
「おい…。仮にも特務宙佐に対してだなぁ……」
「あぁ、でも。特務宙佐の方がこうしたざっくばらんなやりとりを望んでおられるものですから」
「そうなのか? ん? そんなに特務宙佐と仲が良いなら例の宴会だって問題なかろうに?」
「いえ、公と私は別ですから。あの宴会は公の場ですので」
「うん……まぁ、特務宙佐の話は良いんだ、今はこっちだ」
「この本が何か? やはり実用と云うタイトルが気になるとか?」
「気になるのはむしろこの本の責任編集者だ」
「あ、奥さま……」
「だから、まだ違うと云っているだろう???」
「まだ?」
「……ま、そこはいつも通り流せ」
「はい」
「これは、この本も、もしかして群旗艦艦長自らが仕切っているのか?」
「はい」
「自分でモデルも?」
「はい。それはもうノリノリで」
「ノリノリ……」
「基本、自撮りですし……」
「こ、こんなあられもない一糸纏わぬ姿でか!?」
「いえ、纏ってますよ。アングルの関係で、単に写ってないだけで」
「! そ、そうなのか???まぁ、それなら良いんだ……。いや、良くないような???」
「これなんかも、ちゃんとメガネと黒タイツは身に着けてますし」
「おい、待て……。こっちの写真、これはそのメガネと…タイツしか身に着けていないのか?」
「黒タイツです。色は重要ですよ? あぁ、肌色原理主義者ですか? 差別は良くないですよ? え? そう云うセンシティブな話題は避けろ? そうですか。まぁ、とにかく初めはダメだろ? と云う話だったんですが……。小道具提供者から、そっちの方がダメだろとクレームが入りまして」
「提供者……。あ、このメガネ、何処かで見憶えがあると思ったら……」
「見憶えも何も……。半径十光年以内でガチでメガネ着けてるレアなメガネっ娘はひとりだけですし」
「そうだな。訊くところによるとあのメガネは大変な値打ちものらしいが。そんな貴重なモノをよく貸して貰えたな」
「同じ"壁"のよしみですね」
「壁?」
「ウチと彼女、CICセンター長のところは大手ですから。もっぱら壁サークルとしてイベントの方も協同で仕切ってますんで」
「済まん、ちょっと何を云ってるのか判らん」
「まぁ、とにかく"眼鏡っ娘∞潤嬢"さんとしては"メガネ"でイきたいなら、"黒タイツ"はデフォだろ?と……」
「デフォ……なのか?」
「デフォです」
「……参考までに訊いても良いか? これ、タイツの下には履いてるんだよな? その……」
「黒タイツです。何をバカなことを訊いてるんですか?」
「……だよな」
「黒タイツの下に何かを履くなんてっ!! そんなぶち壊しなコトをかの群旗艦艦長がする訳がないじゃないですか?」
「……!!!」
「そんなわちゃわちゃ狼狽えるほどのことですか? 良い大人が……???」
「むしろ良い大人だから狼狽えてるんだがな」
「艦長……。この際だからこちらからもお尋ねしますが……」
「な、何だ、急に改まって???」
「艦長はよもや"常識"と"良識"は同義だと思っておられませんか?」
「……。違うのか?」
「全っ! …………然っ……!違いますっ!」
「そこまで全力で否定されるレベルでか?」
「例えば……。このA定食に入っているピーマンですが」
「うん」
「艦長はこれが入っている為にA定食を食べないのですよね?」
「そうだな。私の信仰ではピーマンを食べるのは良くないこととされているからな」
「本当ですか?」
「え?」
「艦長は、このピーマンの眼を真っ直ぐ見て、本当にそう云い切れますか?」
「ピーマンに眼があったとは初耳だ」
「奇遇ですね。私もです」
「おいこら」
「駄菓子菓子っ!!!!!! 私は知っているのです!!!!」
「え?」
「艦長がピーマンを食べない本当の理由をっ!!!」
「え?え?何で? 何を知っている? あ、群旗艦艦長のタレコミか!!??」
「え? 幼児期にピーマンに襲われて噛みつかれたからですよね?」
「おいこら」
「嘘です」
「副長……。非番の時は容赦ないな?」
「とにかく私の時間に公は持ち込まない。それが公団訓練校の教えですから」
「まぁ、先日は公の時間に私を持ち込んでいたがな……」
「ですから、あれは謝ったではありませんか?」
「で? 君は本当に知っているのか? 私がピーマンを食べない理由を?」
「はい。ご推察の通り、群旗艦艦長からお訊きしました。あ、旨いですよ、今日の水耕ピーマン二号」
「そうか。で? 彼女は何と云っていた」
「惚気られちゃいました。寝室ではあんなにご立派さまなのに、食堂ではまるでお仔さまだと」
「君は、今、さり気なく踏み込んではいけないエリアに片足突っ込んでるぞ?」
「寝室の方ですか? 食堂の方ですか?」
「どっちもだ、と云いたいところだが、話の流れとして食堂の方は看過しよう」
「そうですか。寝室ではあんなに美味しく自分をいただく癖に、食堂ではピーマンは苦くて美味しくないから嫌いだ、と駄々っ子のようにムズがるところが、何ともまた可愛いのだともおっしゃってましたね」
「っ!!!!」
「あと、ピーマンが先で信仰は後だとも……」
「わぁぁぁっ!!!!わぁぁぁぁっ!!!!あぁぁぁぁっ!!!!」
「よく見つけましたよね? ピーマンを禁忌とする宗教なんて」
「聴こえないっ!! 聴こえないなぁっと!!」
「でも私も同意です」
「? なにをだ? どっちにだ? どれの話だ?」
「丸っと全部です。萌え萌えキュン♡ですね。ですから……」
「っ!!やめろっ!!何となく察したからそれ以上は云うなっ!!」
「残りのピーマンは今夜のおかずにして美味しくいただきとう存じます」

オアトガヨロシイヨウデ...(・_・ )=C(o;_ _)o…..ベンキョウサセテイタダキマシタ...

-2021.12.20. update

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