映画『怪物』 銀河鉄道の夜へと旅支度をする二人
映画『怪物』を観てきた。
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のオマージュととれる脚本で、子どもたち含め役者たちの名演技に、良質なミステリーを観た満足感が強く、何度も唸ってしまった。
湊と依里
貧しく父のいない湊がジョバンニで、裕福だが母のいない依里はカムパネルラであることは明らかだろう。
山奥に捨て置かれた電車に、二人の手によって宇宙や銀河系を思わせる手作りの装飾が飾られる。
二つの星の横に怪獣が並べられる窓のセロハンの飾り付けは、本作の象徴のようだった。
また、クレジットで感嘆したのは、国語の教科書で扱われていた文章が「銀河」というタイトルであったこと。
湊と依里の間柄は、宮沢賢治と保阪嘉内との関係も想定しているだろうが、
個人的には賢治とトシの兄妹のようなつながりが湊と依里にも感じられた。
クライマックスの台風の日、彼らにとってはビッククランチの日、
依里が風呂場で沈みかかっていたのを湊が救い出した。
銀河鉄道の夜では、カムパネルラは川に落ちて行方不明になってしまう。
一方、映画では、依里は湊の手によって水から引き上げられた。
見える部分だけを受け取れば、依里は死を回避したことになる。
あるいはこれは、彼らが語り合っていた生まれ変わりを意味するのかもしれない。
光の中へ駆け出す二人は、現世にいるのかも定かではない。
柵の取り払われた線路への入り口のように、二人は全てから解き放たれた。その先には彼らだけのイーハトーブが待っているのかもしれない。
生と死の世界に別れた銀河鉄道の夜の二人に比べたら、
生まれ変わって一緒にいることができた湊と依里にこの上ない幸せを感じた。
もっとも怪物に近い存在
ミスリードする気満々の登場人物(台詞のチョイスにそれはないだろと突っ込んでほしい)と演出(前半はアンジャッシュのコントかと思った)の中で、
もっともミスリードであったのは田中裕子さん演じる校長だった。
登場人物たちは奇怪な行動にも次第にそれらしい理由が見えてくるのだが、
校長だけは不可解な行動が、煮え切らない解釈の域を出ないままで不気味だった。
結局、ミスリードするだろうというミスリードに終わった。
「あなたは人間ですか?」と詰め寄る湊の母に
「人間です」と答える校長は、滑稽で、弱々しく、不気味で、
作中でもっとも怪物に近い。
坂元さんが二律背反にある人間の描写がお上手だというのもあるが、演じきれる田中さんも凄い。
安藤サクラさんですら食われているなと感じた。
他の役者たちは、非常に考えていて役を深く理解しているのだなと感じさせる演技だったが、
田中さんだけは「わかっている」と感じさせる。
理解の範疇を超えた感覚の域にいるようで、圧倒的な存在感だった。
校長役の田中さんと湊役の黒川想矢くんとの音楽室のシーンは、一番好きだ。
贖罪のようにうつむき、床の汚れを削る清掃員のような姿から一転、高らかにホルンを吹きならす校長は怪物を人間たらしめた。
不協和音に囲まれながら二人の演技はとても調和がとれている。
誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない。誰でも手に入るものを幸せって言うの。
校長の幸福に関する言葉は、賢司の言葉のようであった。
怪物なんていない。
でも、怪物なんて簡単に生み出せる。
本作に内包される社会問題は多いが、何らかのジャンルとして括られずに、一作品としてこれからも評価され続けてほしい。
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